マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

日本の民俗をきく3・第3回高田十郎の大和-採集の鬼-in奈良県立大和民俗公園旧岩本家

2017年01月11日 10時48分26秒 | 民俗を聴く
朗読および解説は元県立民俗博物館の学芸課長だった鹿谷勲さん。

「日本の民俗をきく3」の第3回は「高田十郎の大和-採集の鬼-」と題して解説されるから聞きに行こうとお誘いの電話があった。

電話の主は写真家のKさん。

「高田十郎という人は知っていますか」の問いに「平城京跡を発掘調査していた人」と答えたら・・・。

Kさんがいうには「民俗の大御所」らしい。

まことにもって不知なことで・・・。

私は奈良県内の行事の写真撮りから「民俗」に入り込んだ。

専門的な学習をしたこともない単なる情報処理を仕事にしていたサラリーマンだった。

大御所なる人はまったく知らない。

そうであれば勉強してみようと云われて出かけることにした。

会場は奈良県立民俗博物館内ではなく、奈良県立大和民俗公園内にある移設民家の旧岩本家。

古民家の利用促進の意味もある場は自然観察会でたびたび訪れる。

観察会の場は園内の自然であるが、移設展示している古民家は建物の「民俗」を紹介する建造物。

奈良県立民俗博物館の併設会場にある。

たまたま訪れるときで出くわすのが竃の火くべ。

公園職員が雑木をくべて竃に置いた釜の湯を沸かす。

燃えた煙が上昇して室内に充満する。

充満という言い方は相応しくないが、室内をいぶす。

特に天井が煙でいぶされる。

こうすることで動態保存ができる。

この日はくべることのない講演会。



会場となった旧岩本家の座敷は聴講者でいっぱいになった。

鹿谷勲さんが主宰する「奈良民俗文化研究所」の公開講座。

代表の鹿谷勲さん自らが解説・朗読する。

講演参加費は無料だが、資料代として200円がいる。

座敷にあがって聴講するのであるが、正面の部屋であれば鹿谷さんの声が聞きとれたと思う。

私が座った場は隣の部屋。

襖に遮られるのか、聞きとり難い。

それはともかく鹿谷さんが話すテーマはいろいろある。

タイトルだけでも列挙しておこう。

「住」をテーマに「ワラビ縄」(昭和十八年刊行『奈良井上町年代記抄』所蔵の貞享二年(1685)「会所やね茸入用ノ覚え」の註)。

「食」のテーマは「茶粥」(大正九年八月「大和習俗雑話(其一)」『なら』第一号)。

「信仰」は「山の神」(昭和十一年十一月二十二日調査『随筆山村記』三 のせがわ雑記)。

「人の一生」は「婚礼」(大正十三年「奥宇陀の見聞」『なら』第二十六号)。

「俗信」は「ツチヒキ」(大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号)。

「世間話」に「夫婦ともにツハリ(悪阻)をやむ家」(昭和十二 内話『随筆民話』)。

「十五堂」の名をもつ「水木要太郎」(「大福帳の水木翁」『野火』三の十)に「方言」(大正九年「大和の方言(其一)」『なら』第一号)もある。

私の今後の勉学のために、高田十郎が執筆した出典物を( )書きしておく。

他にも高田十郎の活動日誌などもあったが、一度に読み込むにはちょっと時間がかかる。

また、庶民の生活文化への感心として「村井古道」や「吉川覚兵衛」など県内における個人レベルの民俗探訪の話題提供や近代の探訪についてなどはどうやら時間がなくて話せなかったようだ。

近代といえば何人かの名前を存じている。

県史編纂は未だみられない奈良県であるが、一部の市町村史には民俗編があり調査された報告者が執筆されている。

鹿谷さんが執筆された著書の『やまとまつり旅』は私が調査するキッカケにもなった源流だと思って書庫に収めている。

それはともかく襖の向こうから聞こえてくる話者の声。

聴講されていた知人の名前を挙げる。

田原の里に住むOさんだ。

鹿谷さんが話したワラビ縄に応えたOさん。

「今井町にある家に竹で編んだものがあった。おばあさんの家は大工だった。ワラビで編んだら落ちんど、と云われた。そのときに初めて知ったワラビナワ」である。

ワラビナワとは何ぞえ、である。

ワラビは春の山野草。

天ぷらで食べるのが一番美味しいと思っている。

そのワラビが建築に用いられる。

初めて知った構造物は干したワラビの茎。

それを編んで縄にする。

そういうモノであるが、見たことも聞いたこともなかっただけに感動する。

峠を越えるときの儀礼にある「ハナオレ」はテーマ「山の神」で紹介する。

「花を折る」とは任意にそこらにある草木の枝を折って神仏に供えることのようだ。

私は聞いたことがない「ハナオレ」を充てる漢字は「花折」。

それで思いだすのが京都の朽木村。

たしか、「花折峠」があったと思う。

思うどころか、そこら辺りの渓流で魚釣りに行った覚えがある。

思いだすのは渓流の魚釣りより以前の話し。

乗ってきたワゴン車を川原に寄せた。

そのときだ。砂場に捕まって車輪が空転する。

どうしようもない状況に車道を通る四輪駆動車に応援を求めた。

ロープでラクラク引き上げた四輪駆動車の実力に感謝した。

事故ではないが、私の事件でもあるそこら辺りが「花折峠」。

有名な活断層がある地帯であった。

祝いのモノモノを運ぶ道具に「ホッカイ」がある。

「ホッカイ」を充てる漢字は「行器」。

漢字のほうが判りやすい「ホッカイ」は「人の一生」の「婚礼」の事例で挙げられた。

「ホッカイ」そのものの道具は神社の年中行事にも登場するが事例は極端に少ない。

吉野町山口の吉野山口神社の秋祭りに並べられる餅御供を詰めた「ボッカイ」の呼び名がある道具は円筒形。

まさに祝いの形である。

田原本町八田の伊勢降神社の御田植祭のお渡りに松苗を運ぶ「ホッカイ」があるが、その形から唐櫃ではないだろうか。

天理市大和神社のちゃんちゃん祭に登場する「ホッカイ」は大字成願寺の人たちが奉納する牛の舌御供を詰めた御供箱である。

呼び名の「ホッカイ」はさまざまな形があるようだ。

近江先生の話しによれば、父親が亡くなったときに「何かせんぞというて、ツチを引っ張った」そうだ。

近江先生とは、天理丹波市の中之町伊勢講行事が納め最後になったに平成25年7月16日にお会いしたことがある。

先生が住まいする地域の行事(公納堂町阿弥陀さんの夏祭り)を取材させてもらったこともある。

続けて鹿谷さんが伝えるツチノコを奉納している地蔵さん。

場所はすぐに思いだす懐かしい奈良市の南庄町。

大晦日の日に特殊な形の注連縄を架けることを知って取材した。

その帰り道に大変な目にあった。

たいへんとは大雪である。

取材中に降りだした雪はあっという間に真っ白な景観に変化した。

道路も当然ながらの真っ白け。

しかもアイスバーン状態。

少しは溶けてからと思って夕方近くまで滞在したかな。

頃合いを見計らって行事をされていた南庄町を離れた。

道路は滑る、滑る。

ノーマルタイヤだったので滑るのは当然。

カーブ連続の坂道ドライブウエイに冷や汗・・ではなく熱い汗をかきながら必死でハンドルを握った。

スピードは出せないが停止したら動かすことは不可能。

とにかくアクセルを踏み続けて。

道路の端っこには立ち往生した車が何台も放置されていた。

市内に入ったときはほっとした。

自宅になんとか帰ってぐったり。

そのときの反省から12月になればスタッドレスタイヤに履き替えることにした。

そんな話しはともかく南庄町には腰痛地蔵と呼ばれている地蔵尊がある。

ここでは腰痛にならないように願掛けされたツチノコがいっぱいある。

掛けた願が叶って苦しんでいた腰痛が治った。

お礼に奉納したのがツチノコである。

ツチノコと呼ばれているツチの形はヨコヅチだったように思える。

とにかく多いツチノコに圧倒された話ではなく鹿谷さんが語るツチは、大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号に収録された死人が出たときの「ツチヒキ」である。

町内の人たちは今でも「ガンゴジ」と呼んでいる元興寺町。

目出度い正月に黙ってツチを引っ張っていたそうだ。

付近の町内では伊勢音頭を唄っていたというのだから、祝いもあれば喪にもあった「ツチヒキ」っていったいなんだろう。

提供される民俗話しは満載であった。

ふっと我に返って旧岩本家で聴講されていた人たちの顔をみる。

隣に座って聞いていたのは誘ってくれた写真家のKさん。

その横はサンハライ念仏を取材させてもらった奈良市鳴川町の徳融寺住職の阿波谷さん。

八島の六斎念仏取材以来お世話になっているが、何故か私の名前はKさんと思いこんでいるようだ。

Kさんに届いた賀状の文でそのことがわかった。

3人の顔が揃ったところで思い込みを解消したく、説明させてもらったら笑っていた住職は7月23日に境内地蔵堂内で地蔵盆の数珠繰りをすると話してくれた。

ありがたいことであるが、スケジュールブッキングになるから翌年持越しとしたい。

会場で声をかけていたのは田原の里のOさん。

その隣におられたのが、奈良市矢田原町でお会いしたMさん。

先月の6月1日に、である。

なんでも今月の7月1日に斎主された月次祭で平成22年3月24日に掲載した産経新聞の切り抜き記事を長老六人衆に見せて紹介していたという。

ありがたいことである。早いうちに6月1日に撮らせてもらった写真を届けたい。

この場で「おう」と手を振った男性も顔馴染み。

地元大和郡山市で源九郎稲荷神社代表を務めているNさん。

すぐ横にはFBトモダチのAさんも同席していた。

Nさんとは大和郡山市の一大行事のお城祭りの白狐渡御出発時にお会いした。

その前は「水木十五堂授賞記念講演」の式典があったやまと郡山城ホールで、だ。

1月、3月のときの私の身体を心配してくれている。

今ではすっかり・・とはいえないが、可も不可もない健康状態。

口だけは元気ですと伝えたら笑っていた。

「水木十五堂授賞式」は記録を重視していた人々を称える表彰である。

これまでお世話になっていた人たちと顔を合わせば元気になる。

そう、思った会場で紹介された二人組。

名前を伺えば「桃俣獅子舞保存会」の団体だった。

写真家Kとともに目を輝かす桃俣の獅子舞。

奈良県内には曽爾村、御杖村、旧室生村などで獅子舞を披露演舞する集団がある。

そのうちの一つであるが、大字桃俣の行事はなぜか足を運んでいない。

いずれは、と思いつつも実現はしていなかった桃俣に藁人形で作った「ワッカ」と呼ぶモノがあるそうだ。

藁に串で挿したコンニャクやエダマメなど。

それは「ヒトミゴク」の呼び名もあるらしいからほっとけない。

今年のヨミヤは10月8日。

トウヤ家の行事があるように聞こえた。

翌日の9日はマツリ。

上や下垣内の一軒ずつのトウヤ家に出かけて竃祓いを舞うそうだ。

取材してみたいが第二日曜日。

県内でもっとも行事が多い日。

さて、どうするか、である。

(H28. 7.17 SB932SH撮影)

一挙に拝見する二つの併設写真展

2017年01月11日 10時26分40秒 | しゃしん
おふくろの友だちのうちの三人がアマチュア写真家。

始めてお会いしたのは高取町のお城祭り。

時代行列に南京玉すだれなどを撮って歩いていたときに出合った。

その日はおふくろもかーさんも一緒に会かけていた。

まさか、ここで遭遇するとはおふくろも思わなんだ、と今でも述懐する。

その三人のうちのお一人は写真クラブに入ってめきめきと腕をあげている。

それとは関係なくFBで案内されていた写真展を見に行った。

会場は写真展や県展などさまざまな会が利用している奈良文化会館だ。

会場に行けば主催のFCCならのKさんが受付をしていた。

月ヶ瀬の桃香野の一万度祭の場で始めてお会いした方は所属する会社は写真のことなら一切をおまかせというトミカラーである。

ひと通りの作品を拝見させてもらったなかにおふくろの友だちの作品があった。

今度もなかなかのいいデキである。

そうでしょうと云ってくれたのはKさんだ。

その会場に見慣れた女性が現われた。

2年ぶりにお会いした女性は和歌山からお出まし。

JNP和歌山市部所属のKさんはFBで伝える病状を認識されていた。

思ったよりも元気な姿に驚かれた。

記念の一枚をとFCCのKさんが撮ってくれた写真は顔が引きずっているような表情だ。

目線はカメラアイから外れている。

女性と並んで撮影されるなんてことは滅多にない、というか、あり得ない。

そういうことだからどうしていいか手の置き場も困ってしまう。

それはともかく次の会場も奈良文化会館。

同じフロア内の中ロビーを挟んだ向こう側である。

写真展は第38回なら写真展。

入選作品もたいしたものだが、入賞作品には圧倒されてしまう。

何を隠そう、私も随分昔しに入選、入賞したことがある。

一つは平成17年の「出荷準備」。

初の入選に心がときめいた

二つ目が入賞した平成14年の「大陸鼓動」。

送るときにふっと閃いたタイトルに救われたような気がする。

三つめは平成15年の「勝負あり」。

ダイナミックな動きをどろんこ相撲で表現した。

その後の平成17年を最後に各種のコンテスト狙いはやめた。

力量がわかっただけで、一応の目標は達成したと考えて手を出すことはなくなった。

(H28. 7. 9 SB932SH撮影)

2年ぶりに会う元気かい(会)in大阪難波の個室和食みずき

2017年01月11日 09時17分02秒 | 食事が主な周辺をお散歩
毎年のように出かけていた十津川村。

場所は宿泊する民宿津川から上流の滝川である。

近年は土砂崩れによって滝百選に選ばれている笹の滝に入ることもできなかった。

河原で食べるひとときをゆっくりずむに寛ぐ時間に顔を合わす仲間がいる。

平成14年の9月末まで勤めていた会社の仲間たちとは一年に一度は当地で合流していた。

前年は32回目を迎えるはずだった。

ところが肝心かなめの私が心臓病で入院することになった。

ときは7月初めだが手術処置をして退院したのは8月半ばの盆の日。

例年は8月末の土曜、日曜に合流していた。

日程も決めて仲間たちに連絡をしていた。

が、である。

壊れた心臓は手術をして退院をするも長期療養の身となった。

電話で伝えることは「みなで行ってくれ」である。

宿泊や食材調達から道具手配まですべてのことを私がしてきた。

長年に亘って知らず知らずのうちに担った永久幹事。

宿泊所が辞めるか、私が動けなくなるまで続けようと思っていたが、それがほんまにきた。

みなの決断は中止である。

身体状況はその後においても芳しくない。

そのことはみなにSNSで伝えていたから存じているが、文字や電話の声では臨場感がない。

ここんところは週一ペースで測っている外来棟受診の血圧・脈拍数値シートで通知している。

ところが、その値は正常値。

測定に現われない安静な状態では危険水位に近い脈拍数。

だが、思い切ってみなに伝えた。

Aくんが誘う分厚いステーキ肉の画面に対して入れたコメントは「6月14日の状態に時系列に測った血圧と脈拍シートを縮小して貼り付け。

外来棟に着いた直後の11時8分は180-100に脈拍は52拍。

寝台にで横たわったほんまもんの心電図計測から5分経ったときの11時56分は、血圧が124-68に脈拍は48拍。

やや安静状態に近い。

リハビリ運動する直前の13時3分は130-67に脈拍は55拍。

外来棟でうろうろしていたらこうなる。

リハビリ運動を終えた数分後の14時36分は119-71に脈拍は62拍。

これをみれば順調な状況と思われるでしょ。

実は、です。寝台に横たわった安静な状態で測った心電図検査での脈拍は40拍になる。

おかしいでしょ。

2月前に計測した運動負荷テストに医師が診断した回答は、私の心臓は二つのペースメーカー(発信器)があるという。

一つは安静状態に働くペースメーカー。

もう一つは運動したときに働くペースメーカーである。

そういうわけで起床、朝食、新聞読みとかの時間帯や就寝時はだいたいが40-42拍。

自宅周辺を歩くリハビリ運後であれば50-55拍。

ですが、同乗者を乗せての車運転は不許可。

単独走行の場合だけは許可を得て往復60-100kmは走っている。

先月は47年ぶりの高校同クラスの同窓会に梅田まで出かけました。

飲む、食べる量は減りましたが、特にしんどさは感じなかったので、分厚いお肉でなくともかまいませんのでどうぞお誘いください」と返答したのは6月15日だった。

その後の6月29日のコメントは「毎週火曜日はリハビリ通院。あいも変わらず、リハビリ運動する病院の血圧計で測る脈拍はフツー。隠された事実は安息な状態での脈拍。起床、新聞読み、トイレ、朝食、服用直後に測る自宅計測の血圧計に表示される脈拍は・・・。本日29日は43拍。前日の28日は39拍。27日は39拍。26日は42拍。25日は43拍。24日は41拍。23日は42拍。22日は40拍。21日は40拍。20日は44拍。19日は51拍。18日は41拍。・・・・・二つのペースメーカーが動作するもんだから、まあ、こんなもんだ。身体が動いておればまったく問題はないと心臓リハビリ療法士は太鼓判です。7月1日、3日、5日(通院)、7日、10日、12日(通院)、14日以外は・・すっからかんに空いています」と返答したら数日後に「十津川組・復帰祝いの宴」を決めたと連絡が入った。

日程は7月2日。

宴の場所は大阪市中央区難波にある「個室和食みずき」なんば店。

ネットにあった場所案内地図。

大阪難波高島屋の向こう側の街。

「なんばマルイ」北隣とあったから、「だいたい」判ったと返したら、行ったことはないが、「北極アイスクリーム」の近くと返す。

大阪難波は子供のころからおおばあさんやおふくろに連れられて出かけていた処。

千日前の「いづもや」(2008年3月末閉店)の鰻のまむしは買えなかったが、焼いてタレ漬けした鰻の頭と尾っぽを竹の舟に盛った持ち帰り「ハンスケ」は我が家のご馳走だった。

そこまでいかなくとも「だいたい」で判る。

判っていたつもりはもろくも崩れる。

近鉄難波駅を降りて地下鉄に乗る上の階に上がる。

そこから高島屋に向けては地下道。

大阪住之江に住んでいたときは逆方向。

ビジネスの帰りは同じ方向に歩く。

地下道から何本か筋を目指す。

そこにあった「○Ⅰ○Ⅰ」の表示。

いつ開店したのか知らない関東では超有名な「マルイ」。

そこから近いと判ってはいるものの地上はどこだ。

脱出口が見つからず店員さんに道を聞けば、そこが地上口。

なんと目と鼻の先にあったが、人、人、人でごった返す店内では案内表示もなく、迷い人。

店をでて左折れ。

なんとなくそう思って人波にのって歩き始めた。

「北極アイスクリーム」の看板は見つからず、豚まんの「蓬莱」が・・・。

なんとなく道を迷ったようで、主催のMさんに電話する。

「ここどこと云われてもな」、というのが精いっぱいの回答。

北も南も方角が判らない街の様相。

御堂筋は見えていても「ココドコ、ボクダレ」である。

5月28日は21年ぶりの同窓会に集まった大阪梅田の曾根崎。

梅田界隈から曾根崎への道が判らず街を彷徨った。

大都会に来ると方角がまったく判らない。

地下に潜ればなおさらだ。

その点、奈良県内では山立てができる。

生駒山、葛城山、金剛山、三笠山、天理の山々に三輪山。奥吉野まで見える盆地部から眺める景観で東西南北が一目で判るが、梅田も難波も大都会。

暮らす住処に大きな違いがある目的地探し。

都会人が奈良県に訪れるときは逆に面食らう。

方角どころが標識案内が不徹底やと怒るひととも過去なんどかあった。

市の施設にいたときなんかエライ目にあったこともある。

それはともかくようやく探し当てた「北極アイスクリーム」の看板。

その隣の角地に「個室和食みずき」の看板が見つかった。

難波で10分間の彷徨い人。

疲れがどっとくる。

その店の前に立っていたのはSくんだ。

姿、顔をみるなり、「病後とは思えないですよね」と云う。

そう、見かけはそうなんだ。

ここで待っているわけにはいかない。

先着組は階上に居る。

声をかけた店員さんは「ここで待て」という。

なにがなんだかわからないが待つ。

動きがないからもう一度、声をかける。

そうすれば案内する。

おかしなところだ、と思った。

案内された室内には同年齢のMさんに60歳になったUくんや肉で誘いをかけたAくんに別会社に転職したTくん婦人のKさんが座っていた。

馴染みがあるすぎるぐらいの元同僚たちに囲まれた。

集合時間は過ぎていた。

もう一人のUくんが到着しない。

携帯電話にかけても留守電。

それも外人女性の声で返す留守電には対応不可。

そのうち来るだろうと宴はスタート。

呑み助ばかりが集った旧来の顔ぶれ。

すぐさま賑わい状態になった。

宴は「2時間飲み放題コース」。



つきだしについている梅酒ではノリが悪い。

最初の乾杯はジョッキビール。

二杯目からも店員さんに頼むのもめんどくさいのでピッチャーに換えた。

幹事の話しによれば飲み放題は「泳ぎイカの姿作り」と「国産黒毛和牛のステーキ」もつくらしい。

お店のHPによれば前酒に「あっさり仕込んだ梅酒」。

前菜は「本日仕込み前菜三種盛り合わせ」。



造里は「5種の造り盛り」。

冷菜は「夏野菜の彩り健康サラダ 和風柚子ドレッシング」。

焼物は「国産黒毛和牛のステーキ オリジナルソース」。

後造は「泳ぎイカの塩焼き または 天ぷら」。

逸品が「森林地鶏と夏大根の炊き合わせ」。

揚物「本日入荷鮮魚の梅肉揚げとおくらの天ぷら 自家製ごま塩で」。

〆物に「北海道直送とうもろこしの炊き込み御飯」で、甘味は「本日のおすすめデザート」。

4千5百円のところを消して5百円引きの4千円。

お得なのかどうか判らないが、次々と運ばれる。

会話は弾むし、出てくる料理にも弾む。



健康サラダっていうけど、ほんまに葉っぱだけやん。

和牛ステーキの小さいこと・・・。

小さいどころか細く見えるのに笑ってしまう。

こっちの皿の方がなんとなく分厚く見える。

なんじゃ、こりゃ、である。

それにしても塩焼きしたような感じでソース味がしなかったのは、なんで・・・。



白い皿に盛ったイカの可愛いこと。

小さくて、これもまた笑ってしまう。

和牛もイカも貧相に見えるのだ。

と、いうよりも、ほんまに貧相・・・。

出てくるたびに携帯で撮りまくる。

酔ったいきおいで撮っているものだからピンボケの連続。



こんなもんやということでアップしておく地鶏大根の炊き合わせ。

味はまあまぁの旨い方に、と思った。



鮮魚とオクラの天ぷらもやっぱり小さい。

小粒まるだしの料理にはあきれかえってしまう。

ここは料理屋とちゃう。

一杯飲み屋でもない。

居酒屋でもない。



お腹が減って仕方なかった〆のメシはトウモロコシ炊き込み御飯。

二杯もよそったような気がする。

最後のデザートはバターやったっけ。

ではなく、チーズ。

これがお勧めなら、客をなめとる、としか言いようがない。



一時解散して夜を歩く。

二次会は難波地下。

都会のアイスクリームで口直しだ。



帰宅するころにMさんからメールが届いた。

「今夜のお店はダメでした。部屋は臭いし、遅いし、肉は堅いし、店員も・・・が多いし」と散々。

「ネットだけではわからんかったから、ええ勉強になったわ」と詫びる幹事。

2年ぶりに再開する十津川遊びはふんだんに食べて飲んで遊ぼうぜ、と日程を決めた。

いつもなら8月末の土曜、日曜にしていたが、システムの切り替え等で参加できなかった人も居る。

8月末の考え方は子供中心。

夏休みの最後の週に家族も一緒になって寛いでもらう。

そういうことで日程を設定していたが、今では手離れ、子離れ。

定年を越えた男たちになった。

仕事勤めをしている定年前の人も考慮して9月の二週目に決定した。

(H28. 7. 2 SB932SH撮影)