異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

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≪写真≫「福島とチェルノブイリの事故は共時的」写真家・中筋純さんインタビュー【前編】

2016-03-16 18:08:24 | 福島、原発

http://ddnavi.com/news/291060/a/より転載

「福島は生き恥を晒されてる感じがする」福島の“その後”を追った写真集『かさぶた』中筋純さんインタビュー【前編】

2016.3.11

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かさぶた 福島 The Silent Views』(中筋純/東邦出版)

 2011年3月11日に起こった東日本大震災から今年で5年。復興が進む場所もあるが、今もあの日で時が止まってしまった場所がある。福島第一原子力発電所の事故によって汚染した地域だ。その福島へ何度も通い、数多くの震災後の風景を写真に収めてきた写真家の中筋純さんが、節目となる今年、写真集『かさぶた』(中筋純/東邦出版)を出版した。人の立ち入りが制限され、無人の街になった一見静かな風景は、多くのことを語りかけてくる。

写真家 中筋純
1966年、和歌山県生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。出版社勤務を経て写真家となる。ファッション、オートバイ、人物撮影などの商業撮影の傍ら、廃墟や産業遺構の撮影を行う。作品集に『廃墟チェルノブイリ』『流転チェルノブイリ』『流転 緑の廃墟』など。現在「流転 福島&チェルノブイリ写真展」が全国巡回中。

福島の“その後”を追いかけ、時間軸で表現

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桜の名所である「夜ノ森」の四季。咲き誇る桜の木の間に、かなりの高線量であることを示す毒々しいピンク色の看板があることにハッとさせられる。この場所からすぐ先は立ち入り禁止区域だ。(2014年 富岡町)

 雑誌の企画で写真を担当したことから、廃墟や産業遺構の撮影を始めたという中筋さん。数年後には日本国内の主要な場所をほとんど撮り尽くしてしまい、海外の遺構へ行ってみようと思った時、ふと思い浮かんだ場所が1986年に原発事故を起こしたチェルノブイリだったという。

「原発事故がどうとかっていうのは最初は正直言ってなくて、純粋に産業遺産という捉え方で撮影に行ったんです。でもビルの屋上からチェルノブイリの街を見渡したときに、これはただの廃墟じゃない、と。人が住んでいた団地が廃れたところって軍艦島などがありますけど、それとは意味が違う。ここは放射能のために“住めなくしてしまった”土地で、人々が暮らしていた都市が確実に消えてしまったんです」

 しかし人が誰も住まない死の街であるはずのチェルノブイリを覆う、大きなポプラの木や様々な植物が生い茂る景色を「美しい」とも思ったそうだ。

「漫画の『AKIRA』や『北斗の拳』のような、もっとディストピア的な場所を想像してたんですけど、湧き上がる自然の中に文明の抜け殻が転がっていました。そこには『この先、我々はいったいどこへ行くんだろうか』ということを突きつけてくる、象徴的な空間が出来上がっていたんです。とにかく強烈過ぎた。これは当分追っかけていかないと、と思いましたね」

 2007年からチェルノブイリに通い始め、『廃墟チェルノブイリ』などの作品集を出版してきた中筋さんは2011年、それらを展示する写真展を企画していた。それは奇しくも震災直後となる4月10日からの開催だったが、もちろん会場を押さえた段階では日本で原発事故が起きるなどまったく考えもしなかったという。会場は新宿の高層ビル、頻発する余震に見まわれながらの開催となった。そこで中筋さんは福島の原発事故をどう写真にするか、ずっと考えていたという。

「ちょうどチェルノブイリ事故から25年で、その教訓を、という動きがいろんなところであったんですが、それをせせら笑うかのように地震が起きて、原発事故が起きた。呆然としましたよ。神様なんて信じてなかったけど、そのとき本当に初めて『神様っているのかな』と思いました。25年という節目の年だったのはたまたま、偶然なんだろうけど、背筋がゾッとしましたね。でも2011年の年末、野田総理が早々に原発事故の収束宣言をしたので、これは原発政策の転換はない、このままでは元に戻ってしまうと感じました。だったらチェルノブイリと同じく、福島の“その後”を追っかけて、時間の軸で表現してみようと思ったんです」

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緑が侵食するガソリンスタンド。かなりの高線量地域のため、車を停め外へ出て撮影する中筋さんを見つけたパトロール中の警察官が慌てて飛んできたが、この光景を見て絶句していたそうだ。(2015年9月 双葉町)

いつでも故郷に帰れることが、当たり前ではなくなってしまった

 福島県浜通りの原発周辺の街の撮影を始めた中筋さんは、ありのままの福島の姿を伝えることに腐心しているという。

「いろんな運動って、反対する1割の人と賛成する1割の人が全く噛み合わない意見を言い合って、残りの8割の人は無関心なんです。だからこの8割の人が、ふっと入り込めるような表現にしたかった。それには難しい政治や放射能に関する話ではなくて、もっと卑近で、生活に密着したようなメッセージっていうのを福島はいっぱい発信しているから、それをわかりやすく汲みとって出せれば、僕が感じたように、自分の故郷を福島にオーバーラップして考えてもらえるようになるんじゃないかなと思ったんです」

 自分が生まれ育った、慣れ親しんだ街が“住めなくしてしまった”土地になってしまったら…撮影をしていると、中筋さんは自分の故郷である和歌山県の風景が重なってくるという。

「子どもの頃にウロウロしてた商店街の姿とかが、福島の街にかぶさってくるんですよ。これは日本人が共有して、記憶に止めておいて欲しい、きっちり目を見開いて見ておかないといけないこと。僕は現地が発してることをフレームに収めさせてもらって、それをそのまんま出してる。もうここには誰もいなくて、沈黙しちゃってるけど、この土地には言いたいことがいっぱいあるんだろうな、といつも感じるんですよ」

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JR富岡駅前通りのアスファルトを覆い尽くさんとする緑は、両側の家々を飲み込んでいく勢いだ。しかし津波にあった駅舎は2015年に解体、この街並も解体が進んでいるという。(2013年10月 富岡町)

 2016年2月から約1年かけて全国を巡回する予定の、福島とチェルノブイリの写真が並べて展示される「流転 福島&チェルノブイリ写真展」。銀座ニコンサロンで写真展をスタートした際、福島の人が来場すると緊張したという。

「被災地の方が見に来てくれると嬉しいんですけど、すごく緊張するんですよ。『私は浪江の出なんです』って記帳するときに言ってくれた女性がいて、その時に昔の懐かしい話をしてくれました。その方は結婚して30年近く東京に住んでいて、そんなに頻繁に福島に帰らなかったそうなんです。いつでも帰れると思ってた、でもそれが当たり前じゃないってことに気がつきました、と話していました。僕ね、あれから5年経って、福島は生き恥を晒されてる感じがするんです。街からしてみたら、それまで丹精込めて作ってた畑や庭が草でボーボーになって、小奇麗にしていた商店街のお店もボロボロになってきて、除染した土を詰め込んだ真っ黒いフレコンバッグが積み上げられて。もしこれが自分の立場だったら、と思うと本当に見てられない。でもこれを見せることで、福島の事故が敷衍できると思うんです」

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太平洋に面した砂浜が広がっていた仏浜には、大量のフレコンバッグが積み上げられている。袋には「しゃへい」と書かれているが、その耐用年数は5年という。(2015年3月 富岡町)

取材・文=成田全(ナリタタモツ)

後編

≪写真≫「福島とチェルノブイリの事故は共時的」写真家・中筋純さんインタビュー【後編】 

 

 

 

 


安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(3)=高島康司

2016-03-16 09:23:09 | 日本会議  神道政治連盟

http://www.mag2.com/p/money/8039/2より転載

マネーボイス

安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(3)=高島康司


安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(2)=高島康司

2016-03-16 09:22:42 | 日本会議  神道政治連盟

http://www.mag2.com/p/money/8039/2より転載

マネーボイス

安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(2)=高島康司

戦後すぐに運動を開始した「神社本庁」

ちなみに戦前には軍部と協力し、軍部の国粋主義的な政策の支援をしていた多くの草の根右翼の組織は存在していた。しかし、こうした組織の中心的な教義は「天皇崇拝」であったため、昭和天皇の「人間宣言」を機に信仰の根拠をなくし、解体した。

しかし1946年、天皇の「人間宣言」と前後して、戦後日本の出発点となった取り決めを拒絶し、自主憲法制定による「天皇制国家」の復興を目標とする組織が立ち上がった。それがいま「日本会議」の中核となっている宗教法人「神社本庁」である。いま日本では「神社本庁」も「天皇制国家」の復活を目指す「カルト」として解説されているので、「神社本庁」が敗戦直後の1946年から活動していることを知って驚くかもしれない。

しかし、1940年代と50年代は日本では左翼運動が席巻しており、こうした右翼の運動は極めて低調であった。見向きもされないアングラの政治組織としてとどまった。

岸政権と右翼集団の暴力団化

そのような地下に潜ったアングラ運動としての右翼に大きな転換になったのが、1960年の「安保反対闘争」である。この運動をきっかけに、右翼は政治との明確なかかわりを持つようになる。

いまの集団的自衛権の強行採決と同じように、1960年、安倍晋三の祖父にあたる岸信介政権は、改定された「日米安保条約」を強行採決しようとしていた。これに抗議した数十万を越えるデモ隊が国会を包囲し、警察部隊と一触即発の状況になっていた。

岸政権は、こうした抗議運動を弾圧するために右翼と暴力団を国会内に入れ、暴力を用いて抗議運動の沈静にあたった。これは逆に大きな抗議を引き起こし、岸政権の退陣を早めたものの、これを機会に右翼と暴力団と自民党との間に強い政治的なパイプができ、自民党がこうした勢力の暴力を権力維持のために利用するようになった。

また右翼のほうも、運動資金確保のために八百屋から政治家まで脅しで「会費」を巻き上げる暴力団と変わらぬ活動をするようになった。これは同じ時期、みかじめ料を徴収するために政治運動であることを口実にしていた暴力団も右翼化していたので、右翼と暴力団が実質的に区別がつかない状況となった。

街宣車で国粋主義とヘイトスピーチを、言論の自由と称して最大ボリュームで垂れ流すいまの街宣車のスタイルは、この時期に出現した。


60年安保の結果と新右翼の出現

周知のように「60年安保闘争」では「日米安保条約」の締結は実現したので、国民の抗議運動は敗北したかのように見える。

しかしながら、実際はかなり違っていた。これまで自民党は「憲法改正」を基本方針としていたが、「60年安保闘争」の激しい抵抗と岸政権の退陣で、「憲法改正」を基本方針から削除し、封印した。さらに、自民党最右翼の代表であった岸信介を政治から実質的に永久追放した。そして次の池田隼人政権は、政治的な対立を避けるため、経済を自民党の基本方針の中心にし、「高度経済成長政策」を立ち上げた。

こうした変化のなかで、右翼の「自主憲法制定による天皇制国家の復興」というスローガンは次第に有名無実化し、ほとんど実体のないものになっていった。そして右翼はさらにぐれん隊のように暴力団化して行った。

このような右翼の堕落した状況を打破し、同じ時期に大学を席巻していた「新左翼」の運動に対抗する目的で新しいタイプの右翼組織が出現した。さまざまな組織があるが、これらは一括して「新右翼」と呼ばれている。

「新右翼」が「旧右翼」と大きく異なる点は、「旧右翼」が戦前からの右翼や特攻の生き残り、また戦前の軍部者の作る組織であったのに対し、「新右翼」の多くが宗教団体を背景にした集団だという事実だ。

建国記念日の制定と「神社本庁」

「新右翼」が出現する前に、宗教法人を主体とした政治運動で大きな成功を収めたものがある。それは、1966年の「建国記念日」の法制化である。

周知のように戦前は、元号とともに日本国の公式の年号として「紀元」が使用されていた。「日本書記」の創造神話で日本国を建国したとされる神武天皇から年号を数える方法である。「紀元」は天皇が神武天皇の血統を引き継ぐ「万世一系」の存在であることを強く印象づけるために、戦前の「天皇制国家」によって利用された年号であった。もちろん、神武天皇は神話上のフィクションの存在であり、実在していた証拠は発見されていない。

戦前は、神武天皇が2675年前に即位したとされる2月11日が「紀元節」として国家の祝日となっており、これを記念する国家神道の行事が多く開催されていた。ちょうど紀元2600年にあたる1940年には、ナショナリズムを鼓舞する特に大きな国家的な儀式が開催された。

このような経緯もあって「紀元節」は戦後は廃止されていたが、1960年前後から宗教法人の「神社本庁」を中心に「紀元節」の復活を求める運動が展開された。全国の神社を統括する「神社本庁」の全国組織を使い、「紀元節」復活の一大キャンペーンが実施された。暴力団化した右翼集団とは一線を画した運動となり、1965年には全国598箇所で復活を求める行事が行われた。この全国的なキャンペーンに押される形で政府は「紀元節」を「建国記念日」と名称を変えて法制化し、国民の祝日とした。

これは、宗教法人の右翼組織のよる運動の成功例となった。

「生長の家」と谷口雅春

このような「紀元節」法制化の成功を追い風として出てきたのが「新右翼」である。そうした「新右翼」の集団の母体となった宗教こそ、谷口雅春の主催する「生長の家」であった。

谷口雅春は、太平洋戦争に敗れたのは、迷いと島国根性に凝り固まった「偽の日本」であって、本当の「神洲日本国」は敗れたのではないと主張し、1945年の敗戦という歴史的事実そのものを否定した。

そして、日本国憲法は、GHQが日本を弱体化するために日本に押し付けた無効の憲法であるので、日本国憲法を即時に破棄して明治憲法に基づく「天皇制国家」を復元しなければならないと主張し、「明治憲法復元運動」を起こした。

これを実行するための組織として結成されたのが「日本会議」の前身である「日本を守る会」である。

「新右翼」の中心「日本青年協議会」

このような谷口雅春の右翼思想に結集した学生の集団が、1970年に結成したのが「日本青年協議会」である。もともと「日本青年協議会」は、左翼の全学連によって占拠された長崎大学のキャンパスを奪還するために結成された、「新左翼」の対抗組織であった。

しかしながら、学生運動が退潮した1970年代に入っても、「日本青年協議会」は右翼の政治運動の中心的な主体として活動を展開した。もちろん、これは暴力団化した「旧右翼」とはまったく別物の政治組織である。

元号法制化運動と椛島有三

「日本青年協議会」が一躍注目されることになったのは、「元号法制化運動」であった。いまでは当たり前のように「元号」が使われるが、戦後30年以上にわたって「元号」の使用は法制化されておらず、「西暦」と「元号」のどちらを使うかは使用者の任意に任せれていた。「元号」を日本国の正式な年号の記録の方法として法制化しようとしたのが「元号法制化運動」であった。この運動は「日本青年協議会」が結成される2年前の1968年に「神社本庁」などが中心となって開始されていた。

しかし、「日本青年協議会」がこの運動の中心的な主体として参加するにつれ、運動は大変な勢力になって行く。「日本青年協議会」を率いた人物は、長崎大学出身の椛島有三であった。椛島有三は左翼の大衆動員の方法からヒントを得て、地方自治体と地方議会に働きかけ、地方から「元号法制化」の決議をしてもらい、政府に圧力をかけるという手法を展開した。

また「日本青年協議会」は、地方の力を結集するために西日本などにキャラバン隊を組んだ。講演会を開き映画を上映して元号法制化を啓蒙すると同時に、地方議会に決議を促すように要請した。

この結果、1968年の運動開始から元号が法制化された1979年まで、47都道府県議会の46の議会と、日本全国の市町村議会の半数以上の約1600の自治体が、国会に元号法の制定を促す決議案を採択した。

そしてついに1979年、元号は国会で正式に法制化した。

 『未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ』(2015年7月24日号)より一部抜粋
※太字はMONEY VOICE編集部による

 
安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(1)=高島康司

安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(3)=高島康司

 

 

 

 


安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(1)=高島康司

2016-03-16 09:22:19 | 日本会議  神道政治連盟

http://www.mag2.com/p/money/8039より転載

マネーボイス

安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(1)=高島康司

 

今回のテーマは「日本会議」と、この組織が象徴する現代右翼の運動についてである。「日本会議」はイギリスやフランスなどの海外のメディアでも紹介され、国粋主義の極右組織ではないかと批判されている。

「日本会議」は、1997年に「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」とが統合して結成された組織で、その目的は、憲法改正によって戦前のような「天皇制国家」を再興することである。

「日本会議」には神社本庁、解脱会、国柱会、霊友会、崇教真光、モラロジー研究所、倫理研究所、キリストの幕屋、仏所護念会、念法真教、新生佛教教団、オイスカ・インターナショナル、三五教等、宗教団体や宗教系の財団法人が多く参加していることから、「日本会議」は「カルト」として紹介されることが多い。

安倍政権の閣僚の多くが「日本会議」に参加しているので、「安倍政権」はカルトに乗っ取られたとする見方も強い。だが、それだけでは見えない現実がある。(未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ・高島康司)

小泉改革で、自民党全体が「日本会議」に吸収されてしまった――

「日本会議」カルト集団説では見えない現実

日本会議」を「カルト」とする見方は、明らかに違憲の集団的自衛権の可決を焦り、報道管制を強化して国民を管理するいまの安倍政権に強い違和感を覚えている多くの国民から支持されている。この違和感は筆者も共有しているので、十分によく分かる。

「カルト」と聞くと「オウム真理教」をイメージすると思う。だとするなら、「日本会議」を叩くためには、「オウム真理教」と同じような方法で壊滅に追い込めばよいということになる。

だが、「日本会議」は「カルト」であり、それに安倍政権が乗っ取られたとする見方では見えてこない現実が存在する。そしてこの現実をいまのうちにしっかりと認識しておかないと、我々ははるかに危険な現実に将来向き合わざるを得ない状況になる可能性がでてくる。

「日本会議」はプラットフォーム

一般の認識とは大きく異なり、「日本会議」とは最近出て来た極右組織ではない。「日本会議」が結成されたのは1997年だが、この組織は日本のあらゆる右翼団体が結集する巨大なプラットフォームのようなものである。それは単一の組織として見るよりも、独自に活動しているさまざまな右翼組織の象徴であり、ハブであると見た方がよい組織だ。

「日本会議」そのものは1997年に結成されたが、これに参加している右翼組織ははるかに長い歴史を持つ。戦後70年の日本の裏面史を代表するような存在なのだ。

まったく知られていない戦後右翼の歴史

ところで、ほとんど知られてないことだが、戦後日本の右翼の歴史は古い。

周知のように、1945年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾をもって連合国に無条件降伏した。日本を占領したGHQは日本の統治を円滑に行うために天皇制を温存してこれを利用することを考え、以下の3つに基づく日本の国際社会復帰のシナリオの受け入れを迫った。

  1. 戦前の日本の戦争はアジアに対する侵略戦争である
  2. これを主導したのは軍部とこれに連なる一部の政治家である
  3. 天皇も日本国民も軍部が引き起こした戦争の被害者である

この3つのシナリオで、天皇と日本国民は戦争責任から赦免された。そして極東軍事裁判で具体的な判決として踏み固められ、サンフランシスコ講和条約の基本的な認識となった。これに日本は調印することで国際社会に主権国家として復帰した。

GHQの要請で作成された現行の日本国憲法は、「象徴天皇制」の規定と戦争と軍隊を永久に放棄した9条を含むことによって、日本が二度と戦争を起こさない国際的な保証として機能した。

これが戦後の日本の出発点となった取り決めであった。この取り決めのパッケージは当初は驚きをもって受け取られたものの、時間が立つにつれ多くの日本国民によっても自然に受け入れられ、現在に至っている。

一方、この戦後の取り決めを拒絶し、自主憲法の制定による「天皇制国家」復興を目指す運動が戦後すぐに始まった。これが戦後日本の右翼運動である。憲法9条を守ることを骨子とした左翼系やリベラル系の運動の歴史はよく記録され、研究されているものの、右翼の運動史に関してはほとんど研究も報道されていないのが現状だ。という意味では、右翼の歴史は70年の戦後史の裏面史であると言うことができる。

未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ』(2015年7月24日号)より一部抜粋
※太字はMONEY VOICE編集部による

 

 安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(2)=高島康司

安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党(3)=高島康司

 

 

 

 

 


「慰安婦被害者が全員死んでも日本軍の罪は残る」と、ニューヨーク市庁の前で

2016-03-16 07:12:41 | 戦時中性奴隷 慰安婦

http://japanese.joins.com/article/026/213026.htmlより転載

「慰安婦被害者が全員死んでも日本軍の罪は残る」

2016年03月10日07時46分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

李容洙(イ・ヨンス)さんが8日、ニューヨーク市庁の前で日本の謝罪と賠償を要求している。

李容洙(イ・ヨンス)さんが8日、ニューヨーク市庁の前で日本の謝罪と賠償を要求している。
  8日午前(現地時間)、ニューヨーク・マンハッタン南側のニューヨーク市庁前。慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さん(88)の声が震えた。この日、ニューヨーク市が慰安婦被害者に対する日本政府の責任認定と公式謝罪を求めるために開いた記者会見に李さんが同席した。

  李さんは「25年間、日本大使館の前で雨が降ろうと雪が降ろうと日本の公式的な謝罪と賠償を要求してきた。(両国の合意は)話にならない」と批判した。慰安婦強制連行の否認など日本の相次ぐ歴史歪曲に対しても「私が被害にあった本人」とし「それでも日本は嘘ばかり言う」と怒りを表した。 

  ニューヨーク市議会のコンボ女性委員長は「日本政府は李容洙さんの目を見ながら、ぞっとするような残酷な行為を受けた多くの女性の目と魂を見ながら、政治的でなく誠意を込めて被害者に直接謝罪するべきだ」と主張した。ニューヨーク市議会は公立学校で慰安婦問題の真実を教えるよう要求していく方針だ。 

  李さんはこの日午後、国連本部を訪れ、自分が体験した惨状を記者団に証言した。李さんは「(慰安婦被害者)女性が全員死んでも(日本軍が犯した)罪は残る」とし「日本の首相が韓国の日本大使館前でひざまずいて謝罪し、法的賠償をしなければいけない」と述べた。 

  一方、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が韓日政府間の合意を歓迎したことについては、「潘事務総長には『知らなければ黙っているべきであり、なぜ知っているふりをするのか』と話したい」と語った。