荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『身をかわして』 アブデラティフ・ケシシュ

2014-09-17 00:31:35 | 映画
 9月4日と5日の両日に初めて開催された〈新文芸坐シネマテーク〉にて、アブデラティフ・ケシシュ監督の第2作『身をかわして』(2003)を見ることができた。初見である。いわゆるバンリューもの(パリ郊外もの)のひとつで、このジャンルの多くは低所得者層の子弟たちを主人公としていて、生活水準、教育的・環境的な水準は決して高くなく、たいがいは若年犯罪や薬物使用が描かれる。パリ北東部セーヌ=サン=ドゥニの公団住宅をロケ地とする本作にも、旧植民地移民の子弟ばかり登場する。
 しかし、バンリューものの典型といわれるマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』などと異なるのは、会話劇としての古典的なまでの追究ぶりだろう。18世紀の戯曲『愛と偶然の戯れ』(マリヴォー作)の稽古によって、会話劇が二重化・重層化され、執拗に反復される。ヌーヴェルヴァーグ以来の伝統ともいえるフィジカルなリアリズムを軸としつつ、ここぞという時にはクロースアップで言葉の応酬を、論争を、激しいののしりあいをいつまでも持続させる。ケシシュは新作『アデル、ブルーは熱い色』で昨年のカンヌ・パルムドールを獲得したが、これに先立つ10年前に、長編第2作『身をかわして』においてすでに自分の作風を完璧に作りあげていたことが分かる。
 上映後の大寺眞輔によるトークでも述べられていたように、本作ではありとあらゆる2つのものが並列、対立、相対化される。旧植民地の移民にとって、フランス文明は憎悪の対象であると同時に依存の対象でもある。マリヴォーの戯曲といういわば最もフランス的なテキストと対峙することによって、バンリューの少年少女たちは、対立する二項に対する身の処し方を──本作に倣って言えば、身のかわし方を──体得していくのである。