マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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恵比須社の三夜待ち

2014年05月01日 09時40分37秒 | 田原本町へ
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「三夜待ち」が紹介されている。

大字八田では、「商家は恵比須さんを祭って、農家は恵比須さんに二股のダイコン供えた」とある。

「商家だけが恵比須さんに二股のダイコンを供えていた」と云うのは田原本の町場。

また、「商家はこの日にモチを搗いて得意先に配った」とあるのは秦庄の秦楽寺だ。

「月の出に願いごとをすると良い」と云うのは大字今里。

「三夜待に垣内の人たちが集まって会食をしていた」のは大字法貴寺である。

いずれも12月23日に行われていた田原本町の三夜待ちの様相を伝える記述である。

12月23日は二十三夜。

今でもお供えをしていると知って出掛けた蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。

摂社に恵比須社が鎮座する。

恵比須社は明治時代初めまでは蔵堂の北市場と南市場の街道沿いにあった。

何故に村屋坐弥冨都比売神社へ遷されたのか伝わっていないと話す守屋広尚宮司。

夕刻の日暮れ前にお供えをする。

笹を一本立てて、吊るした二尾の鯛。

結った縄で鯛の口からえらへ通して繋げた。

そこには二本のニンジンと一本のダイコンも吊るす。

「昔からそうしている」という三夜待ちのお供えである。



神事をすることもなく、参拝者もいない三夜待ちの在り方であるが、夜待ちもなく、しばらくすれば供えた鯛などは守屋家の夜食に回される。

二十三日は二十三夜、その夜は三夜とも呼ぶと云う宮司。

戎さんの祭り初めは初エビスの十日戎。

商売繁盛を願う商いの人たちで埋まる。

もしかとすればだが、二十三夜の月の出を待つ三夜待ちの行事は終いエビスの在り方ではないだろうか。

昭和63年に天理市楢町が発刊された『楢町史』によれば、11月23日か、12月23日を「二十三夜待ち」と呼んでいたようだ。

町史には、かつてハタ(機)を織ったときに娘たちがハタを持ち寄って三夜の月(夜半一時)を見たと書いていた。

そのことを考えてみれば、二十三日の月の出待ちを「三夜待ち」と称していたのはあながち間違いではないだろうと思われるのだ。

平成24年2月に大和郡山市の小林町で行われた三夜の集会を取材したことがある。

正月から数えて23日目。

旧暦の二十三日の夜は「二十三夜さん」と呼んで豊作や健康を祈っていたと話していた。

「にじゅうさんや」を略して「さんや」と言えば通るから「三夜」と称していたというのである。

二尾の鯛を吊るす村屋坐弥冨都比売神社境内社の恵比須社で思い起こした室生下笠間の民家で供えられた「カケダイ」。

正月元旦の日にエビスサン(恵比須さん)・ダイコクサン(大黒さん)を祀った神棚に干した一対の鯛を吊っていたのである。

吊るした二尾の鯛を「カケダイ」と呼んでいた民家の御供の在り方は三夜待ちと共通性があるのでないだろうか。

村屋坐弥冨都比売神社東側、北市場・南市場を南北に通り抜ける街道は橘街道と呼んでいる。

古来は中ツ道であったが、中世において明日香村の橘寺で参拝する街道となり、そう呼ぶようになった。

南市場より南方は幸市(こいち)、中ノ町、馬場先、馬場の岸と呼ばれる小字である。

街道は市で賑わったと思われる小字名が並ぶ。

その頃は市場垣内の商売人の店が立ち並んでいたのであろう。

祀っていた神社が恵比須社。

当時の様相は判らないが、エビスさんにつきものの鯛を供えていたと思われる。

いつしか市場垣内が廃れて商売する家もなくなった。

社は遷されて鯛のお供えだけが伝えられた。

そう思うのである。

馬場先・馬場の岸と呼ばれる地は村屋坐弥冨都比売神社の一の鳥居の南方。

その場で乗ってきた馬を降りて神社に参拝していたのであろうと宮司は話す。

馬場の岸は三角路。法隆寺から長谷寺向かう街道と交差する筋交い道の長谷街道だ。

長谷寺詣でより向こうは伊勢街道となる。

蔵堂の隣村になる伊与戸集落を抜ける道は伊勢街道だと云っていた。

街道は向かう先によって名を替えていたのだ。

(H25.12.23 EOS40D撮影)