「他力本願」というとすごくイメージが悪く、自らは何もせずに他の人(もしくはコト)に委ねる様(さま)のように思いがちだが、仏教的には傲慢さや自我から開放された謙虚な気持ちを表現しているという。
仏教的には「自力」は自分だけの力で何でも成し遂げているかのように錯覚している様(さま)をさし、親鸞上人は「他力とは、如来の本願力なり」といわれている如く、他力とは本来、自分の力であれこれと処置したり、取りはからったりしないことで、自己のはからいを捨てて、仏の手にすべてを任せること、これを「他力」というと言っている。
「自力」は、自分の修行の力でさとりを得ようとすることなどと考えるのは間違いで、「自力」は、“自分の力”“己の力”と考えるのではなく、“自(おのずか)ら備わっている力”、“生まれながらに頂戴している力”と理解すべきだという。
なんとも奥が深い。言葉の本来の意味を履き違え、現代人が勝手に解釈をしている言葉がやはり増えているのだろう、もっと本質を見つめ、私達はその言葉の持つ語源を知り、その言霊を大切にする必要がありそうだ。
仏教的には「自力」は自分だけの力で何でも成し遂げているかのように錯覚している様(さま)をさし、親鸞上人は「他力とは、如来の本願力なり」といわれている如く、他力とは本来、自分の力であれこれと処置したり、取りはからったりしないことで、自己のはからいを捨てて、仏の手にすべてを任せること、これを「他力」というと言っている。
「自力」は、自分の修行の力でさとりを得ようとすることなどと考えるのは間違いで、「自力」は、“自分の力”“己の力”と考えるのではなく、“自(おのずか)ら備わっている力”、“生まれながらに頂戴している力”と理解すべきだという。
なんとも奥が深い。言葉の本来の意味を履き違え、現代人が勝手に解釈をしている言葉がやはり増えているのだろう、もっと本質を見つめ、私達はその言葉の持つ語源を知り、その言霊を大切にする必要がありそうだ。