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5月15日の沖縄祖国復帰で考える~『琉球船舶旗』 『沖縄旗』 『日の丸』 〝3つの旗〟をめぐる物語 2018.5.12 棚原 勝也 

2018-05-14 09:37:38 | 沖縄

5月15日の沖縄祖国復帰で考える

棚原 勝也 5月12日 11:42 · 

再掲。

沖縄でもアメリカでもなかった
沖縄の悲惨を
2012年に4月に取材した。
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『琉球船舶旗』『沖縄旗』『日の丸』  〝3つの旗〟をめぐる物語。

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●VTR
復帰の日、1972年5月15日深夜0時、
日付が変わり
『沖縄県』が誕生したその瞬間、
那覇の港に停泊していた
救難艇『おきなわ』では、

それまで掲げられていた
ひとつの旗が降ろされ、
変わって、
祖国復帰を告げる『日の丸』の旗と、
海上保安庁の旗が揚げられた。
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降ろされたひとつの旗…。

その旗が
県の公文書館に保存されている。

黄色と青の二色の旗。
これが沖縄が
アメリカに統治されていた時代、

船に掲げられた
『琉球船舶旗(せんぱくき)』だ。

国際法では、
公海を航行する船舶は、
『自らの身分を証明する』
“ 国旗 ”を掲げることが
定められている。
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しかし、当時占領下の沖縄は、
日本でも、ましてやアメリカでもない
不安定な状況に置かれていた。

そこで当時の民政府が
布令として船舶に掲揚を義務付けたのが
『琉球船舶旗』だった。
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●琉球海運・比嘉栄仁会長(当時)
「我々自体、
それ(琉球船舶旗)を掲げても、
国際的に通用するということは
考えたこともありません。」
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『国際信号機』とは、
航行の際に船同士で旗を掲げ、

意思の疎通を図るという
世界共通の旗ですが、
『琉球船舶旗』は
国際信号機の『D旗』を
切り取っただけのものだった…。

この旗が悲劇を生む…。
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今から1962年4月3日、
インドネシアにある
モロタイ島の近くで、
マグロ漁をしていた沖縄の船
『第一球陽丸』が、
インドネシア海軍の銃撃を受け、
1人が死亡、
3人がケガをする事件が起きる。

当時、第一球陽丸に
通信士として乗っていた
新里孟三さんは、
今でも鮮明に記憶していた。
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●第一球陽丸元通信士・新里孟三さん
「飛行機が多分、
船員の方も見ていると思うんですよ。

僕らも手を振った覚えがあります。

手を振っているつもりだけど、
国旗がないでしょ。
だから向こうは
怪しいと思って旋回して、

2回目か3回目か憶えてませんけど、
船尾のほうから
(機銃で)バラバラバラっと
(撃って)きたような感じですね。」
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この銃撃で
当時26歳の大城重夫さんが
銃弾を受ける。
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●元通信士新里孟三さん
「(大城さんは)苦しそうに、
痛いものだから、壁を叩いたり、
どこかを叩いたりしていたけど、
僕らもどうしようもないわけです。」
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その後、重夫さんは
手当する間もなく、船で亡くなった。
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:
●大城さんの弟・幸太郎さん
「スパイ船と間違われて撃たれた、
銃撃されたというのは聞いた。

Q:旗は揚げていた?

だからその旗が通用しない旗さ。
琉球の旗か、あれ…。」
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重夫さんの弟で、
当時15歳だった幸太郎さん。
事件から50年目にして、
初めてカメラの前で
事件について語りました。
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:
●幸太郎さん
「Q:お父さんや
お母さんの様子はどうでしたか?

:
もう悲しんで…もう泣くだけさ…。」
:
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もし、
『日の丸』の旗が揚がっていれば…。

この事件をきっかけに
日の丸掲揚を求める声が大きくなり、

『日の丸』は、
やがて祖国復帰運動の
シンボルとなっていきます。
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●元沖教組委員長・新垣仁英さん
「私たちにとっては、
憲法の下に行くんだという願い。
『日の丸』に
それ(平和憲法)を見つけ出したと
言ったほうが言いのか…。」
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当時の沖縄県教職員組合では、
日の丸を一括購入し、児童生徒を通し、

各家庭に配布する
『掲揚運動』を展開。

しかし、その動きにも
変化があったと話すのは、
元沖教組の委員長・新垣仁英さんだ。
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●新垣仁英さん
「復帰の内実が
次第に明らかになってくると、
高揚感よりは複雑な気持ちですよね」
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次第に明らかになっていく復帰の中身。

復帰後もそのまま残る広大な基地や
不平等な人権。
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沖教組はその後、
シンボルとしていたはずの
『日の丸』を『排除する』運動へと
転換していく。
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●新垣仁英さん
「当時の日本政府に対する不信。
それが『日の丸』と
一体となったと思います…。」
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沖縄戦終結から5年後の1950年、
沖縄の未来に願いを込めた『旗』が
作られていた。

当時の『沖縄民政府』の初代知事、
志喜屋孝信さんの時代に作られた
『沖縄旗』
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●志喜屋孝信 赤道顕正会・
久田友光会長(当時)
「(志喜屋孝信)知事の
ウチナーンチュ対する思いが
込められていると私は思いますね。」

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(沖縄旗には)
平和を表す『青』と
自由を表す『白』、
そして情熱の『赤』。

さらに、青の部分には、
沖縄の未来に希望を託した
『星』が描かれている。

志喜屋さんの意思を受け継ぐ人々が
旗を復刻した。
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●志喜屋孝信 赤道顕正会・
池原正一さん
「(この旗には)沖縄の人たちを、
差別から開放したいというのが
あったんじゃないかなと
思ったりもしますね。」
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『琉球船舶旗』
『沖縄旗』そして『日の丸』。
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復帰を境に、
『日の丸』以外の2つの旗は
忘れられていったが、

旗をめぐる矛盾や怒り、
そして『日の丸』を
渇望する声が渦巻く時代は、

今の沖縄が抱える
問題の原点ともなった。
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●琉球海運・比嘉栄仁会長(当時)
「(日の丸は)我々の命、生命財産を
保護してくれるというんですか。
それの象徴的なもの。」
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●元沖教組委員長・新垣仁英さん
「日の丸は今、統制のシンボル。
支配のシンボルじゃないかと
僕は思う。」
:
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●兄を失った大城幸太郎さん
「これが元で、
安心して漁業ができるさ、今…。
それで良いことだと思うよ。

(でも)
そういうことがあったことは、
忘れんでね。

そういうことがあったことを…。」
(VTR終了)
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船乗りの人々からすれば
『日の丸』はまさに
命の担保でもあった。

そして沖教組など、
復帰運動に加わった人々の多くが
復帰後も変わらない
現状への失望感から、

『日の丸』は
日本政府への裏切りの象徴とも
受け取られた。
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1人の命が犠牲になった53年前の事件。
亡くなった重夫さんの母は、

沖縄戦で一家全員を失って、
ただ1人生き残っていた。

戦後『平和な世の中』になって
授かった子どもを失った悲しみは
いかばかりだったろう。

事件の後、一度も大城さんの家では
『日の丸』の旗を
揚げることはなかった。
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ちなみに琉球船舶旗の元になった
国際信号旗のD旗の示す旗の意味は

『私は自らで操縦が困難だ』
という意味だ。