荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ジョーカー・ゲーム』 入江悠

2015-02-11 05:58:05 | 映画
 『SR サイタマノラッパー』の入江悠監督の新作『ジョーカー・ゲーム』は「シネマトゥデイ」の取材によれば、この監督の生来のエンタメ志向が発揮されているのだという。「(『サイタマノラッパー』のような)生々しいリアルな青春群像も好きなんですけれど、それだけやっていると妙にかっこつけているというか、子どもの頃の自分にウソをついているような気」がしたため、今回はジャッキー・チェンへのオマージュはじめ「おかげでやりたいことができました」ということなので、その点では喜ばしい。小出恵介、山本浩司、渋川清彦、光石研など、この手のエンタメ大作であまり見ないキャスティングが奏功している。
 しかし大上段に構えるならば、ゴダールの『新ドイツ零年』(1991)がスパイ活劇というジャンルの廃炉を宣言して以後の今日、スパイ活劇が可能なのか?という問題がそもそも残る。もちろん『ワールド・オブ・ライズ』や『ミッション:インポッシブル』シリーズなど、いくらでもスパイ活劇は製作されてはいるし、『007』ですら延命している。東西冷戦が消滅しても、狂信的テロ集団などがスパイ活劇の延命に寄与している。では、それらの合戦に(今のところ)組しない日本でスパイ活劇は可能なのか?
 その解答として『ジョーカー・ゲーム』は、第二次世界大戦前夜のアジアを想定する。昭南(シンガポールの旧和名)とおぼしき無国籍都市でイギリス・アメリカ・ドイツの機関を暗躍させ、中国女に化けた日本の女スパイを配置したことにより、すべてが可能となるのだ。戦前戦中への回帰。この条件下なら増村保造の『陸軍中野学校』(1966)を甦らせることが可能だ。亀梨和也は市川雷蔵、伊勢谷友介は加東大介、深田恭子は小川真由美の生まれ変わりである。雷蔵をジャッキー化し、ルパン化するというのが今回の製作意図であろう。「亀梨和也の細いマユがジャニーズのアイドルにしか見えない」という批判は的外れなものである。本当らしさはここでは問題とならない。
 しかし私たちは大日本帝国の諜報員が、えらそうな米国外交官や手ごわい英国スパイを向こうにまわして、善玉として振る舞う光景を目にすることとなる。大日本帝国がこれほどしっかりと善玉として扱われるのは、いつ以来のことであろうか? もちろん陸軍内の主戦派幕僚の前近代的マッチョ性が諸悪の根源として担保されはするものの、主旋律をなすのは、諜報的インテリジェンスによって日本を逆転勝利に導くという、おそらくなにがしかの理由で達成され得なかった理想の再現なのである。今回「こけ猿の壺」とされたのが新型兵器(原子爆弾)の設計図のマイクロフィルムで、本作は、ドイツ人科学者の発明した設計図を日本が入手に成功するまでの物語である。原子爆弾の設計図を帝国陸軍が手に入れるというハッピーエンドを、全国シネコンの観客がポップコーンを頬ばりながら受け止める。
 エンタメという隠れ蓑によって図らずも立ち上がってしまった「アベノミクス映画」という新ジャンルのことを思う。『永遠の0』(2013)は精巧に計画されたアベノミクスの思想的プロパガンダであったが、『ジョーカー・ゲーム』の場合は、若手インディーズ監督の夢と才能を活用しつつ、企図を消した草の根的なプロパガンダとなっている。『FLOWERS』(2010)が図らずも「女は子どもを産む機械」的反動思想の体現となってしまったのと同根である。私はだからこの日本的スパイ活劇の復活に、哀しみを抱いた。そしてその哀しみの表明は、製作側の不興を買うだろう。彼らはこの作品を作れて幸福だからである。そのこと自体にも私は哀しみを感じる。埼玉のラッパーはもういない。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映中
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