マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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大岩・涅槃会の日に拝見する村の文化財

2018年01月26日 09時31分59秒 | 楽しみにしておこうっと
フェースブック(以下FBと表記する)で知り合った大淀町大岩のK区長は、3月に大日堂で旧安楽寺涅槃図を掲げて涅槃会をすると伝えていた。

K区長がリクエストしてくださったFBで繋がったのは平成29年の1月19日のころ。

かつては御所市戸毛にも立山があったと伝えてくれた。

50年前ではあるが、貴重な体験をされていた。

体験した年代は10歳のころの子供時代。

そこでサイダーを飲んでいたという。

区長が住む大字大岩は戸毛より一山超えた南側にある地である。

大字戸毛に立山があったと知った私は隣村の高取町丹生谷に住むNさんに尋ねた。

戸毛、丹生谷、大岩はまさに近隣の村。

一山を境にある地区である。

Nさんはあったという情報を基に地域在住の何人かに聞き取り調査をされた。

その結果わかったことは、確かにあったということだった。

Nさんから送られてきたメール文は「場所は戸毛の街道沿い。時期は8月23日と24日の地蔵盆の時。規模は街道沿いの町家や倉庫等数カ所で、夜店も出て花火もあがって賑やかでした。主催は、昔は商工会が主催し、その後戸毛の各隣組が、それぞれが一つの山を出したようです。動きがあるような山もあり、作り手が戸毛でいなくなった時に、上市の作り手から購入した事もあったという情報も得ました。いつまでやっていたのかは定かでないです。昭和40年頃まであったかな。今では元の戸毛小学校跡で同時期にイベントが行なわれています」。

続けて送ってきたメール文に「それは凄い人盛りでした。私が住む地区は高取町丹生谷ですが葛駅を挟んで西側が御所市戸毛、子供のころの買物の場、遊びの場でした。7月の23日、24日は隣の高取町谷田の地蔵さんで花火が上がり、8月には戸毛の地蔵さんで沢山の夜店が出て花火もあがり・・・。懐かしいです」とある。

さらに続くメール文は「場所は葛駅前でなく、飛鳥時代の紀路→高野街道→中街道(奈良~五條)→現県道高取-五條線の街道筋で行なわれました。当時は奈良交通のバスが御所~下市まで運行されており、この街道を走っていました。現在では国道309号戸毛バイパスが出来、車もそちらへシフトしましたが、御所市のコミュニティバスはこの旧街道を走っています」。

「カーバイト燈で照らされた夜店では、たこやきなどの食べ物やサイダーなどの飲物、金魚すくい、型抜き、あてもの、お面等が売られ、その日だけに和菓子屋が販売する「しんこ」(赤福のようなあんころ餅)が何よりの楽しみでした。今でもこの“しんこ”は存在します」だった。

Nさんの思い出話は尽きない。

貴重な体験話しにある「上市の作り手から購入した事もあった」という下りである。

実は上市町に今でも立山を実施していることがわかった。

平成28年7月30日にその実態を聞取りしていた中に“六軒町の立山”は橿原市の八木町に引き取られていたということだ。

上市の立山は廃れて、今では六軒町でしか見られないが、かつては街道沿いに連なる隣町でもしていたというこから、いずれかの町が戸毛に譲られたのであろう。

お二人の記憶が上市の立山に繋がったのであった。

さて、大岩の涅槃会である。

間に合うかどうかは、明日香村大字上(かむら)で行われていた「ハッコウサン」次第だった。

大岩の涅槃会は午後2時から行われると聞いていた。

上(かむら)の「ハッコウサン」の行事が始まる時間は午後1時。

短時間で終わりそうな気配だったが、直会も含めれば1時間以上も要する。

上(かむら)の村人たちに失礼してそこそこ早めに退席する。

明日香村から大淀町へ行くには一山越える。

距離はざっとみて片道12km。

距離はそれほどでもないが、カーブ道にアップダウン道。

しかも初めて訪問する大字大岩。

涅槃会をすると云っていた大日堂の場所すらわからない。

あっちでもない、こっちでもないと車を走らせたら町経営のパークゴルフ場を貫く峠道まで行ってしまった。

Uターンして下ったところに行事帰りの男性に尋ねた大日堂の場はわかった。

場所だけでもと思っていたが、お堂に待っていた人がいた。

丁度終わったばかりで扉を締めようとしたときに、村の人から訪問者が来たという連絡が入ったから待っていたといったのは区長さんだった。

時間は午後3時を過ぎていた。

ありがたいことに仕舞ったばかりの涅槃図を広げてくださった。

屋根瓦の風化に板材の腐食による雨漏りが激しかったことから、平成24年度に改修工事を実施された大日堂。



その工事のおかげもあって屋根裏から延宝八年(1680)の銘を刻んだ鬼瓦が発見されたそうだ。

安置されている仏像に木造大日如来坐像がある。

元禄十年(1697)に他所から移されたと伝わるが、来歴は定かでない。

平安時代後期の作と考えられている大日如来に伝わる話しがある。

「夏の日照りが続いたとき、大日さんが雨を降らせてくれると、お堂の前で雨乞い行事が行われていた」という伝承である。

大淀町に貴重な民俗行事を伝える大日如来。

吉野地域でも優れた仏像としての価値が認められて平成2年に大淀町の有形文化財に指定されたと町のHPに書いてある。

涅槃会行事には間に合わなかったが、89歳のおばあさん(区長の母親)が唄っていた雨乞いの詞章があると史料を見せてくれた。



書き遺した詞章史料は「たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん」とある。

今にも母親が唄う声が聞こえてきそうな詞章である。

県内事例に「雨たんもれ・・・」と唄っていた事例は数多くあるが、全文が遺っている事例は多くない。

しかも自筆。

後世に遺しておきたいという思いが伝わる貴重な史料である。

大岩の雨乞い行事に、現存する打ち鉦も遺されていた。



外縁含む全幅直径は32cm。

縁部分を除けば28cm。

内径は25cmで高さは9cmの打ち鉦に刻印があった。

「和刕吉野郡大岩村安楽寺 住僧楽誉極念代 寶永三丙戌歳十月十五日 施主念佛講中」である。

寶永三丙戌歳は西暦1706年。

製作した年より雨乞い道具として叩いていたと推定してもざっと数えて310年間。

打つ鉦の音に合わせて「雨たんもれ」と唄っていた。



打ち継がれてきた鉦の音色はどことなく優しい。

大日堂は明治時代に廃寺になった。

現存する扁額に「安楽寺」とあったことから、寺の小堂であったようだ。

その「安楽寺」の刻印がある打ち鉦は大岩の歴史を物語ってくれる。

打ち鉦を寄進したのは当時の念仏講中であったことがわかる。

これまで私が拝見した雨乞いに打っていたとされる鉦の事例は2枚ある。

桜井市萱森・集福寺薬師堂の六斎念仏講が所有する雨乞い鉦と奈良市法蓮町の阿弥陀講が所有する農休みのアマヨロコビに叩いていた鉦である。

いずれも年代を示す刻印はないが、作者は西村左近宗春であった。

戦後間もないころまでしていた大岩の雨乞い。

今から70年も前のことである。

標高240mにある尾根道に井戸のように湧く泥水を掬って、「タンゴオケ(肥桶)」に入れて運んで尾根を下りた。そして、「雨たんもれ」と云いながら大日堂の屋根に泥水を放り投げていた。

行列を組んで尾根の井戸に向かうときに唄ったのが「雨たんもれ」である。

長らく井戸の所在がわからなかったが、現在77歳の男性が兄とともに行ったことのある記憶を頼りに探してみたら見つかった。

僅かに残っていた頭の中の記憶を頼りに探し当てた。

その地はまさに尾根であるようだ。

日照りであっても水が湧く不思議な地の池。

名前のない池であるが、そこは“大日さんの井戸”の呼称がある池。

高取町丹生谷の微妙な地域内になるそうだが、隣村の御所市葛と大淀町大岩3村の境界地点。

尾根そのものになる場に池がある。

そこには大日如来がおたびらをしていたという。

おたびらとは大和方言で“胡坐“を意味する。

おたびらしていた大日如来は大岩の大日堂に連れてきて納まったと伝わる

“大日さんの井戸”から運んできた泥水は大日堂の屋根に放り投げた。

その屋根を洗い流そうとしたら、雨が降ってきたという。

泥水が汚れておれば、なお一層の効果があったという。

雨乞いの詞章に打ち鉦。

そして、“大日さんの井戸”。

三つ揃った大岩の雨乞いは文化財。

90歳の男性体験者が生きている間に再現、復活したいと区長が話してくれたのが印象的だった。

この日の涅槃行事取材は翌年に持ち越しとなったが、雨乞い行事の復活に力添えができれば、と思った。



また、3月の涅槃会以外に大日堂行事は2月の「大日さん」と呼ぶ行事もあるそうだ。

大日堂は元真言宗派。

区としては宗派替えもあって現在は浄土真宗。

大岩区は東垣内と西垣内の二つ。

同じ浄土真宗であっても寺は異なる。

東垣内は大蔵寺。

西は西照寺になるそうだ。

また、月に一度は「おっぱん」を供えているらしい。

「おっぱん」は「仏飯(ぶっぱん)」である。

その「おっぱん」を盛る杯がある。

杯を納めている箱は当番が持ち回りする。

この日行われた涅槃会にも「おっぱん」をしていたという。

長々と話してくださった区長が云う。

家に来てもらったら、貴重な鰐口をみせてあげようと、いうことで上がらせてもらう。

箱に納めていた鰐口に刻印がみられる。



「城山国 相楽郡 賀茂 東明寺 永享ニノ十 六月十七日」と読めた鰐口は西暦1430年に製作されたものだった。

今から588年前に製作されたと考えられる城山国相楽郡賀茂(現京都府加茂町兎並寺山)東明寺の鰐口が何故に区長家にある経緯はわかっていない。

加茂町と大岩の繋がりすらわからない、という。

調べてみれば、加茂町に日蓮宗寺院の燈明寺がある。

寺伝の元禄九年記の「東明寺縁起」によれば奈良時代の行基が開基したと伝わるそうだ。

東明寺”は法人登記があるものの現在は廃寺同然にある燈明寺であったようだ。

“東明寺”は建武年間(1334-1336)の兵乱で廃絶したのち、康正年間(1455-1456)に天台宗の僧忍禅が復興したそうだ。

鰐口の製作年が永享ニ年(1430)とあることから、復興する前から寺の存在はあったとしても、持ち主を失っていたのではないだろうか。

製作はしたものの行き場を失った鰐口が、どういう経緯で大岩に行きついたかは不明であるが、これもまた歴史を物語る逸物である。

また、区長が伝えてきたFBメールがある。

「奈良県薬業史によると、文久三年(1863)に大淀町大岩に合薬業を営んでいた人がいたそうです。私の家には“重訂 古今方彙(安永九年(1780)版本”が残っています。なぜに我が家に残っているのか、大岩の薬業の歴史をこれから調べていこうと思っています)とあった。

数々の歴史文化がある大岩に魅力をもったのは云うまでもない。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)