荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『Dressing UP』 安川有果

2014-07-25 21:39:06 | 映画
 抑えきれない暴力衝動をかかえた主人公の少女(祷キララ)は、自分がまだ2歳の時に死んだ母親の秘密を調べはじめる。母はどうして死んだのか。発見した母の日記には狂気と破壊衝動がつぶやかれている。徐々に母親の狂気が少女の体内にも入りこみ、少女は狂いはじめる。父親(鈴木卓爾)にはもう娘を腫れ物扱いすることしかできず、学校では魔女のように畏怖の対象となる。12歳の子役を使って、なんとも奇怪な映画が作られたものだ。
 狂気を宿した少女の孤独な彷徨、苦悩、悪夢。少女役の祷キララの素晴らしい非演技(超演技)は、ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』を思い出させる。けれども本作はブレッソンの写実に留まろうとしない。思いきった特殊メイクの導入でブレッソンとクローネンバーグを合体させようとしている。時として少女の顔は醜く爛れ、めくり上がり、グロテスクなケロイドが肥大する。フランシス・ベーコンの描く人物画のように、生の悲しみ、怒り、苦痛が表面に露出してしまうのだ。亡き母親の怪物性と一体化する少女。
 しかし、醜い怪物と化し、狂気に苛まれるのは少女(=母親)だけではないはずである。事なかれ主義で事態をやり過ごしてきた父親の内面だってボロボロなのだろうし、少女の同級生たちの屈託のない中学生活も、一寸先は闇、全員の顔面も一皮むけば、つまりフランシス・ベーコン的視点から見れば、醜く崩れているのではないか。だから本作は怪奇幻想譚とも言える一方で、少女がベーコン主義者のビジョンを獲得していく物語とも言えるのだ。
 観客である私たち自身の肉体にしたところで彼女やベーコンから見れば、ボロボロに引き裂かれ、滑稽にぶら下がり、醜く矮小化しているにちがいない。私たちの内面は日々の生の中で間断なく大ケガさせられている。私たちは、主人公の少女が体得するビジョンをみずから放棄し、忘却したことによって、おたがいの顔の醜悪さに気づかずになんとか正視できるのであり、みずからの肉体の滑稽さにかろうじて耐えられるのであろう。
 上映時間わずか68分の低予算作品だが、深い絶望から目をそらさずに作られており、気品さえ漂っている。


田辺・弁慶映画祭セレクション2014(テアトル新宿)で上映
http://www.ttcg.jp/topics/2014/tbff-collection2014.pdf
nobodyサイトにおける松井宏のレビューも請参照。
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2014/0128_1427.php