青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

串焼きとちゃんこ 「かぶき」

2008-12-07 | ぶらり散歩

東京にあるお食事処「串焼きとちゃんこ かぶき」を、ご紹介します。

お?名前でピンと来た人がいれば大したものです。店内は平日にも関わらず超満員の大観衆(満席)。店長のカブキさんはカウンターの中で仕事をしながらお客さんの話に耳を傾け、時折嬉しそうに微笑みながら、話に加わります。時折見せてくれるジャイアント馬場さんの口真似は絶品です!(笑)写真をお願いしてカメラを向けると、絶妙のタイミングでファイティング・ポーズ!このサービス精神こそがザ・グレート・カブキとして全米を震撼させるほどの人気を勝ち取ることが出来た秘密です。

彼を知らない人もいるかもしれませんが、80年代、ヌンチャクを操り、毒霧を吹く東洋系のヒールキャラクターで、アメリカでは猪木・馬場よりも有名と言っても過言ではないカブキ・ブームを巻き起こした人がこの人です。

僕は大昔、この人が日本プロレス時代(猪木も馬場も一緒だった力道山が作った団体)にサインを貰っています。僕は「日プロ時代に、カブキさんのサインをもらってるんですよ」と、昔もらったサインを出すと、サインの入った日本プロレスのパンフレットを、懐かしそうに嬉しそうに手に取って下さり、いろいろなお話を聞くことが出来ました。

ザ・グレート・カブキの話

“夢”ですよ。今、私は夢という言葉が好きなんですが、「夢がなければ現実にはならない」じゃないですか。自分の抱いた夢がどういうふうに現実になっていくか。そういう意味では、やりたいと思ったことをやれたことは幸せなんじゃないかな。

プロレスラーになることに対する不安はなかったですよ。ただ日本プロレスに入門を断られたらどうしようと、それだけです。当時は今よりずっとプロレスの敷居は高かったんです。でもやっぱり夢に向かって進むからには、恐怖心はないです。当たって砕けろって感じでした。それが14歳ですから中学3年生の頃です。

入門してから辛かったことはなかったですか? と、よく聞かれるんです。特に日プロの練習はとてもハードなことで有名でしたから。でも中学校を出て、何も知らないことが逆に良かったんですよ。「こういう社会はこういうものなんだろうな」って割り切れたんです。 だからいくら殴られても、辛いとかはない。例えば失敗してゲンコをもらったら「次からはこういうことはしちゃダメなんだ」ってことがわかるでしょう。そうやって覚えていけばいいんです。私が入門してから1年半ぐらいの間に2~30人は入って来たけど、結局は誰ひとりとして残らなかった。そのあとに入って来たのが、ラッシャー木村、マサ斎藤、サンダー杉山選手たちですよ。彼らが入って来て、やっと私に後輩ができたんです。だから同期がいないんですよ。同期の入門者の中には、私と違って格闘技の経験者もいたんですけど、練習見ただけで逃げちゃったりね(笑)。

このお店は、引退を決めてから次になにをやりたいかを考えたときに、焼き鳥屋がやりたいなと思ったからです。なんか気軽でしょ?お客さんの相手をしてね。そういうところはプロレスと一緒だから。まあ、実際にはお店の経営とプロレスではノウハウはまったく違うんですけど、そこは全然、心配はしませんでした。横にいいパートナーがいたらかね。私は体力を売ればいいわけ。家内が知恵を売ってくれればいいんですよ。

オープンしてからの苦労話?それはプロレスをやっているほうが楽だなと思いました。仕込みとか、お客さんへの対応にしてもね。それができるようになるまでには、私は3年は掛かると思っているんです。自分ができないうちは人に任せることもできない。だから3年間ぐらいは自分で全部、きちんとできるようになろうと思ってね。それが今キツイけど、だからといって止めるわけにはいかない。 何事も始めたら最後までやらなきゃ。商売を始めたからには、プロレスを35年間やってきたのと一緒で、一生のものにしていかないとね。だからもう次の店も考えているんです。やっぱり夢がありますから。その夢に向かってまた冒険しなくちゃならないし、それに華を咲かせなくちゃいけないんですよ。

帰る際には、しっかりと現在のサインを頂戴しました!「夢」の一文字がいいですね!