岐阜市議会の構成は自民党が絶えず過半数を占め、与党として力を持ってきました。そのため、国の選挙や首長の選挙においても力を発揮し、それはとりもなおさず、岐阜市民に郷土愛意識の保守的な考えが強く、リーダーシップがなくても強烈な団結力によって地方政治を推進してきたという歴史があります。おそらくこのようなことは、岐阜市のみならず日本全体を覆っていた政治体制ではなかったかと思います。
高度成長と相まって、その推進力が多様な意見を吸収しながら同一の方向に向かっているときは、問題にならなかったといえます。しかし、一度壁にぶつかると、その多様な意見を吸収することが難しく組織体分裂を起こさざるをえません。昨年の世間交代後の自民党の分裂がそうでしょうし、今二分されている岐阜市の自民党もその状況にあるといえます。
しかし、このような分裂は不健全なことでしょうか。多様な意見を吸収するシステムとしての民主主義は、体制翼賛的な状況であってはいけないし、議会の役割そのものは、議論し民意を集約しながら政治を行うという本来の姿にあるべきです。特に、地域主権が進められようとしている将来において、意見集約が十分できない議会制民主主義は機能不全を起こすと考えられます。
権力を得るための数の論理であってはいけません。多様な意見を尊重しながら、意見集約の結果の政治権力であるような考え方をしない限り、良い政治結果を生むことにはならないでしょう。たとえその結果が悪くとも、その過程をしっかりと踏まえていれば、選択が間違ったということになっても許されるということになります。それは民主主義の欠点でもあり、民主主義が政治システムとして最上のものではないが、今ある政治システムの中では最高であると言われるゆえんです。
このように分裂が決して悪いものであるとは言えません。前にもこのブログで述べたと思いますが、議論できる単位の分裂や意見を集約するための分裂はあって当然であり、多少の時間を要しても難局を乗り切るためには、組織の試行錯誤は必要であるような気がしてなりません。時代錯誤も甚だしい単に昔の団結心だけを懐かしがるような時代は終わったと言えるでしょう。繰り返しますが、権力を握ることだけの組織化が優先されてはなりません。
以上