荻野洋一 映画等覚書ブログ

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中野成樹+フランケンズ『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』

2014-07-12 06:19:02 | 演劇
 中野成樹+フランケンズ(以下、ナカフラ)の別役実戯曲2作同時上演『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』を、水曜金曜と1日おきに見に行く。
 ナカフラといえば本来チェーホフほか海外戯曲の〈誤意訳〉による上演を得意とするグループで、前回の評では大谷能生と組んだチェーホフ『長単調(または眺め身近め』(あうるすぽっと)をとりあげた。今回は国内作家、それも別役実の不条理演劇である。誤訳、意訳が得意とはなんとも人聞きが悪いが、ナカフラの場合、その人聞きの悪さそのものが主題となっていると言って過言ではない。
 今回の2作上演を、大いなる笑いにつつまれて見終えた。〈間〉のズレの面白さは絶妙で、楽しい気分で劇場を後にした。しかし、不条理であることを笑う、〈間〉のズレを笑う、それでいいのだろうかという疑問を抱いた。深夜テレビなどで演じられる少しシュールな漫才と同じ感覚でこの体験を消費してもいいのだろうか。いや、私は演劇というものに、それ以上のものを要求する。それ以上とは何か。それは、演劇がすでに終焉したジャンルであるという諦念のあとにそれでも醸し出される油脂のことである。今回の2作上演にこの油脂が欠けていたとは断言しない。しかし、上演者側および観客である私たち双方にその油脂が完徹されていたかどうか。
 では、近年の別役戯曲の上演とくらべるとどうか。たとえば大滝秀治率いる劇団民藝が、伝統のメソッド演技を捨てて別役実を理解しようとして滑稽なほど悪戦苦闘する『らくだ』(2009 紀伊國屋サザンシアター)はどうだろう。NHKで『らくだ』上演までの故・大滝秀治の格闘に密着したドキュメンタリー番組が放送されていたのを見たことがあるが、高齢の大滝が別役戯曲への違和を克服しようともがく姿は、まさに「演劇」そのものであった(大滝秀治追悼記事)。そして昨夏に深津篤史演出で上演された『象』(2013 新国立劇場)。放射能によるケロイドのもてあそび(「オリーブオイルを塗ると塗らないとでは、ケロイドのツヤが違う」といったセリフの醸す笑いの黒々しさ)ほか、登場人物の一挙手一投足に息を飲んだ。大量の悲しみが溢れるのを受け止めきれぬほどだった。
 民藝や深津篤史にくらべると、緊張感のレベルが少し違うのではないか。選んだテクストが、よりライトな感覚のものだったに過ぎないのか。突然アニメソングを唄い出したりするパロディの援用におもねった世の小劇場演劇、あれらに時間を使う余裕は、私たちにはない。ナカフラはそういうレベルのものではないというのは今回も感じられたが、よりいっそう研ぎ澄ませてほしい。

P.S.
 見終えて、下北沢のバーで飲む。初めて入った上演会場のシアター711は、たしかシネマ下北沢(のちのシネマアートン下北沢)の跡地であるはずである。バーテンダー氏に確認したところ、やはりそうだと言う。711というのは劇場オーナーの誕生日なのだそう。とすると、きょうは誕生日だったということか。無料サービスとかそういうのはないのだね。シネマ下北沢は以前、あがた森魚の監修のもとで拙作短編も上映してくれた劇場である。入口階段から廊下、ホール内、併設のカフェまでふくめ、凝りに凝った愛に溢れるレトロモダンなセットデザインだったように記憶している。今回伺ったシアター711にその面影は、トイレのシンクに張られたタイル以外はほぼゼロ。スズナリ風の謹厳実直な普通のアングラ劇場となっていて、時計が逆に遡った感覚を覚えた。


中野成樹+フランスケンズ〈誤意訳から別役へ〉2作上演は、下北沢シアター711(東京・世田谷)で7/15(火)まで
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