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辺野古争点、くっきり 移設、4氏の態度鮮明 沖縄知事選、来月16日投開票

2014-10-02 19:31:29 | シェアー

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11380766.htmlより転載

辺野古争点、くっきり 移設、4氏の態度鮮明 沖縄知事選、来月16日投開票
2014年10月2日朝日新聞

沖縄県知事選(30日告示、11月16日投開票)で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の移設計画をめぐる4人の立候補予定者の主張が鮮明になっている。推進から反対まで、その違いはかつてないほどだ。告示まで1カ月を切り、移設問題を単一争点とする選挙戦の色合いが強まる。

 辺野古争点、くっきり 移設、4氏の態度鮮明 沖縄知事選、来月16日投開票  2014年10月2日朝日新聞  http://digital.asahi.com/articles/DA3S11380766.html  沖縄県知事選(30日告示、11月16日投開票)で、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の移設計画をめぐる4人の立候補予定者の主張が鮮明になっている。推進から反対まで、その違いはかつてないほどだ。告示まで1カ月を切り、移設問題を単一争点とする選挙戦の色合いが強まる。     「仲井真知事の(辺野古の)埋め立て承認について、県民の審判を受ける」。翁長(おなが)雄志氏(64)は9月29日、知事選出馬のため那覇市長の辞職願を出した後、報道陣に語った。翁長氏は普天間飛行場を同県名護市辺野古に移す計画を「断固阻止する」と訴え、共産党から自民党系那覇市議までの広い支持を受けて知事選に挑む。     これに対し、翁長氏の挑戦を受ける現職の仲井真弘多(ひろかず)知事(75)は9月28日に名護市で開かれた会合で「『反対』と言う方が出て、人気があるようなないような不思議な現象だ」と語った。辺野古移設を「現実的な解決の方向」とする仲井真氏は移設推進を明確にし、安倍政権や自民党の支援を取りつける。     さらに、別の主張を掲げる2氏が絡んで、移設をめぐる主張の違いは一層鮮明になった。下地(しもじ)幹郎・前衆院議員(53)は「県民投票で決着させる」。喜納(きな)昌吉・元参院議員(66)は移設反対に加え、「埋め立て承認を撤回する」と具体的な手法も主張する。     普天間移設が浮上した1996年以降、4度の知事選が行われたが、候補者の主張がここまで明確に分かれることはなかった。     仲井真氏は移設について、初当選の2006年の知事選では「現行案には賛成できない」、前回の10年には「県外移設を求める」と公約。移設問題の争点化を微妙に避けてきた。     だが昨年末、移設に必要な辺野古の埋め立てを自ら承認し、政府はすでに海底のボーリング調査を始めている。移設反対の翁長氏に対抗するため、移設推進を鮮明にし、「普天間問題の解決」を前面に出す戦略に転じた。     当初は「移設阻止」を唱えながら具体策には言及しなかった翁長氏も、喜納氏が「埋め立て承認の撤回」を掲げると、最近は「撤回・取り消しも視野に入れる」と踏み込んでいる。     これまで知事選の論点になってきた地元振興については、仲井真、翁長両氏ともに10年に県が作った総合計画「沖縄21世紀ビジョン」を継承するとして、違いが乏しい。それもあって、移設の是非をめぐる論戦が過熱している。     県議の一人は「選挙が迫ればお互いもっと発言がとがる。県民が移設問題への意思表示をしやすい選挙になる」と語る。     ■安倍政権は静観の構え     安倍政権は、辺野古移設でヒートアップする沖縄とは一線を画す。移設を粛々と進めることで、選挙結果に関係なく移設が進むことを示し、選挙戦への影響を最小限に抑えたい考えだ。     沖縄基地負担軽減担当を兼務する菅義偉官房長官は9月29日のテレビ番組で、「去年暮れに仲井真氏が(埋め立て許可に)動いてくれ、一つの段階は終わった。もう工事に入っている」と強調。1日の衆院代表質問でも、安倍晋三首相は「普天間の一日も早い返還こそが地元の願いだ」と語った。(山岸一生)    奇怪な喜納昌吉の知事選出馬劇 - 背後に見える小沢派の蠢動と思惑  http://critic20.exblog.jp/22654336/  先週(9/16)、民主党沖縄県連の決定で喜納昌吉が知事選への出馬に走り、その動きを植草一秀や山本太郎が援護して問題になっている。喜納昌吉の言い分によると、本命候補である翁長雄志が辺野古埋め立ての承認撤回を公約しておらず、そのため支持できないので自らが立候補するのだそうだ。これを聞いて、喜納昌吉の動機に思いを巡らせたとき、最初に思い浮かんだのが、2月の都知事選での左翼の選択と行動だった。すなわち、組織の維持と保全のためではないか、という着眼である。翁長雄志は保守と革新の両方から幅広く支持を受けていて、公明の票も取り込む情勢になっている。普通に考えれば、民主党の沖縄県連の態度としては、翁長雄志の支持に回り、正式な推薦はしなくても陣営の末端に参じ、当選後は県政与党の一角を占めるものだ。今、沖縄には民主党の国会議員が一人もいない。もともと、本土と較べて共産や社民(社大)が強い沖縄では、新参の民主の地盤が脆弱だ。喜納昌吉も、2012年の衆院選での落選後は浪人の身で、2013年の参院選にも出馬できなかった。政治家というものは、選挙に出ておかないと有権者に忘れられてしまうのだと、以前、とくらさんが語っていた。国政選挙は2年後の2016年までない。今度の知事選は沖縄を揺るがす大きな政治になる。ここで何もせず、出番もなく、指をくわえて後ろから見ている役割になると、弱体な民主の地盤はさらに干からびる。

 「仲井真知事の(辺野古の)埋め立て承認について、県民の審判を受ける」。翁長(おなが)雄志氏(64)は9月29日、知事選出馬のため那覇市長の辞職願を出した後、報道陣に語った。翁長氏は普天間飛行場を同県名護市辺野古に移す計画を「断固阻止する」と訴え、共産党から自民党那覇市議までの広い支持を受けて知事選に挑む。

 これに対し、翁長氏の挑戦を受ける現職の仲井真弘多(ひろかず)知事(75)は9月28日に名護市で開かれた会合で「『反対』と言う方が出て、人気があるようなないような不思議な現象だ」と語った。辺野古移設を「現実的な解決の方向」とする仲井真氏は移設推進を明確にし、安倍政権自民党の支援を取りつける。

 さらに、別の主張を掲げる2氏が絡んで、移設をめぐる主張の違いは一層鮮明になった。下地(しもじ)幹郎・前衆院議員(53)は「県民投票で決着させる」。喜納(きな)昌吉・元参院議員(66)は移設反対に加え、「埋め立て承認を撤回する」と具体的な手法も主張する。

 普天間移設が浮上した1996年以降、4度の知事選が行われたが、候補者の主張がここまで明確に分かれることはなかった。

 仲井真氏は移設について、初当選の2006年の知事選では「現行案には賛成できない」、前回の10年には「県外移設を求める」と公約。移設問題の争点化を微妙に避けてきた。

 だが昨年末、移設に必要な辺野古の埋め立てを自ら承認し、政府はすでに海底のボーリング調査を始めている。移設反対の翁長氏に対抗するため、移設推進を鮮明にし、「普天間問題の解決」を前面に出す戦略に転じた。

 当初は「移設阻止」を唱えながら具体策には言及しなかった翁長氏も、喜納氏が「埋め立て承認の撤回」を掲げると、最近は「撤回・取り消しも視野に入れる」と踏み込んでいる。

 これまで知事選の論点になってきた地元振興については、仲井真、翁長両氏ともに10年に県が作った総合計画「沖縄21世紀ビジョン」を継承するとして、違いが乏しい。それもあって、移設の是非をめぐる論戦が過熱している。

 県議の一人は「選挙が迫ればお互いもっと発言がとがる。県民が移設問題への意思表示をしやすい選挙になる」と語る。

 

 ■安倍政権は静観の構え

 安倍政権は、辺野古移設でヒートアップする沖縄とは一線を画す。移設を粛々と進めることで、選挙結果に関係なく移設が進むことを示し、選挙戦への影響を最小限に抑えたい考えだ。

 沖縄基地負担軽減担当を兼務する菅義偉官房長官は9月29日のテレビ番組で、「去年暮れに仲井真氏が(埋め立て許可に)動いてくれ、一つの段階は終わった。もう工事に入っている」と強調。1日の衆院代表質問でも、安倍晋三首相は「普天間の一日も早い返還こそが地元の願いだ」と語った。(山岸一生)

 

秘密保護法 12月10日施行へ/国民不安置き去り

2014-10-02 19:21:56 | シェアー

東京新聞 TOKYO WEB http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014100202000154.htmlより転載

国民不安置き去り 秘密保護法 12・10施行へ

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 政府は一日、国民の「知る権利」を侵す恐れがある特定秘密保護法を十二月十日に施行する方針を決めた。法の運用基準は、今月十日に閣議決定する。同法は、政府の意のままに秘密が指定され、情報に迫ろうとした市民や記者も厳罰に問われる懸念がある。国民の不安や懸念を置き去りにしたまま、施行に踏み切る。

 世耕弘成官房副長官は一日の記者会見で「施行は十二月十日とする方向で、与党、政府部内で調整中だ」と説明。世論の反対が依然強いことには「法で決まった内容に沿って粛々と(準備を)進め、その過程で国民への説明責任を果たし、理解を深めていきたい」と述べるにとどまった。

 秘密保護法は(1)防衛(2)外交(3)スパイ活動防止(4)テロ防止-の四分野で、重要な情報を特定秘密に指定。どの情報を指定するかの判断は各行政機関の長に委ねられ、秘密の範囲が際限なく広がる懸念がある。公務員や民間人が漏えいした場合、最高懲役十年の厳罰。漏えいを促した側は最高懲役五年が科される。秘密の指定期間は原則三十年までだが、六十年を超えて指定できる例外もある。

 政府は昨年十二月の法成立後、有識者による「情報保全諮問会議」を三回開き、運用基準案を策定。七~八月の運用基準案に対するパブリックコメント(意見公募)では、異例の約二万四千件の意見が寄せられ、政府は二十七カ所を手直ししたが、五年後の見直し規定など微修正にとどまった。意見では、法律そのものを問題視する内容も半数以上あった。 (金杉貴雄)


国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革”

2014-10-02 18:17:08 | シェアー

LITERA/リテラhttp://lite-ra.com/2014/10/post-508.htmlより転載

2014.10.01

国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革”

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文部科学省ホームページより


 大学進学率が50%を超え、真理の探究にとりくむ象牙の塔という大学のイメージはすでに過去のものとなった。今や大学は、そのあたりの民間企業も真っ青な、徹底した経済の論理による支配が強まっている。

 しかし、まさかここまで、と関係者を震撼させたのが、最近、文部科学省が国立大学に示した方針だ。この問題を伝えた数少ない報道である『東京新聞』9月2日付朝刊の「国立大から文系消える?文科省が改革案を通達」と題された記事ではこう紹介されている。
 
「文部科学省は先月、同省の審議会『国立大学法人評価委員会』の論議を受け、国立大の組織改革案として『教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換』を各大学に通達した」

 通達の文言を素直に読めば、たしかに記事タイトルどおり、文系を廃止して理系への転換を促しているとしか読めない。ところが同記事中で文科省担当者は「今回の通達は文系学部の廃止や理系への転換を提案しているのではない。先に示された役割に基づいて、改革してほしいだけだ」と語っている。あたかも国の強制ではなく、大学の自主性に委ねているかのようだ。しかし、担当者の言葉に登場する「先に示された役割」が曲者なのだ。

 たとえば、横浜国立大学教授の室井尚氏は自身のブログに「国立大学がいま大変なことになっている」という記事を投稿(5月15日)。すでに今回の通達が先どりして実質化されている様子を生々しく報告し、一部では話題になっていた。

「昨年度6月に閣議決定された『国立大学改革プラン』に従って、呆れるほどスピーディに平成25年秋にはほとんど決定された『ミッションの再定義』によって各国立大学や各学部が目指すべき『ミッション』が、文科省によって一方的に各国立大学に通達された。『各大学との意見交換によって』と書かれてあるが、実際にはそうではない。文科省からすでに文言がほとんど書き込まれ、自主的な数値目標だけが空欄になった『ミッション』が一方的に各大学に突きつけられたのである」
「この表の2,3,4には埼玉大学、千葉大学、横浜国立大学と関東一円の地方大学が並んでいるが、文科省がこれらの大学に求める『ミッション』は共通している。つまりは理工系か医療系に力を注げということだ。実際、文科省の担当者からは多数の私学がある神奈川県では、教育コストがかからない文学部系は私学に任せて、理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われているとの発言があったそうで、その結果ぼくたちが所属している『人間文化課程』は、実態は全く異なるのに単なる教員養成系の『新課程』と一緒くたにされて『廃止』と告げられてしまった(リンクの後ろの方に書いてあります。ほんの二行だけ。これも最初っからこう書き込まれていた)。文科省が国立大学の課程・学科を直接『廃止せよ』と言ったのである。」(上述の室井氏のブログより)

 文科省の露骨な指示によって、すでに国立大学での教員養成系、文系の廃止は着実にすすめられているのだ。

  福井県でも、県下でたった2つしかない人文社会科学系のひとつである福井大学地域科学課程の廃止が決定し地元に波紋を広げていると福井新聞が8月6日に伝えているところからも、事態が相当進展していることは間違いない。

「国立大学」は2004年に設置形態が変更され、国立大学法人という独立行政法人となった。文科省のHPなどには、大学の自主性を高め柔軟な教育研究をすすめるためと謳われているが、国からの運営費に頼らざるを得ない財政構造になっていることから、結局、国すなわち時の政府の方針に逆らうことができないのが実際だ。

 こうした、大学に市場原理が導入されカネをうまない学問を切り捨てていく流れが、いっそう加速しているのには、もちろんあの男の登場が背景にある。

 あの男、安倍首相は5月6日のOECD閣僚理事会基調演説でこう語っている。

「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています。」

 安倍にとって「学術研究を深める」ことなどまったく無意味で、社会のニーズにあった職業に就けるための教育こそが必要だと考えられている。ほとんど大学教育そのもの否定である。大学の専門学校化といってもいい。象徴的にいえば、文学部の存在意義など見い出しようのない教育観、学問観である。

「人間とは何か」「社会はどうあるべきか」そしてそもそも「学問とは何か」を問い、先人の知的蓄積を継承し、未来を構想する知的活動を「教養」と呼ぶことにしてみよう。こうした教養を欠いたままで、科学技術の発展を追求することがどういう結果を招くのか。つい最近、この社会はそれを見てしまったのではなかったのか。

 吉田昌郎所長が東日本壊滅の状況を想起せざるを得なかった3.11福島原発事故の惨事こそ、短期的な経済の論理だけに追随し、人類史や文明史のなかに科学技術を位置づけることができなかった、大学の貧困、学問の貧困が将来した結末なのだ。

 また、経済の論理に支配される日本の科学界の惨憺たる研究環境を露呈したのがSTAP論文騒動だ。小保方晴子氏は、学問や研究の何たるかについての見識を深める契機も与えられずに5年任期の研究員ポジションにつき、任期内に結果が出せなければ地位を失うギリギリの状態に置かれていた。一方、笹井芳樹氏の死亡をめぐる報道のなかで、企業の出資により総工費40億円近い「笹井城」とも呼ばれる研究施設の建設が進んでいることが伝えられた。産官で莫大な投資を行い、短期的に回収できる成果をあげる仕組みをつくり、研究者を追い回しているのが、科学界の実状なのだ。

 哲学者カントは『学部の争い』(1798年)で大学論を展開した。大学部の学部には、神学部、法学部、医学部上級学部とその基礎をなす哲学部に分類される。上級学部は社会的有用性を持ち国家と結びついているが、国家から自由な哲学部こそが学問の真理性を判断することができると述べている。

 時の政権の意志と経済的利害だけで大学が統制され、とりわけ人文社会科学という人間や社会のあり方を考察する学問がないがしろにすることは、知的営為そのものの否定である。
 
「大学改革」の名の下に進行する文化破壊と知的荒廃の様をもっと多くのひとびとが知る必要があるだろう。
(村田哲志)

 

国立大学がいま大変なことになっている

2014-10-02 17:18:49 | ご案内

http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2014/05/index.htmlより転載

2014.05.15

国立大学がいま大変なことになっている

  新聞やテレビなどであまり報じられることはないのだが、現在国立大学は安倍内閣による大変な「改革」の波に曝されている。

 「スピーディな意志決定」を売りにするこの「ヤンキー政権」は、自民党が過半数を握っているこの時期に一気に彼らの言う教育「改革」を進めるつもりらしい。

 ろくな議論も反省も洞察もなく「気合さえあれば何でも解決できる」という斎藤環が言うところの社会の「ヤンキー化」は、憲法解釈の変更ばかりでなく、ついに大学教育の現場まで飲み込もうとしているのだ。その戦略的に畳み掛けるような政策の押し付けはある意味見事ですらあるが、根本的に間違っている政策なので、これによって国立大学、もしくは日本の大学教育全般が受けるダメージも半端なものではないだろう。元々腐りきっていてかろうじてふらつきながらも踏ん張っているような日本の国立大学が、これで最後の支え棒を奪われて崩壊してしまう危険性も高い。

 ひとつはこれである。

 学校教育法と国立大学法人法の改正だ。既に閣議決定されたこの法案は、すんなりと国会を通過して来年の4月から施行されることになっている。各大学の教職員組合などを中心に反対運動もいくつか起こっているがそのこと自体がほとんど報道されていない。

 これによって、教授会からは大幅に権限が奪われ、人事権もすべて学長に委ねられる。経営協議会も外部の委員を過半数入れなくてはならないことになる。

 産業界から「経営のプロ」を招き入れ、大学教育の民営化・効率化を通して「グローバルな競争力」を高めるのがその目指すところらしい。

 すべての「ガバナンス」を学長に集中させるとなると、国立大学の営利企業化、あるいはブラック企業化を危ぶむ声も出てきそうだが、実はそうではない。

 こんなに権限を集められた「学長」はとてつもなく不幸な人なのだ。あるいは、とてつもなく頭の悪い人でもなければ、これからは学長なんて務まらない。なぜなら国立大学がこれからやらなくてはならない「改革」はあらかじめ政府/文科省によって最初から道筋が決められているからだ。権力が集中させられた「学長」や経営陣に求められているのは、政府が決めたこれらの「ミッション」を忠実に履行することにすぎない。これをうまく成功させられなかった学長は責任を取って辞任することを求められるかもしれないが、ミッションを決めた文科官僚およびその事業をアウトソーシングされたどこかの総研(いまや政府の仕事はほぼ金融系などの総研にまるごと委託されている)は一切責任を取ることはない。その頃には退陣してしまっているだろう現在の首相や閣僚も同様である。誰も責任を取らないままにすっかり廃墟化した大学の死体だけが残るのではないだろうか? まあ、その頃にはぼくももう現役ではないだろうが……。

 だから、実はこの法改正に対する反対運動もピントがずれている。問題は大学の自治や教授会の自治の破壊などではないのだ。なぜなら、そんなものはもう20年前にとっくの昔に破壊されている。国立大学が政府や文科省の言いなりの奴隷になるという基本的な流れはこれまでもこれからもちっとも変わらない。(ちなみに僕は電子版の署名運動という手続きは信頼していませんのでこれに電子署名はしません)。

 昨年度6月に閣議決定された「国立大学改革プラン」に従って、呆れるほどスピーディに平成25年秋にはほとんど決定された「ミッションの再定義」によって各国立大学や各学部が目指すべき「ミッション」が、文科省によって一方的に各国立大学に通達された。「各大学との意見交換によって」と書かれてあるが、実際にはそうではない。文科省からすでに文言がほとんど書き込まれ、自主的な数値目標だけが空欄になった「ミッション」が一方的に各大学に突きつけられたのである。あまりに迅速であるために国立大学の教職員が唖然としているうちに、続く矢が次から次へと飛んできた。たとえば、これ。

 「ミッションの再定義」に基づいて改革プランを申請した大学には補助金を与えて(最初に東大・京大といった強化大学が指名され、うちのような弱小国立大では第三次補正予算で2月末という年度ぎりぎりの時期に示された)、それを遂行することを強く求める。一般運営交付金が毎年縮減されているので、国立大学はこのような補助金なしには生き残れないようにされている。横浜国立大学の場合、3億数千万円の補助金を毎年与えられここに書かれている「ミッション」を迅速に遂行するように求められた。逃げ道はどこにも残されていない。
 
 この表の2,3,4には埼玉大学、千葉大学、横浜国立大学と関東一円の地方大学が並んでいるが、文科省がこれらの大学に求める「ミッション」は共通している。
つまりは理工系か医療系に力を注げということだ。実際、文科省の担当者からは多数の私学がある神奈川県では、教育コストがかからない文学部系は私学に任せて、理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われているとの発言があったそうで、その結果ぼくたちが所属している「人間文化課程」は、実態は全く異なるのに単なる教員養成系の「新課程」と一緒くたにされて「廃止」と告げられてしまった(リンクの後ろの方に書いてあります。ほんの二行だけ。これも最初っからこう書き込まれていた)。文科省が国立大学の課程・学科を直接「廃止せよ」と言ったのである。

 ちなみに人間文化課程は人気も上々で、学生の満足度も高く、普通なら廃止させられるようなことは絶対にありえない優良学科である。

それでも私学の多い関東一円には国立大学文系の学部や組織は必要ないので廃止せよということなのだ。文学部なんて一種の贅沢品なのだから私学の高い授業料を払える学生だけで十分だと言うわけである。そこに大学の意見を差し挟む余地は一切ない。今回の国立大学法の「改正」はこういう道筋で進められているのである。だから、学長の独裁が心配なのではない。そうではなく、その背後にある政府・文科省そして彼らの政策に影響を与えている新自由主義系の政策決定者たちによる大学教育や大学文化の暴力的な破壊が心配なのだ。そして、その裏には国立大学どころではなく学生減少で経営そのものが危うくなってきている私立大学の圧力があったこともうかがえる。まあ、少子化に苦しむ私学も必死なことはよく分かるが、それにしてもこの極端な「ミッション」によって国立大学から人文系の学部や学科はどんどん縮減され、最終的には横浜国立大学は東工大に吸収合併されてしまうのではないかと危惧される。

 考えてみれば、ぼくが国立大学に来た92年、いやその前の80年代後半から、この国の大学教育政策は一貫して間違った道を歩んできた。87年に設置された大学審議会が91年に出したいわゆる「大学教育の大綱化」は、各大学独自の教育・カリキュラム改革を推進させ、その結果約五年で教養部・一般教育部はほとんどの大学から姿を消した。80年代のレーガン、中曽根政権が推し進めた新自由主義経済学の影響が強いこの改革は、要するに大学教育に競争原理を持ち込むことにより、お互いに切磋琢磨することによって教育の質や効率を高めるという効果を狙っていた。だが、なかなか思い通りにはならなかった。教養部廃止にしても隣がそうするのを見て一律に同じことをしただけのことである。

 改革が思い通りにいかない文科省はさらに締め付けを強め、そして2004年に国立大学法人化が実施され、国立大学は企業の形態を取ることになった(のくせ、文科省による運営交付金を武器としての国立大学支配は強まる一方である。公務員ではなくなったはずなのに、震災時の国家公務員の給与の一斉引き下げには強制的に参加させられた。またいつの間にか年金も一元化され、ぼくが65歳になるころには「ねんきん特別便」の試算によれば文科省共済だけだと30年弱務めても月15万円程度しかもらえない。もはや公務員イジメですべての特権が奪い取られて、安い給料・低い年金という末端知的労働者でしかないのだ。もちろん、更にそれより悲惨な退職金すらもらえない非正規職員や年俸制年期付き教員がどんどん増やされる)。こんなに長い間間違い続けてきたので、もはや何が間違いなのかすらも見えなくなってしまっている。

 これまでも複数の論者によって論じられてきたように、大学に対するこのような政策は根本的に間違っていた。短期的な数値目標の設定や、競争原理の導入は、大学教育の質の向上に一向に結びつかず、大学教員は無数の計画書や評価書の作成に忙殺され、研究を行う時間を大幅に奪われ、科研費や競争的資金を獲得するための申請書づくりに追われるようになった。民間企業の論理を大学に持ち込むことが間違っていたばかりか、この数十年の世界を見れば分かるように根本的に新自由主義経済学の予測自体が間違っていたのである。大学は年期付きの非正規労働者を大量に雇用し、教職員間の格差が広がり、大学で働く誇りさえも奪われていった。財界、産業界の要請に応え「日本経済発展のため」に奉仕しなくてはならない都合のいい若年労働者供給機関にされてきたのだ。

 だが、余りにこうした考え方が広がってしまったために、共産党や社会民主党のような弱小政党を除けばそのことを認めようとしないで、「改革の不徹底」をその不成功の理由だと考える人達ばかりがこの国の政治を動かしてきた。経営学の用語がどんどん大学経営に持ち込まれ、それがうまく行かないのは大学教員や教授会が抵抗しているからで、学長のガバナンスの強化によってうまく行くようになると考える、ぼくたちから見れば根本的にポイントがずれている人たちが「大学改革」を牽引してきたのであり、このままではもう立ち直ることが困難になるまでに大学を駄目にしてきたのだ。

 というわけで、ぼくたちの大学では我々文系教員の組織は解体され「グローバルな理工系人材」を目的とした新学部作りをしなくてはならない状況である。細かいことは一応当事者なので秘密にしなくてはならないが、現在進行形で色々なことが進められている。もう少し昔なら、学長と団交するとか、霞ヶ関でデモをするとか、署名運動するとかいう抵抗もあったのかもしれないが、これらの度重なる「改革」にすっかりうんざりして牙を抜かれた同僚たちは諦め切ってしまって気力を失っている。それはそうだろう。敵は文科省の奴隷にされて苦労している学長ではないし、実際にプランを作った総研の社員や元社員は霞ヶ関にはそもそも居ないし、署名が集まってもそれを出したらそれ専門の処理班に回されるだけなのだから、どうしていいのかすら分からないのである。基本的に、自分の頭で考えずに国が与えた「ミッション」を忠実に遂行する者だけが大学教員に求められているような場所で、教員が良心を持って生きることなどできようもない。

 2004年の独法化の時には全国的な反対運動も起きたし、怒って辞職する教員も多数居た。ぼくも含めてその時に辞めなかった教員は最初から敗北者なのかもしれない。それ以降、ぼくは自分の身の回りだけのことを考えてきた。自分の回りだけに「本来の大学」の砦を作れればいいと割りきってやってきたのだ。幸運なことにその願いは部分的には実現することができた。だが、これからはそうも行かないのかもしれない。自分の定年も近いし、もう少し自由な私立大学に移ることも本気で考えなくてはならないのかもしれない。もはやこんな「改革」が完遂された国立大学に知的な自由などが存在できるはずがないではないか?

 もちろん、それじゃどんな大学改革が有効か? と言われてもそう簡単ではない。制度や枠組みから考えても、各大学にはそれぞれの個性と特性もあるし、地域性もある。だが、要するに大学とはいつでも具体的な「人」が作るものであり、教員と学生と職員という個別的な「人」の力によって成り立っているものだ。つまり、多様性を活かすことこそが大学の持っているポテンシャルなのではないかと思う。それを、これからはこうなるから、英語で教育しろとか、学長の(ということは、その学長を操り人形にしている政府の)言うことを聞けとか、一律のFDやカリキュラム改革をやれとかいうような政策の押し付けだけで何とかできるというような発想が根本的に間違っていると思うのだ。

 それよりも優れた大学教員や大学人から提案される新しい発想やイノベーションを政策に取り入れればいいのではないかと思うが、それにはだいぶ時間がかかるだろう。そういう切り替えをするには、既に遅すぎるのだ。なぜならそんな創意や工夫などを自分たちがいくら考えても仕方ない、政府が決めた「良い大学」に近づけなければ運営交付金を減らされると脅かされてきた大学の中には、もはやそんな自由な発想やダイナミックな発信力を持った教員はいないか、あるいは本当に少数派になってしまっているからである。もしかすると片隅でExcelやWordなどを絶対に使わないようにして隠れている逸材がまだ居るのかもしれないが、日常的に求められるExcelファイル作りに自動的に反応している教員たちにはもはや望みはない。

 さらに問題なのは、独法化や国立大学改革が間違っていなかったと本気で信じている新自由主義的な立場を奉じる(競争的資金を大量に獲得してきた、申請書づくりにだけ長けた)教員の数も実際に増えてきていることである。まあ、生まれた時からこんな感じなのだから、もはやこれがおかしいとすら感じられなくなっているのだろう。リストラによってしか日本は生き残れないと思っている人たちから見れば、国立大学の文系なんて単なる税金の無駄遣いにしか見えないのかもしれない。すべての人がシステムや制度ばかりを考えるエンドレスなゲームに巻き込まれてしまい、具体的な人が動かしている個別の現場をきちんと見る思考ができなくなってしまっているのだ。こんなことをやっている政府を信じている人たちが教員にも学生にも増えていることが本当の不幸なのだが、彼らは自分たちをどんどん不幸にしているのが誰かということが全く分からないので、二重三重に不幸なのである。

 だから、最低の時代と最低の社会の中でいかにしてめげずに生き抜いていくかということだけが問題なのだ。もう大学という制度や社会システムに何かを求めることなんてできない。まあ、よく考えてみれば、程度の違いはあれすべての時代は最低だし、すべての社会は駄目なのだから、そんなにこの時代だけが特殊なわけでもないのかもしれない。しかし、教育が破綻し、無知で金儲けにしか価値を見いだせない国民ばかりになっていく――最近はマジに「日経新聞」さえ読んでいれば世界を知るのに十分だと口にするような、とんでもなく知性の低い学生たちが増えてきた!――この国にこのままでは未来はない。