議論においてよく言われるのが、「説明責任を果たしていない。」とか「十分周知されていない。」、「議論が十分尽くされていない。」というものです。確かに、「十分説明されていない。」と言われれば、説明の多寡は主観的なものであり判断が難しいため、おおむね反論の枕詞としてつかわれることが多いのです。情報の非対称性や主観的な判断を乗り越えるような議論はなかなかできないのが現実です。さらに、利害や感情がそこに入り込むことになれば、ますます混乱した議論しかできないことになってしまいます。
そのような状況に、議論を尽くすために「説得力」を持てとよく言われますが、果たして政治的議論の中で説得力が必要かどうか疑問になることさえあります。当然のことながら、自分自身に「情熱」がなければ説得力ある議論はできませんし、自ら判断するために議論は当然必要であることは間違いありません。最終的には自らの判断でということになりますが、その際に忘れてはならないのは「責任」ということではないでしょうか。
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