マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

初成り御供のモロッコインゲン

2017年01月24日 09時26分04秒 | 民俗あれこれ(初成編)
廃屋になっていた農小屋を撮っていたときのことだ。

下から軽トラが登ってきた。

地蔵堂下の三叉路でUターンを仕掛けたドライバーさんはほっかむりをしていた老婦人。

切り返す度に「危ない」と思わず声が出てしまう。

バック運転が心もとない。

困っている人をそのままにしてけば崖下に落ちる可能性があると思って誘導する。

ハンドルきってアクセル。

バックもこうしてハンドルきりをすると伝える。

何度も、何度も前進、後進切り返し。

なんとか切り抜けた軽トラに積んでいたインゲンマメが気になった。

停車した処はご婦人が住まいする家。

若いもんと同居生活をしているそうだ。

昭和11年生まれのN婦人はいつも畑にでるようだ。

気になったのは収穫されたインゲンマメである。

先ほど拝見した地蔵堂境内に建つ庚申さんにお供えがあった。

それがインゲンマメだったのだ。

もしかとして、と思って声をかけたらNさんが供えたものだった。

インゲンマメはモロッコインゲン。

最近は市場によくでるようになっているらしい。

フライパンで炒めて玉子とじしたらとても美味しいという。

どっさりあるから持って帰りと云われて袋詰めしてくれた。



さらに伺った庚申さんにお供え。

前月の6月12日に訪れたときにもお供えがあった。

それは万願寺トウガラシだった。

お聞きした結果は、それもNさんが供えたもの。

栽培した野菜の初成りにはいつもこうして庚申さんに備えているという。

初穂で稔りの稲穂になるが、婦人が供える野菜の初成りも初穂の在り方。

収穫に感謝して農の神さんに初穂をするということだ。

できれば初穂の姿を撮りたいがいつになるやらわからない豊作を願う在り方に感動した日であった。

(H28. 7.10 EOS40D撮影)

木舞造りの農小屋

2017年01月23日 09時21分55秒 | 桜井市へ
草鞋作りの一部を拝見して地蔵堂が建つ地を下りた。

その角地にある景観が美しく輝きだした。

振り返り見れば農小屋があった。

当たった光が古い土壁に輝きを照らす。



その侘びさがなんともいえない情景を描いてくれる。

落下状態になった土壁に歴史を感じる。

その土壁から現れたのは竹で格子状に編んだ「木舞(こまい)」。

むき出ししたことで建築状態がわかる。

水と藁を含んだドロドロの土をこねて塗る。

左官屋さんの仕事である。

屋根はトタンの波板葺き。



よく見れば下地に何らかの木材が見える。

これは何だろうか。

竹でもなさそうに見える。

植物に違いないと思うが・・もしかとしたらススンボの茎??。

それとも檜皮なのか。

(H28. 7.10 EOS40D撮影)

笠テンノオイシキの草鞋作りの場は地蔵堂

2017年01月22日 09時09分24秒 | 桜井市へ
「テンノオイシキ」の行事を数年前に復活させたAさん。

長らく中断していた行事を復活させたいと思っていた。

一人でするには労力も時間もかかるが、少しずつ戻そうと努力を重ねてきた。

ツナウチ保存会を立ち上げて平成26年に復活したというから、つい最近のことである。

「テンノオイシキ」は牛頭天王を祭る「天王会式」が訛ったと考えられる。

立ちあげた保存会は「牛頭綱打」。

Aさんの他、大字以外の人たちの協力による復活である。

当地に鎮座する神さんは牛頭天王。

牛頭天王宮の燈籠に「寛政四年(1792)十一月吉日 天王宮常夜燈」の刻印がみられる。

牛頭天王宮が鎮座する境内地に堂宇がある。

昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった堂宇はAさんに確認すれば、やはりの地蔵堂である。

地蔵堂と牛頭天王社の間にあるのは庚申石と先祖供養の奉供養石である。

祠はいつの年代に建てたのか記録はないようだ。

天王社や地蔵堂がある地は千森(ちもり)。

上組、中組、奥組の三つの垣内で守ってきた。

前述した庚申さんの行事がある。

旧暦閏年に行われる行事は「トウゲ」の名がある。

桜井市の山間では「トウゲ」や「トアゲ」、或は「トウアゲ」などの名で呼んでいる旧暦閏年の行事が数多く残っている。

私が知る範囲内に小夫、小夫嵩方、修理枝、瀧倉、芹井、北白木、中白木、脇本、出雲など。

民俗調査された津浦和久氏によれば鹿路、飯盛塚、百市、西之宮、北音羽、今井谷、高田、生田、池之内、東新堂、慈恩寺、倉橋、上之宮、戒重、新屋敷、大西、吉備、阿部、谷、高家などである。(※ 名称が不明な地域は除く)

ちなみに千森のトウゲはだいたいが3月ころ。

花立を作って立てる。

先に葉をつけた杉の木を削って願文を書く塔婆も立てる。

塔婆作りは二つの垣内。

二つの垣内が毎回、交替して作る。

祈願するトウゲ行事を終えたら作った垣内以外の垣内が持ち帰っても構わないようだ。

ただ、持って帰る時間帯は夜中。

人に見られんように持ち帰る。

持ち帰った塔婆は玄関軒下に架けておくそうだ。

それは泥棒除けのまじないになるらしい。

そういうことはかつてあった地蔵講の人に教わったと話す。

地蔵堂は桜井市の市街地、商店街の人たちが寄進して建てたそうだ。

お寺は桜井市桜井の来迎寺(融通念仏宗派)。

仏具を寄進してくれたそうだ。

地蔵堂の昔しは長谷寺真言宗派だった。

今では無住である。

大字笠には融通念仏宗派の妙徳寺がある。

かつては真言宗派の加佐寺があった。

「加佐」はまさに「笠」であるが、今の竹林寺。真言宗派から融通念仏宗派に宗派替えした。

いつの時代に村全体が宗派替えをしたようである。

その竹林寺のご本尊は薬師如来。

4月と9月の8日に薬師祭が行われているようだ。

ちなみに隣村の天理市藤井の行事にオコナイがある。

今では無住寺であるが、笠から僧侶が来られて念仏を唱えられた。

笠の妙徳寺(妙円寺?)の僧侶はランジョーをご存じでなく、突然に始まった太鼓打ちや縁叩きの作法に驚かれていたことを覚えている。

融通念仏宗派には見られない作法に驚かれたのであるが、藤井も笠もかつては真言宗派。

それゆえオコナイと呼ぶ正月初めの初祈祷が行われているのである。

その妙徳寺の僧侶はお盆に参ってくれると云う。

12月、十夜の法要には数珠繰りをしていた。

「なんまいだ なんまいだ」を繰り返しながら数珠を繰っていたという数珠が地蔵堂に残されている。

テンノオイシキの草鞋作りは地蔵堂の縁で作業する。



滅多に開けることのない地蔵堂を見ていただきたいと扉を開放してくださったAさんのご厚意で本尊の錫杖をもつ石造りの地蔵立像を拝見する。

その場には昭和50年2月吉日、昭和55年3月3日に寄進された二冊の『西國三十三所御詠歌』本がある。

一つには「融心院究法清通釋居士」、「究覚院融法妙通釋定尼」の両名があった。

ここで数珠繰りをしていたと云って見せてくださる。

それほど古くもない地蔵堂什物の木魚箱もある。

前述した地蔵講の所有物であったろう。

本尊奥には奉納融通大会・・・の札とかもあるから現在は融通念仏宗派。



室内には今ではまったく使うことのない伏鉦があった。

新しい撞木(しゅもく)は「平成8年2月 地蔵堂」とある。

その時代は地蔵講による会式があったと云える道具である。

その伏鉦の裏面を拝見させていただく。



そこにあった刻印は「和州式上郡笠村地蔵堂什物 宝暦十一年(辛巳 )年三月吉日 京大佛住西村左近宗春作」だった。

宝暦十一年は西暦1761年。

今から256年前である。

所在地、製作年、鉦製作者の三つとも刻印があることで明白な歴史を知るのである。

同寺にはもう一つの伏鉦があったが、こちらには刻印がなかっただけに貴重な史料である。

棚にあった箱に「昭和四年 初夏 櫻井佃田大師講」の文字があった。

地蔵講は地元民であるが、大師講はどこであるのか。

世話方が12人、寄付者は連名64人を記された「佛具購買貴寄附御氏名」額もある。

前述した市内市街地の人たちである。

さまざまな人たちが関係してきた地蔵堂であった。

地蔵堂がある地は旧伊勢街道。

面影は見られないがかつては往来する旅人が一休みする休憩場があったそうだ。

伊勢に向かう旅人は旅の安全を願って庚申さんに手を合わせていた。

その関係もあって千森の垣内の人たちが縄を結って奉っていたらしいこの場を峠越と呼んでいた。



かつての縄結いは垣内の人がしていた。

藁打ちをしてから縄結いをする。

作った注連縄や供える草鞋は一時保管。

14日のテンノオイシキの日に架けていた。

テンノオイシキに先だって作らなければならないのが稲藁で作る草鞋である。

稲藁は収穫した古代米。



ずっと拝見していたいが、時間的な都合で一足を編んでいる状況を撮らせてもらって下った。

(H28. 7.10 EOS40D撮影)

箸中のコンピラサンの夏祭り

2017年01月21日 09時03分46秒 | 桜井市へ
桜井市の箸中で行われている行事はいただいた史料からどのような行事があるのか頭に入っている。

尤も何件かは取材をさせてもらって記録もしてきたから熟知していると思っていた。

ここへ来ればどうしても通らざるを得ない里道がある。

清流に住む川魚が泳ぐ小川がある。

上流は三輪山辺りの山裾から流れる川だ。

最上流はソバで名高い笠の地である。

その川沿いにあったお祭りの仕掛けがあった。

竹は二本。

てっぺんの葉を残してそれ以下はすべての葉を落とした竹。

中央辺りに水平にした竹で縛っている。

倒れないようにしているだけなのか、それとも・・・。

その場は「嘉永元申年(1848)十二月吉日 金毘羅大権現 天照皇大神宮 講中 世話人」の刻印がある石塔がある。

この道はこれまで何十年に亘って何度も通っているのだが、気にもしていなかった。

何かの文字があるとは判っていても気にならない。

私がよく訪ねる元総代家では存知しない石塔である。

だが、この日は砂盛りをした場に竹を立てて花も飾っている。

なにかの祭りには違いない。

刻印から何らかの講中がしていることはわかるが講名は・・・。

笠のテンノオイシキの草鞋作り取材が待っている。

戻って来られたら、そのときにでも聴こうと思って先を急ぐ。

そして戻ってきた時間は午後5時半。

なにもかもが消えていた。

残っているのは砂盛りだけだ。

川向こうに若い人がいる。

もしや、なにかご存じで、と思って声をかけた結果は・・。

今日は最後の日だったという行事は「コンピラサン」。

石碑にある「金毘羅大権現」である。

正式な講中の名は判らないが「コンピラサン」の講だと云う。

7月9日、10日がコンピラサンの夏祭り。

二日間の両日に燈明を立てるそうだ。

講中の件数も不明だが、燈明に火を灯すのは当番の家のようだ。

10日のこの日は午後5時に三つの提灯を水平に設えた竹に吊るしたそうだ。

お供えやお参りがあったのかどうかわからないが、すぐに片づけたと云う。 

(H28. 7.10 EOS40D撮影)

矢部の祇園祭の燈明灯し

2017年01月20日 09時22分47秒 | 田原本町へ
ハツホ講のハツホサン参りに訪れた際に通る集落道に神社がある。

田原本町矢部に鎮座する杵都岐神社である。

この日は鳥居横に提灯を立てていた。

提灯があるということは祭りごとがある。

で、なければ提灯など立てるわけがない。

そう、思ってハツホ講の人たちに聞けば、この日から始まった祇園祭の提灯だというのだ。

矢部の祇園祭は7月7日から15日まで続く。

田原本町で一番の盛り上がりを見せる祇園祭は本町通りの津島神社。

今でこそ第三土曜、日曜になったが本来の祇園祭は7日から14日まであった。

ところが矢部では一日多い15日までだという。

神事は7月10日。

午後2時より田原本町の多に鎮座する多坐弥志理都比古神社の多宮司が斎主を務めて斎行される。

神事はたぶんに一般的だと思えるが、毎日に行われるのは燈明灯しである。

灯すのは夕方の日暮れ時。

決まった時間はないが、7日からの毎夜に一日当番で灯すのは班分けした1組から10組の村人たち。

日程数と一致しない組数が不思議だが、おそらくいずれかの組は分割していると思われる。

ハツホサンの行事に直会をされていた矢部公民館を退室して伺っていた祇園祭の燈明灯しを拝見しようと思って神社に向かった。

距離は向かうほどの距離もなく十数メートル。

うっすらと灯りが見えた。

拝殿前に立つ燭台。

何本も灯せるような構造に数本のローソク火があった。

何人かの人が動いた。

時間帯は午後7時15分。

手にはローソクとマッチ箱。

この日から始った祇園祭の燈明灯である。

立ち去られた直後の状況を撮らせていただく。

話しに聞いていた13カ所はどれがどれなのか判らないが、神社左手にある小社は四つ。



それぞれに何本ものローソクに火を灯していた。

右端は「八王神社」。



暗がりで神社名を判別できなかった小社を一つ飛ばして「榎木神社」。

左端に「愛宕神社」とある。

拝殿の右側に建つ石碑的なものがある。

それは金比羅神社。

ここにもローソクを灯していた。

境内というか広場と呼んでいいのか判らないが北地に建つ観音堂にもローソクを灯している。



これで13カ所・・ではなくもっとありそうだ。

後述する迫りくる夕焼けの情景を撮ってから足を伸ばした。

南にある辻に、である。

そこは地蔵尊もあれば5月5日に行われる綱掛け行事に綱を張ったツナカケ場である。

時間帯は午後7時半を過ぎていた。真っ暗な状況であるが、地蔵尊もツナカケ場もローソクを立てた痕跡はなかった。

「ツナカケサン」の場辺りに住んでいるM婦人の話しによれば当番の組よってはする組としない組があるらしい。

Mさんが住む組は目と鼻の処にあるので間違いなくここでも燈明を灯しているという。

先ほどに神社辺りの灯籠とか小社に燈明灯しをしていた婦人たちはここまでやってこなかったようだと話していた。

祇園祭の燈明灯しの在り方を話してくださったM婦人は他にも行事が矢部にあると云う。

一つは矢部といえば決まって返ってくる行事は「ツナカケ」である。

それは取材したこともあるので存じている。

他にはといえばさなぶり行事。

これもまた存じているが・・、といえば3月1日の厄払いである。

その日は搗いたモチを知り合いなどに配るらしい。

男性の厄の年齢は42歳、60歳に88歳の本厄。

88歳の米寿祝いに手形を押す。

シャモジも祝いに配る。

県内事例によく見かける祝いの在り方は矢部にもあったのだ。

2月3日はトシコシ。

いわゆる節分の年越しである。

夕方になればめいめいが煎った大豆を氏神さんなど10カ所に供える。

地蔵尊もツナカケ場もそうである。

大豆を供えると同時にローソクも立てる。

大豆の数量は各家によって異なる。

例えば家族構成が6人であれば豆は6個。

8人家族であれば8個という具合になる。

節分に馴染みのあるヒイラギイワシを挿す家も多いようだ。

10月17日は杵都岐神社のヨミヤ。

村の人たちはハツホサンに拝見した家の提灯をもってきて参拝する。

着物姿で参る人もいるらしい。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

七夕日の夕焼け

2017年01月19日 09時43分02秒 | 田原本町へ
ハツホサンの行事に直会をされていた矢部公民館を退室したときのことである。

ドアを開けて出たらそこは夕陽が迫っていた。

時間帯は午後6時50分だった。

空はまだ青い。

白い雲がこちらに向かって流れてくる。

流れは筋を引いて広がった。

気持ちのいい情景を撮った時間は直会が始まる時間帯。

しばらくの時間は直会の在り方を取材していた。

乾杯を済まされたら女子会。

その場に居座るわけにはいかずに退室したのである。

それが感動の時間になるとは・・・。



想像、予期を越えた真っ赤な夕陽が同じような光景に迫ってくる。

あまりにも突然に焼けたように思えたぐらいの状況であった。

時間帯は午後7時20分。

30分後の出来事に夢中でシャッターをきりまくった。

撮った画像を数か月経ってから再見した。

感動は薄れていた。

あのときの感動はどこから湧き上がるものだったのか、思い出せない。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

矢部・ハツホ講のハツホサン参り

2017年01月18日 09時51分49秒 | 田原本町へ
ハツホ講のハツホサン参りがあると教えてもらったのはカンピョウ干しを拝見した日だった。

干して居られたご主人に教えてもらって訪れた田原本町矢部。

ご主人が住まいする組にハツホ講が祀っているハツホサンの祠がある。

同組には他にも家中で祭っているハツホサンもあるらしいが、8軒からなるハツホ講が祭っているのは集落内にある辻に建っている八王子社である。

同社は東垣内のハツホ講の人たちで、毎年のこの日に行事を行ってきた。

かつては社の前の道にミシロ(筵が訛った)を敷いて寄り合って般若心経を唱えていたという。

八王子社は一般的に読めば「ハチオージ」或は「ハチオウジ」である。

それが訛って「ハツオージ」或は「ハツオウジ」になった。

さらに訛って八王子社を「さん」付けして「ハツオサン」。

さらに訛って「ハツホサン」になったと考えるのが妥当かと思える。

講の名も八王子講から「ハツホ講」に変化したのであろう。

文書若しくは講帳簿があれば確認できるが・・・。

間違ってはならないのが、「初穂」である。

「初穂」はたしかに「ハツホ」と呼ぶが、秋の収穫に先だって神さんに捧げる稲穂のことである。

従ってハツホ講のお供えに「初穂料」は存在しない。

当番の人はカンピョウ干しをされていたN家。



到着した私たちに気を配ってくださり、早めに供えの準備に取り掛かってくれた。

家庭で使っている小型のテーブルが祭壇になる。

社が建つ地は筋道より少し高いところにある。

やむなくテーブルに高さ調整にブロックを置く。

しばらくすれば家から持ち出した提灯をもつご婦人方がやってくる。



提灯は家の提灯。

それぞれ家特有の家紋がある。

この家紋を「ジョウモン」と呼んでいた。

「ジョウモン」を充てる漢字は何であろうか。

「常紋」それとも「定紋」・・・。

調べてみれば家紋に定紋(じょうもん)と替紋(かえもん)の二種類があるそうだ。

定紋は表の紋で替紋は裏紋。

家紋は一種だけでなく何種ももつことができるらしい。

らしいが続くが専門家でもないので、らしい表現にとどめる。

家を代表する公式な紋を家紋と呼び、勲功や婚姻などで新しく加えられた家紋を替紋、或は控え紋と呼ぶようだが、それによる上下の格差はない。

提灯家紋の話題はそれぐらいにするが、秋祭りのヨミヤにも登場するという。

これは例年のことであるが、特別なときにも提灯は登場する。

婦人の話しによれば棟上げなどで大工さんを送るときにも使うそうだ。

棟上げには御幣を持って送ったという。

また、目出度い結納のときにも・・。

家の幕は二色。

下が紺色で上は白色だったという。



神饌はコンブにスルメ。

シイタケ、ナスビ、トマトにこの日は特別にN家が栽培した黒スイカまである。

お供えも整えたころ、あちらこちらからやってきたご婦人たちはめいめいが提灯をぶら下げる。

いずれも提灯は村では小田原提灯と呼んでいたが、形が違う。

どちらかと云えば丸型・ナツメ型提灯・・・それとも瓜成り提灯。

吊るす道具は竹製。

持ち手付きの提灯(送り提灯)は運ぶのが便利である。

そこから突き出る自在カギ。

それで垂らした紐にさっと引っかけられるから吊りやすい。

ネットで調べてみれば、手持ちする竹製部分の呼び名は「ひばし」。

八女ちょうちんのHPでは「送り提灯」と呼ぶようだ。

8軒並んだ提灯は新しいものもあれば古くから使われてきた風合いをもつものもある。

やや小さ目のローソクを挿して火を点ける。



サカキを飾った社にも火を灯す。

一同が揃ったところで導師が一歩前にでる。

これより始めるのが般若心経。



一巻唱えて「やーて やーて」で終えた。

かつてのお供えに「あもう炊いた(甘くなった表現)ソラマメ」を供えていた。

直会の場は社前に敷いたゴザ。

村の人らは筵が訛った「ミシロ」を敷いて寄り合っていたそうだ。

座布団はそれぞれが持ち込み。

夏は暑いから扇風機の風もいったと話す。

夜10時ぐらいまではこの場で過ごしていたという。

同じ日には別の講があって、その講中が祭っているハツホサンをしているらしい。

講中は4軒。

参拝した4軒はザルカゴに入れたソラマメを分けてくれたそうだ。

東垣内の7組は8軒のハツホ講であるが、7組には1軒で営む講もあるという。

他の組になるが、そこにも1軒で営む講もあるらしい。

それはともかく、かつての在り方にお供えは炊いたソラマメの他、くず餅にお寿司などいろいろあった。。

御供のお下がりに子供たちが狙っていたのはお菓子にソラマメだったそうだが、今は見ることのない少子化。

集落内に入り込む車の往来に場を動かねばならない状態になる。

「ハッタサンはよう雨が降る。参拝するときは雨も上がっているが・・」と回顧される婦人もいる。

ソラマメはオタフクマメだったようだ。

前年に収穫したマメは干す。

冷やして保存する。

ハツホサンが近づけば水に入れて戻す。

砂糖を入れて崩れないように炊く。

これが難しいという調理法。

塩で味付けして食べられる状態に調理する。

大皿に盛ったソラマメを供える。

御供は下げてみなで分け合って食べた。

調理が難しく、若いもんは、ようせんから、と云って、数年前にしなくなったそうだ。



般若心経を唱えた一行は提灯、御供下げなどを手分けして運ぶ。

神酒口そのままのお神酒も運ぶ。

向かう先は村の会所である矢部公民館。

冷暖房が利いているし、車の心配も要らない。

安心して婦人会ならぬ女子会ができるという。

運んできた提灯はどこに引っかけるか。



面白いことに白板の棚である。

灯りを消してローソクを灯すわけにはいかないが、珍しい光景を見た。

神饌御供のコンブやスルメは鋏切り。

手分けして配膳する席にはお寿司盛り合わせパックもある。

お酒ではなくお茶で乾杯するのも女子会。

一時的とはいえ、家の用事から解放された婦人たちのにこやかな顔にお礼を伝えて退室した。

(H28. 6.26 EOS40D撮影)
(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

土用干し迎えの真夏日

2017年01月17日 09時53分25秒 | 田原本町へ
矢部のさぶらき行事は前月の6月19日に行われた。

村全戸の田植えが終わって行われる村行事である。

その日から一週間後の26日に訪れたときに拝見した塀中のカンピョウ干しにはとても感動した。

さぶらき行事は来年に持ち越しとなったが、カンピョウ干しは成りものもあるが天候次第で何度かのチャンスがある。

しかし、だ。

チャンスはあってもいつの日に干すのかは、お天道さん次第。

もしかとすれば、と思っていたが、白い垂れ紐はなかった。

この日は連日の真夏日。

立っているだけで汗が流れていく。

田植えが終わって3週間ほど。

植えた苗はすくすくと育っていた。

青葉が天に向かって伸びていく。

土用干しまでまだ日にちがいる。

今年の土用の入りは7月19日。

2週間ほど待たなければならない。

それまでは田んぼの水をたっぷり吸い込んで成長する。

育ってきた稲の分けつが盛んになるころが土用入り。

根も張り出した稲は水田に広がった。



青空に白い雲も広がった真夏日。

気温は7月に入ってから32度。

この日は34度に汗だくであるが、爽やかな色に染まった青空で気分も晴れる。

タコの足が広がる土用干しはまだまだ、だ。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

太田棚機神社のタナバタサン

2017年01月16日 09時31分02秒 | 葛城市へ
平成19年の7月7日に訪れたことがある葛城市太田。

当時はあまり知られていなくて参拝者は少なかった。

神事もなくタナバタさんに立てた笹飾りだけがあった。

そこに登場したのは地元で生まれ育った若者たちだった。

地元であげられる花火大会には眼中にもなく、七夕に捧げる短冊に願いを込めて書いていた。

その姿が美しくて思わずシャッターを押して撮らせてもらった写真は平成22年の7月7日に発行された産経新聞でシリーズ連載していた「やまと彩祭」で紹介した。

その後の平成23年も訪れた太田のタナバタサンは打って変わって賑やかになっていた。

葛城市のカワイ子ちゃんであるマスコットキャラクターの蓮花ちゃんに子供たちも大喜びしていた光景が、今後の展開になるであろう、と思っていた。

それから5年後のこの年。

平成28年も再訪したが、久しぶりの棚機神社鎮座地へ向かう進入路を見誤って南阪奈道路を走っていた。

トンネルを越えたら、そこは大阪の太子町。

時間は十分に間に合う。

Uターンはせずに大阪と香芝市を跨る「どんずるぼう(屯鶴峯)」の峠道を迂回して戻ってきた。

鎮座地下の畑は綺麗に整備されていた。



そこへ到着する軽トラ。

荷台に載せていたのは保育園児や幼稚園児に小学生の子供たちが短冊に願いを込めた七夕の飾り。

在所太田にある関係機関にお願いして子供たちが飾った七夕飾りのお下がりを頂戴してきた。



荷台から一人ずつ境内に運んでいく人たちは葛城市の職員。

境内には地域活性化の願いを込めて、村の有志が平成4年に立ち上げた棚機神社保存会の人たちが待っていた。

もちろんその保存会の人たちも運んでいく。

七夕飾りを立てる場所は予め決まっている。

細いパイプを埋め込んだ処に立てて向きを調製する。

そのころには参拝者が続々と登ってきた。

この日は平日の木曜日。

授業を終えた子どもたちを迎えてくれたのはマーライオンではなく、獅子頭である。

とは云ってもミニチュア版の獅子頭。

お賽銭を投入してくれたら頭だけであるが、獅子神楽を舞ってくれる。

棚機神社は境内奥にある本殿。



小さな石造りの祠にお供えやローソクも置いていた。

その前に立つ大木は大杉。

そこには保存会の人たちが飾った短冊がある。



「國常立神霊代 豊雲錦神霊代 足玉」とか「神産巣曰神霊代 八握劍」、「大□遅神霊代 六戸辡神霊代 蜂比禮」などに混じって「子供たちに良き母たち 嘆きつつ願いし 我が心なり」を詠んだ句文もある。

何人かの保存会の人たちのお顔を見渡したが、私が新聞記事を書いたときにお世話になった会長はおられない。

話しを聞くことはなかったが、高齢ゆえ引退されたと思うのである。

キョロキョロしていたとき、逆に私の名前を呼ぶ男性がおられた。

端正な顔立ちの男性はK区長だった。

区長とお会いしたのは平成26年10月7日

通りがかった山麓線。

稲刈りをしていた処にハザカケの竿があった。

刈っているのであれば竿に架けると思って停車した。

かくかくしかじか・・ということでハザカケ作業を撮らせてもらった区長であるが、あれから2年もお会いしていないのに私のことを覚えておられたのが嬉しい。

保存会が立ち上がるまでの神社は雑草に覆われた荒地のようだったらしい。

平成4年から始められた棚機神社のタナバタサン。

当初の2、3年は長尾神社の宮司を迎えて神事を行っていたと吉川雅章宮司がいう。

その後は関係者を中心とする村行事。

七夕飾りを立てていた。

平成13年になって村起こしを願ったイベント開催。

そのときはたいそうにぎわって新聞にも取り上げられた。

平成19年に訪れたときは神事もなく七夕飾りだけが立っていた。

それから4年後の平成23年に訪れたときは蓮花ちゃんもやってくる状況になっていた。

一旦は寂れかけていた太田のタナバタサンは市のバックアップもあって盛り上がりをみせるようになった。

翌年の平成24年には「棚機物語」と題して由来を書いた板書を掲げた。

それから2年後の平成26年にはやや朽ちかけていた木製の鳥居を新造し建て替えて、扁額の「棚機宮」も新しくなった。

それと同時に神事も復活されて宮司は再び出仕。

翌年の平成27年には氏子が造った獅子頭も登場するようになった。

そこまで盛り上がっていたとは知らずに訪れたタナバタサンに大勢の参拝者がやってくる。

子どもを連れた母親は神さんに向かって手を合わせる。



子どもたちは星が降ってくるかのように・・とでも思ったのか見上げる。

短冊に書いてあった一枚の願い事に「太田の子供が増えますように」があった。

たぶんに間違いなく太田は子だくさんになっていくことだろう。

神事に並ぶ保存会の人たち。



宮司拝礼、祝詞奏上、参拝者の祓、玉串奉奠など粛々と祭典される。

玉串奉奠には2年ぶりにお会いした区長やふんどし姿になった葛城市相撲館の「けはや座」館長のお相撲さんに地元でイベントを盛り上げるプロレス人も・・。

神事を終えたらタナバタサンの奉納芸能。

目玉は昨年に続いて2度目の登場になる獅子舞の奉納である。

獅子頭や着衣などは手造り。



所作、演技も独自に学んだ奉納獅子神楽は、玄人はだしの演技に益々目が離せなくなった。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

倉立の虫祈祷札

2017年01月15日 07時10分32秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
上深川のゲー行事を取材して帰路につく。

名阪国道に入ろうとした辻に石碑がある。

小倉倉立である。

そこに立てていた竹にお札を挟んでいた。

この光景はたびたび目撃するが虫送りに立てた祈祷札に違いないと思っている。

風雨に見舞われた祈祷札は無残にも落下していた。

大半は破損していたが若干残っていた文字でどこのお札か判る。

お札は版のような印刷物。

文字は「密林山 文年三□□ 天照皇大神 保食大神 害虫祈祷・・」。

害虫祈祷の文字から判定できる虫送りの祈祷札である。

「密林山」は旧都祁村小倉に建つ真言宗豊山派の密林山西道院観音寺である。

虫送りの際には僧侶が来られて虫祈祷の法要をされる。

そのお札はここまでやってきて立てた。

やってきたのは松明送りの団体ではなく役員さんである。

小倉の虫送りにお札を立てる処は村境の4カ所。

2カ所は松明で虫を送るが残りの2カ所はここと同じように役員さんが立てる。

(H28. 7. 3 EOS40D撮影)