荻野洋一 映画等覚書ブログ

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倪瓚(げい・さん) 頌(台北 國立故宮博物院 神品至宝 @東博)

2014-09-14 09:26:46 | アート
 きのう更新させていただいた台北故宮博物院の記事が、おかげさまをもちましてすばらしい数のページビューを出しまして、びっくりしております。ありがとうございました。
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 ただし、前置きが長くなってしまった感は否めない。故宮について語ると、私はついつい話が長くなってしまう。今回初めて出会った一幅の掛け軸に、私はある感動と、そしていささかの悲しみの念を抱いた。倪瓚(げい・さん 1301-1374)の『紫芝山房図軸』である。倪瓚といえば元末四大家のひとりとして数えられる才人だが、私はこれまでそういう知識の中でのみ、この文人をとらえていたに過ぎない。そして今回、その認識がいかに芸術をないがしろにするものであるかを、こてんぱんに思い知らされたのである。
 今展の図録には、倪瓚についてこう記されている。曰く「画面を限定されたモチーフから構成し、鋭い鋭角的な渇筆を重ねて、粛々とした枯淡な画趣を描き出す」と。「渇筆」とは東洋の筆法のひとつで、墨汁を少なめにつけた筆で書く(描く)うちに徐々に墨汁が足りなくなって字がかすれてくるが、それを意に介さずに、かさかさに渇いた書風をむしろ楽しみながら書き続け、最終的には厚めに墨を使っていくという筆法である。
 ただ、私はこの『紫芝山房図軸』という一幅の掛け軸が〈空舞台〉(からぶたい)であることを重要視する。中国山水画にかぎらず世の風景画が無人の絵であることはごく普通のことだろう。しかし、『紫芝山房図軸』には鬼畜の風貌が映り込んでいる。
 倪瓚は江南地方の裕福かつ風流な家庭に育った。しかし、元末明初の騒がしい世の中にあって、居住する無錫という都市が戦火に見舞われそうになった際、彼は妻子を捨てて放浪の旅へと逃げてしまう。倪瓚の家も妻の実家も裕福だから、妻子が困窮したわけではないだろうが、だからといって倪瓚の鬼畜ぶり軽減されるわけではない。
 しかし、芸術とは怖ろしく冷厳なものでも時にありうる。江戸末期、安政の大獄など強権政治をもって知られる大老・井伊直弼は、自分のおかげで流された血の量に応じて、わが茶の湯の道も研ぎ澄まされた、と述べているとか。ふざけるなという声もあろうかとも思うが、ではサド公爵はどうか、ジャン・ジュネはどうかと問い返さざるを得ない。このあたりは一概に考えるべき事柄ではないだろうが、『紫芝山房図軸』について言えば、その絵のど真ん中に描かれた巨石、その脇にたたずむ掘っ立て小屋(さっき書いたように、誰もいない)、奥手の水面、さらに奥に見える山の図──その無人ぶり、空舞台が、あたかも小津安二郎の映画の終盤を見ているかのごとき、すさまじい厭世的にしてエピキュリアン的境地なのである。
 人道的にはクズとも言えるかもしれない。誰かを不幸にした人物が、それでも人格者になりえるのか、立派な芸術的達成をなしえるのか? ──あくまで個人的な意見ではあるが、鬼による芸術というものも存在すると、私は考えている。


特別展《台北 國立故宮博物院 神品至宝》は東博(東京・上野公園)で9/15(月・祝)まで 九博(福岡・太宰府市)で10/7より11/30まで開催
http://taipei2014.jp