荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『エクソダス: 神と王』 リドリー・スコット

2015-02-15 14:25:59 | 映画
 リドリー・スコットの新作『エクソダス: 神と王』は「出エジプト記」(Exodus)の映画化で、あまりにもアレゴリカルな題材選択に困惑させられる。半年あまりのあいだに『ノア 約束の舟』に続いて、旧約聖書の3Dスペクタクル化を2度も見ることになった。ダーレン・アロノフスキーの場合ユダヤ人だからいいとして、スコット家はたしかイギリスで代々続く由緒ある軍人家庭だったはず。なぜ今さら『十戒』のリメイクを見せられねばならないのか。
 イスラエルの民のエジプト脱出をファラオが許可しなかったことで、エジプトに「十の災い」がもたらされる。最初これらの災いは、イスラエル側による漁村や農村への(いわば今風に言えば)無差別テロという形をとる。しかし「やり方が手ぬるい」と神は指導者のモーゼを叱りつけ、「見ていろ」と告げて、エジプトの都市や農村に神の鉄槌が下される。現在のような難しい中東情勢の真っ只中にあって、これら手加減なしの悲惨な災いを3Dスペクタクルでくわしく見せつける意図がどうも摑みかねる。なにかアレゴリカルな意図が込められているのかと疑わしい考えが浮かんできてしまう。
 モーゼが赤ん坊のときにエジプトの王室に引き取られ、王子の弟として育てられたと描かれるのは示唆的だ。旧約聖書の「創世記」に、カインのアベル殺しがすでに語られていたからである。兄弟の愛憎的確執が『エクソダス: 神と王』のメインモチーフですらある。モーゼは、乳母だと思っていた女が実の姉であることを知らされて、この女から突然、聴きなれぬ「モーシェ」というイスラエル訛り(?)の呼び名で呼ばれ、泡喰った顔となる。と同時にこの呼び名の発動が、兄弟の別離を意味してもいたわけである。
 映画のエンドクレジットで「弟トニーに捧げる」という追悼の辞が黒味に白文字のスーパーで現れる。これには少しばかりほろりとさせられた。兄弟の別離の映画を、リドリー・スコットは自身の亡き弟への献辞で締めた。弟トニー・スコットも高名な映画監督だった。トム・クルーズをスーパースターにした『トップガン』(1986)が代表作だ。
 そもそも映画の歴史は最初に、弟による兄殺しで始まっている。リュミエール社のシネマトグラフが、発明王エジソンの開発した兄貴分のキネトスコープを殺すことによって、映画史が始まったのだ。異なる宗教への不寛容とすさまじい攻撃、そして「兄弟」という問題。これらの二重三重のアレゴリーが、本作をよけいに不透明なものとしている。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国上映中
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