マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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下平田の耳なおし地蔵尊

2017年01月01日 05時37分53秒 | 明日香村へ
飛鳥の弥勒石の所在地がわかった次も調べたい所在地がある。

「下平田の耳なおし地蔵尊」である。

飛鳥の弥勒石と同様に掲載されていた誌面は昭和62年7月刊の『季刊明日香風23号』。

これもまた執筆者は大阪城南女子短期大学講師(当時)の野掘正雄氏である。

“季節の神饌”をテーマに紹介していた「明日香村の民俗点描」が下平田の耳なおし地蔵尊であった。

記事に掲載された写真にお供えがずらりと並んでいた。

野菜で作ったいろんな姿、形は村の人が作ったものだろう。

それらには野菜を寄進したと思われる人の名を書いたお札を垂らしていた。

こうした野菜造りのモノを供えるいくつかの地域がある。

それらはいずれも人や人形を象ったもの。

天理市福住の不動寺の御膳、奈良市都祁小倉の観音寺の観音講会式、同市相河の観音寺の寺会式、宇陀市室生無山の牟山寺の会式などであるが、下平田は地蔵尊のお供えである。

地蔵尊のお供えを野菜で作っている地域は吉野町の各地区(丹治香束山口)や大淀町の西増にもみられる。

考えられるのは、仏事における生野菜で作る立て御膳がいつしか楽しみをもたせつつ作り方に工夫は自然発生したのではないかと思っている。

相河の観音寺を除けばすべてが無住寺。

村人そのものの手によって行われてきた会式である。

地蔵盆もしいて言えば会式である。

下平田はかつてどんど吉備姫王墓のサンノンサン亥の子祭りなどの村行事を取材した地であるだけに場所は明確である。

たぶんにあそこだろうと思って国道169号線沿いに車を走らせたら、あった。

大きな看板に大きな文字の「参百年の伝統語る 耳なおし地蔵尊」があった。

車を傍らに停めて拝見させていただく。

撮った写真はやはり湿気で霞んでいる。

レンズ曇りが解放されない。

まちがいなく水滴が浸み込んだのである。

レンズは破棄せざるを得ないが、記録はしておかなくてはならない。

耳なおし地蔵尊は大きな祠の内部に眠っている。

格子窓から覗いてみれば大きさがわかる。

記事によれば2メートル大のレリーフだそうだ。

下平田の地蔵尊に耳がない。

そういうわけがあって「耳なし地蔵」。

いつしか耳の病いにご利益があると云われるようになって「耳なおし地蔵」に名が変化したそうだ。

記事はさらに続く。

耳が悪くなった人は地蔵尊に奉納されているキリに綿を巻きつけて耳に当てれば平癒すると書いてあった。

平癒した人は病いが治ったということでお礼にキリを奉納する。

お堂には記事にある通りに多くのキリがある。

民間信仰の願いはさまざまな処で拝見することができる。

噂を知って訪れる人も多いやに違いない信仰の篤さである。

耳なおし地蔵尊の前両脇に二つの灯籠がある。

左に「天保十二年(1841) 御夜燈 正月吉日」。

右は「二月十四日 寛政九丁歳(1797) 施主當村」の刻印がみられた。

建之された年代は地蔵尊が祀られた後年であろう。



一息ついたときに参拝者が来られた。

お参りをされていたご婦人は橿原市五条野。

下平田からはそれほど遠くない距離にある。

毎日をこうして付近を散歩しているそうだ。

お参りするには理由がある。

ご主人が耳病のメニエール病を患った。

耳鳴りなどの症状に悩まされているご主人のために願をかけて参っていると云う。

ご利益はまだ授かっていないようだが、きっといつかは治ってくれると私は信じる。

(H28. 6.19 EOS40D撮影)