荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』 フレデリック・ワイズマン

2015-02-01 11:40:19 | 映画
 フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーは、ある期間ひとつの場所に留まるということの記録である。教育機関、警察署、高校、修道院、動物園、州議会などさまざまな場所に留まってきた。前2作『パリ・オペラ座のすべて』(2009)『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』(2011)ではパリに留まり、しかも共に劇場であるため、演者たちのパフォーマンスが被写体の中心となり、そこではおのずと、労せずしてスペクタクルが生起していた。
 最新作『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』では、ロンドンのナショナル・ギャラリー(国立美術館)にカメラが留まるのだが、主眼となるのは、ここに収められた名画群と鑑賞者の視線のカットバックである。このカットバックが本物なのか、それともいわゆる「盗み」なのかは証明できない。ある日は絵画のブツ撮りに集中し、また別の日は望遠レンズを装着して人々の顔を拾うのに集中する(望遠レンズで遠巻きにねらうことによって、人々の “撮られている” という意識を軽減することができる)──そんな素材の集め方も可能だからである。そしてそのカットバックの怪しさのなかにこそ、ワイズマン・ドキュメンタリーの真の意図が込められているように思えてならない。
 視線のカットバックのほかに、本作のもうひとつの主眼はパロール(発話行為)である。美術館という空間が視線の場所であると同時に、パロール空間でもあることをワイズマンは再発見する。予算編成の会議、他団体とのタイアップの是非をめぐるディスカッション、修復の作業法にむけた打合せといったスタッフ間のパロールがあり、さらには、旅行会社のツアコンまたは美術館付きの学芸員による鑑賞者へのギャラリートークがある。
 殊にギャラリートークは昨今、日本をふくめ世界的にさかんになっている。泉屋博古館(京都・鹿ヶ谷)では、入口で待ち構えたボランティア・スタッフたちが入場する私たちに「解説しますよ」と「客引き」にいそしんでいるほどである。また、東京国立博物館(いわゆる東博 東京・上野公園)のギャラリートークの質はすばらしく、『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』のギャラリートークがティツィアーノ、ホルバイン、ターナーといった自慢の有名絵画にどうしても偏ってしまったのに対して、東博では微に入り細に入りあらゆるフォルムについてのギャラリートークが用意されている。私は東博で「水滴」についてのギャラリートークを聴いたことがある。「水滴(すいてき)」とは、書や水墨画の作者が墨を硯の上で水でと溶くときに使う小型の水差しのことである。「水滴」の形態的な美の有り様をめぐってこれだけの言説が花を咲かせることができるのかと、解説を担当した学芸員にすっかり感心してしまった。また、東京各所からこれだけ多くの人が「水滴」についてのパロールを求めてやって来て、ゾロゾロと館内を移動しながら満喫しているという事態にも感動した。そういう意味で『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』のパロールの多くは、モチーフの解釈学に留まってしまったというきらいがなきにしもあらずである。
 前2作におけるオペラ座やクレイジーホースでは、もっぱらコーチによる演者たちへの指導の声がはげしくこだましたが、視覚的な美に限定されたはずの美術館という施設の、多彩な聴覚的バリエーションに傾注したワイズマンの意識は、じつに的確である。上映時間は3時間と長尺だが、撮影された170時間から選りすぐられた極上の3時間となった。


Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷)ほか全国順次公開
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