中さん

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
kumagaya001nakanaka002

日記(5.16)

2024-05-16 20:41:30 | 日常
2024  5月16日  (木曜日)   雨⇒晴れる。

天気が目まぐるしく変わる。
晴れた曇った雨になった・・・と何かをするのもタイミングが難しい。

もう梅雨の前触れの様子だ。午後は蒸した。
木々の葉がグングン伸びて庭木の整理もままならない!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
先日買ってきた種類。

インゲンを蒔いておく。
不思議だこんな小さい種が大きく育っていく。
 文句を言わずにいる苗たち・・
 水・肥料がたらないか・酸性土になっていないか・・などを
 木の伸びやか葉っぱの色合いから判断しなくては!
 更にモグラが来た! 鳥が来た!なども よく見てないと良いものは出来ない。
キジも多かったが最近は少ない!
どれだけ畑に通ったかで良し悪しが作品に反映されるのは、
人の育ちの環境と同じかも・・・
〇昨日獲ってきたキャベツのまき具合を見る。

まずまずだ! もう少し待っていればよくなりそうだ。
30玉ほどある。最近また食性で蝶が舞うようになってきた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
毎日新聞の余録
 1973年にシャープから発売された世界初の液晶表示電卓。
 価格は2万6800円だった。
高かったなあ!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「とにかく、とことん学ぼう」が松下電器産業(現パナソニック)の創業者、
 松下幸之助の口癖だったという。
 戦後の欧米に追いつき、追い越せの時代。
 先行商品を後追いで製品化し、「マネシタ電器」と皮肉られた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ソニー=モルモット」論も唱えられた。
  大手が見守る中、新製品開発に取り組み、
  実験動物的役割を果たしたというわけだ。
  ただ、創業者たちはそんな外部の声を歓迎したという。
  企業の強みを端的に示す言葉でもあったからだ。
~~~~~~~~~~
▲シャープペンシルの考案者、
 早川徳次が作った早川電機(現シャープ)は「ハヤマッタ電機」と呼ばれた。
 テレビに電子レンジ、電卓。国産第1号や世界初にこだわる姿勢がそんな異名を生んだのだろう。

1973年発売の液晶表示電卓も世界初。
  以来、液晶のカラー化、大型化を進め、
  大画面テレビの市場を開拓した。
  そんな「液晶のシャープ」がテレビ向け大型液晶パネルの国内生産を終えるいう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲地上波デジタル放送の開始後、
 品定めに訪れた家電量販店に「世界の亀山モデル」がずらりと並んでいた
 のを思い出す。
~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★需要拡大の思惑が外れて
 8年前に台湾企業の傘下に入った後も中国勢との価格競争には勝てなかった
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
米政府が中国製電気自動車(EV)の関税を4倍に引き上げた
 というニュースに
 かつての日米貿易摩擦を思う。
 当時は日本企業にダンピングや過剰生産の疑いがかけられ、
 「通商法301条」が再三、新聞の見出しになった。
 摩擦なき今を喜ぶべきか。複雑な気持ちになる。

======================
★生産工場はそのが拠点はチープレイバーの国に移っていくと入社のころ聞いた。
 つまり賃金の安いところに生産の作り手が移っていく。
 更に
 理論・発明はイギリス・・マスプロはアメリカ・・占有率が10%を超えると・・
 生産は日本⇒韓国・台湾⇒中国やベトナム・等々へと地球を回っていく。
 今や人口大国の中国が席巻。
衣類⇒鉄鋼⇒電気⇒自動車⇒半導体⇒情報機器・・と回っていったなあ~
一緒に軍事産業も回っていくなあ・・・
最も戦争が新産業を作っていくことも確かだが・・皮肉な世界だなあ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最近また物騒なハッカーがランサムを広げている。

===================================
午後2時から区画整理事務所にて区画に関連する
自治会長が今後の進捗や課題を聞いた。
子供の学校への通学路の確保に当たって
今進めている道路拡張に伴い移転をしないお家の今後を聞いた。
問題は如何にして移転してもらうか!の事務所も困っているが
我々は情報集めに協力をする程度だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 出かけた帰りに自治会庶務宅にて
★9月の敬老会に合わせて 対象者調査票の内容を確認してくる。
 今月末配布だ。
 45.6月は何かと気ぜわしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(5.15)

2024-05-15 19:51:35 | 日常
2024  5月15日  (水曜日)      晴れ
午前中は家庭菜園作業だ。暑い日だ
いんげん豆とモロッコ豆を蒔いておく。4日前に蒔いた丹波の黒豆が芽を出し始めた。
豆類は注意しないと鳥がみんな食べてしまう。
気づかずに何時まで待っても芽が出ないこともある。ネットが必須。
ピーマン5本を追加植え、モロヘイヤも5本
今年は作らないつもりであった”サツマイモ”だが一株分植えておく・・刺し芽で増やそう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
胡麻と唐辛子も苗が出来てきたので定植準備で耕運機をかけてサクを作っておく。
腰に痛みが来ている。
~~~~~~~~~~
13時半から自治会長会議。防災運動会参加者まとめの会合。
連合自治会で479人の参加になった。
大人数で大変だ!‥準備の関係で6/1.と6/8が準備会合。
その間に買い物などやることがいっぱいだ。
~~~~~~~~~~~~~~
17時から”防犯パトロールで今回新しい班長も参加11名で巡回する。
忙しい日であった。
~~~~
加えて2件、誘いがあった6/3桐生の先輩でKさん宅に伺う。
フィリピン工場の立ち上げ時の副社長で技術屋だ。今は蛾の研究に夢中だ。
以前は蝶をやっていた。論文が何通かいただいた。統計学と英文で難しい。
~~~~~~~~~~
もう一件は伊勢崎&深谷のメンバーからでそろそろどこかに行こうだ。
計画を立てねば! 秩父一番の蕎麦屋にでも行こうと思っている。
===========================

太陽の表面に現れた肉眼でも観察可能な巨大な黒点。
 強い太陽フレアによって磁気嵐が観測されたり、
 世界各地でオーロラが見られたりしている2024年5月10日午前11時36分、
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 中国の古代神話では太陽の中に「三足烏(さんそくう)」がいると信じられた。
 3本足のカラスは月の模様から想像されたウサギ「玉(ぎょく)兎(と)」と対比される。
 烏は黒を意味し、肉眼で見えた巨大黒点を指すという説がある
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲歴代王朝も黒点の記録を残した。藤原定家が「明月記」に記した
 「赤気」をオーロラと比定できたのも、
 「宋史」の同じ日付に「太陽にナツメのように大きな黒点がある」という記述があったからだという

~~~~~~~~~~~~~
▲黒点が増大し、大爆発(太陽フレア)が起きて地球に磁気嵐をもたらす。
 低緯度の空を彩るオーロラはその副産物だ。
~~~~~
 神秘現象が社会生活に影響を与えたのが1859年。
 磁気嵐で電信機に火花が散り、欧米では電報が使えなくなった

~~~~~~~~~~~~^
大型連休明けから観測史上異例の頻度で太陽フレアが発生した
 日食メガネを使い、肉眼で見える巨大な黒点群も現れた。
 だが、オーロラの出現に喜んではいられない。
 文明の発達につれ、磁気嵐の影響はより深刻化している
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2週間にわたり太陽フレアや磁気嵐が続くと想定した
 100年に1度の「最悪シナリオ」が恐ろしい。
 携帯や無線、放送、衛星、航空などの社会インフラがマヒし、広域停電が起きる。
 総務省が「宇宙天気予報」の検討会でまとめた

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
来年は11年周期の太陽活動のピークを迎える。
 デジタル社会の弱点をつく「宇宙天気」の警報や注意報の運用も予定されていると聞く。
 次代の花形は「宇宙天気予報士」とか
 どんな行動や対応を取ればよいのか。
 わかりやすい解説を願いたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(5.14)

2024-05-14 19:03:20 | 日常
2024  5月14日  (火曜日)     晴れ
暴風が去って気温がグングン上がってきた。
キャベツの収穫を始めた。今高い野菜らしい。

家内は大喜びだ・・高くて買えない・・・と言っていたので良かった。
葉物は相も変わらず、サニーレタスやレタス。大きくなった。

新聞の片隅に”認知症”の語源の事が
もともと”痴呆症”と言っていたなあ~。

=====================================

〇先日、高校体操部同級生での旅。犬山のホテル”みずのを”で夕食も終えて
 のんびり部屋で飲み直しを始めて話題も沢山・・
 誰かが!”タンス貯金”は何故タンスというのか!別に他の名前でも良いのに・・
 そうしたら知恵者がタンスに使ってる桐は燃えにくいんだから・・と!
 ホウ流石に見識人だ。

~~~~~~~~~~~~~~
●当家にも母親の嫁入り道具で桐ダンスひと竿と着物を洗って貼り付ける板が一枚あったなあ~
 当時は桐の木で作ってあるのは知っていたが
 こんなに軽くて燃えやすそうだ!と子供心に思っていた。
====================
★このことについて調べてみた。
 たんすに桐を使ったのは昔の知恵なのでしょうか。
  江戸では、昔から「火事と喧嘩は江戸の華」と言うように火事が多くありました。
 延々と燃え続ければ駄目になってしまいますが、
 桐は燃えるのが遅いので、家がほとんど燃えてしまっても
 桐たんすが真っ黒の炭状で残って、引き出しを開けると
 何とも無いということもあります
~~~~~~~~~~~~~~~~~
着物の収納に最適と言われるのが「桐ダンス」です。
 理由の大きなものは
 ①湿気に強いのでカビやシミが出来にくい 
 ②防虫効果がある 
 ③燃え始める温度が他の木材よりも高いので、燃えにくい・・・となります。

 今回は「火事に強い桐ダンス」について、私の体験をもとにお伝えします。
=========================
1.友人の家が全焼しました
 数年前の冬のことです。隣町に住んでいる友人の家が火事にあったと連絡が入りました。
 慌てて彼女の家に行くと、二階建てだった彼女の家は、
 柱だけが燃え残った状態。二階の床まで焼け落ち、全焼となっていたのです。
 お隣の方に聞くと彼女は家族全員で実家に行っているとの事でしたので、
 そのまま車で実家に向かいました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
気丈な彼女はいつもの通り「家族全員無事なので、何よりだったわ」と言ってくれました。
 でも少し話していくと
 「家は火災保険に入っているから大丈夫。でもアルバムも思い出も全部無くなってしまったの」
 「大切にしていた成人式の振袖も、娘の七五三の衣装もすべて燃えてしまった。
  写真すら残っていない。」と言い出して・・・掛ける言葉もなく、
  私はその場を後にしたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~
2.奇跡は「桐ダンス」から生まれたのです!
 火事から一ヶ月もした頃でしょうか。
 彼女から電話がありました。「着物が無事だったのよ!」と明るい声が聞こえてきます。
 「エッ、燃えたんじゃないの?」と思わず聞き直してしまいました。
 すると「焼け跡見たでしょう?
 その時、二階の柱の蔭に黒い塊があったの覚えている?」と言います。
~~~~~~~~~~~~~
思い出してみると、確かに二階の端にある柱の下の方に何かあったかも知れませんが・・・」。
 彼女の話では、それが「桐ダンス」だったとのことです。
 炎に包まれ、真っ黒になっていたので、彼女もすっかり燃えてしまったと思っていたとか。
 火事が収まり、消防の方が黒く焼け焦げた桐ダンスを持ってきてくれた時も、
 何も期待できなかったとの事です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実際、引き出しをいじっても、消火水を含んで膨張した引き出しは、まったく動かないので、
 放っておくしかなかったとか。一ヶ月近く経って、やっと引き出しも動くようになったので、
 開けてみると、外は真っ黒でも引き出しの中は少しススが入っただけ・・・
 「もしかして」と思って中身を出してみると、
 たとう紙の中に入っていた着物や帯は無事だったと言います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「面倒だと思って、たとう紙にも入れてなかった着物は、
 ススが付いて使い物にならないけれど、
 大切にたとう紙に入れた振袖や七五三の着物は、綺麗なまま。凄いでしょう!」との事です。
 これって、奇跡ですよね!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3.どうして桐のタンスの中は無事だったのか?
もともと桐の素材は、他の木材に比べて燃える温度が高いので、なかなか燃えないのです。
 それに加えて吸水性が高い。水分を吸収すると膨張して、
 引き出しも扉もパンパンになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
梅雨の時期などは、桐のタンスが開きにくくなると言われているのは、
 このためで、空中にある水分を含んで膨張し、
 引き出しの中を密閉するので、着物保管に悪影響のある湿気被害を
 最小限度に食い止めるという特徴があるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
今回は桐のタンスが燃え始まらないうちに、
 消火水が沢山タンスに当たって桐が膨らみ、
 炎をシャットアウト。タンスの中に火が入らなかったので、
 中の着物や帯が燃えずに無事だったのでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もちろんタンスは見る影もなく、真っ黒で使い物になりませんが、
 中の品物は大丈夫だったなんて・・・昔からの言い伝えのとおり
 「桐ダンスが火事に強い」というのは、燃えにくいだけでなく、
 燃えても中のものは無事ということだったのですね。

4.まとめ
もちろん、火事を想定して桐のタンスを購入することはないですが、
 昔の人は色々な経験で桐ダンスを推奨したのかも知れません。
 そして「たとう紙保管」。ススは燃える前にタンスの中に入ってきてしまいますから、
 ススを避けるためには、常日頃からしっかり、たとう紙に入れて丁寧に扱うことが
 今回も着物を守ってくれるのに役だったようです。
桐のタンスとたとう紙は、着物保管の必須アイテムなのですね。

=================================
横浜都市発展記念館に一部が焦げた金庫の内箱が所蔵されている。
 キリ製の箱は1945年4月の鶴見空襲で焼け残った。
 94歳で亡くなった脚本家の小山内美江子さんが寄贈した


★へそくりも札もキリのタンスにしまっておくのが良いのかな!
 時代は変わってキャッシュレスだ。・・・が・

=====================
午後から6/9の防災運動会で使うものを買い物に出かける。

陸上競技用ライン引きは炭酸カルシウムでできている。
毎年私の担当で準備している。
今は畑で使う石灰が使えない!子供の目に入るのを心配して
学校では使えない。我々の時代と大分違う。
つづいて”ピストルのカンシャク玉も準備。スポーツ店に行って
紙雷管というものだ!100発で1700円と高くなった。
小さいころパンパン鳴らして遊んだものとは違う。
~~~~~~~~~~~~~
ついでに野菜苗を幾つか購入する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(5.13)

2024-05-13 16:57:11 | 日常
2024   5月13日 (月曜日)  ②    

〇雨が小ぶりの時に自治会の用事を済ませる。
午後からこれから蒔きたい野菜種を買いに出かける。
めぬまのモリタネは休みであった。出かけたついでに道の駅のバラを見に寄った。
雨に打たれて首をうなだれ気味のものも多いが
バラ園をまわって写真撮り

~~~~


荻野吟子像もちょっと怖そうである。

~~~~~~~~~~
荻野 吟子(おぎの ぎんこ〈戸籍上の本名:荻野ぎん〉、現在の熊谷俵瀬生まれ
 1851年4月4日〈嘉永4年3月3日〉 -
  1913年〈大正2年〉6月23日)は、
 近代日本における最初の女性の医師である。
 女性運動家としても知られる。

なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、
 医術開業試験制度がなかった時代から、
 榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた。
 西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる。
========================
その後コメリに寄って希望の種を購入してくる。明日以降少しづつ蒔いていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記(5.13)

2024-05-13 13:17:12 | 日常
2024  5月13日  (月曜日)    雨
昨晩から降り出した雨
今日は関東などは夜にかけても雨が続くと・・・・

日本列島に合わせたように雲がびっしりかかっている。
さて雨降りは何をするか?困った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
上毛新聞 三山春秋 12日のコラム
 ▼詩画作家・星野富弘さんの突然の訃報に、
  本紙「ひろば」欄には読者からの追悼メッセージが寄せられている。
  体操部で直接指導を受けた当時の生徒や千羽鶴を携えて入院先を見舞った女子生徒―。
  それぞれが胸に秘めた大切な思い出を語っている
~~~~~~~~~~~~~~
 ▼星野さんは1946年、旧勢多東村(みどり市)に生まれた。
  スポーツ万能で登山に熱中した。群馬大を卒業後は高崎市内の中学校に体育教師として赴任。
  体操の指導中に頸髄(けいずい)を損傷し、手足の自由を失った。

 ▼詩画を描くようになったきっかけは友人や生徒から届いた手紙に返事を出したいと思ったこと。
  入院から2年、初めて筆を口にくわえて「ア」という字を書いた。
  黒い糸の切れ端がもつれたようだった。

 ▼文章を書くのは大変で、便せんに余白があった。
  それを埋めるために描いたのが花だった。
  再び教壇に立つことはできないが、教師でありたいとの強い思いがあった。

 ▼〈わたしは傷を持っている/でもその傷のところから/あなたのやさしさが/しみてくる〉
   作品にいったいどれだけの人が励まされたことだろう。
   取材でお邪魔した高齢者宅に、小さな会社の事務所に星野さんのカレンダーが飾られていた
 ▼〈この道は/茨(いばら)の道/しかし 
   茨にも/ほのかにかおる花が咲く/あの花が好きだから/この道をゆこう〉。

   絶望のふちから希望を見いだし、命の尊さを訴え続けた人だった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★希望を見いだした・・・とあるが
 そんな簡単なことではない!
 私も星野氏と生まれは同時代で、自己管理ができていない
 自分を反省しながらだが後厄時に右脳内出血を患った。大きい出血で
 生死を分けた一瞬であった。
 しかし意識があったのですべての言葉が耳に記憶としてが残っている。
 ・・左半身が動かない。一瞬絶望を経験した。
 これが左脳であったら人生はなかったと・・・
 幸い麻痺は運動機能部分の主要部分を避けたが戻りは70%と告げられて
  又ショックであった。一寸苦しいリハビリを過ごしながら
  薄皮を剝ぐように治っていった感じであった。最後まで皮膚の感覚が微妙に戻らなかった。
 ただただ・・心の焦燥感は長い事消えなかった。子供がまだ小さかったこともあった・・
〇入院中に仲間や先輩が
 相田みつをの”人間だもん”と星野富弘の”詩画集”を差し入れてくれた。

平成元年当時のもので今も近くにある。
鈴の鳴る道も・・
 お見舞いは多くを語らずそっと本などを置いて行ってくれたのはうれしかった。
 ”辛いのは悪気はないのだが”頑張って”の言葉は刺すように響いた。
 精一杯頑張ってる最中だ!・・
 出来れば、同じような経験をした方の経験談が一番
 欲しかった事が思い出される。
~~~~~~~~~~~~~~~
 喉元過ぎれば熱さを忘れ。ではないが
 それを戒めにして時折・・本も広げ当時を思い出す様にしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする