荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

ルドルフ・シュタイナー展〈天使の国〉@ワタリウム美術館

2014-07-17 22:40:47 | アート
 ハプスブルク帝国出身の神秘思想家・教育学者のルドルフ・シュタイナーの絵画、建築、家具デザイン、宝石デザインなど、美術的方面に絞った展示が、ワタリウム(東京・外苑前)で開催されている。ゲーテ、ニーチェ、カンディンスキー、ヨーゼフ・ボイス、ミヒャエル・エンデ、ル・コルビュジェといった固有名詞が脇をすり抜けながら、シュタイナーの活動を彩る。
 入場してしばらく続く〈黒板絵〉が展示の中心をなす。〈黒板絵〉とは、シュタイナーが思想講習会の壇上で板書をすることに対し、熱心な受講者グループが壇上の黒板に黒紙を毎回にわたり貼り付けて、シュタイナーの板書を保存しようと努めたことによって、今に見られるのである。黒地の模造紙に、黄色・赤・白の3色のチョークで厳密に素描されたさまざまな概念図。これにシュタイナーのアフォリズム(箴言)がポップに示され、シュタイナーの表現が内外の両面から理解できるようになっていて、見ていて楽しくなってくる。松岡正剛はシュタイナーの〈黒板絵〉連作を見て、「パウル・クレーに匹敵する」と評したが、じっさい、これらの〈作品〉は思想的裏付けはもちろん前提としてあるものの、単にチョークの走りとして、じつに闊達さが横溢している。


ワタリウム美術館(東京・外苑前)にて8月23日(土)まで会期延長とのこと
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html

『トランセンデンス』そして/あるいは『her 世界でひとつの彼女』

2014-07-15 01:21:38 | 映画
 現在公開中の2本の新作アメリカ映画──それは共通して、人工知能コンピュータが異常な進化をへて人称性を得るにいたり、さらには生身の人間と恋愛する物語をもっている。ひとつは、ウォーリー・フィスターの『トランセンデンス』であり、もうひとつは、スパイク・ジョーンズの『her 世界でひとつの彼女』である。前者では、志半ばにしてテロの犠牲となった科学者ジョニー・デップの脳神経プログラムがコンピュータ内に移植され、死後は人工知能として愛妻のレベッカ・ホールと再会する。後者では、孤独な中年男ホアキン・フェニックスが人工知能をもつOS「サマンサ」をひょんなきっかけでインストールし、そのオーラル機能であるスカーレット・ヨハンソン(の声)と恋に落ちる。
 前者ではやがて全能の野望が底なしとなり、マッド・サイエンティスト的破滅へと収束する。スーパーコンピュータの暴走を映画史上初めて描いた『2001年宇宙の旅』(1968)が下敷きとなっているのは、ジョニー・デップの設計したスパコンのセットデザインが「HAL 9000」そっくりであることからも明らかだ。いっぽう後者でもっぱら姿なきDJとしてのみ登場するスカーレット・ヨハンソンは、ギャランティをどれほど値切られたのだろうかと邪推してしまうのが、われら観客の俗な関心だ。不毛だと了解していてもなお、機械との恋に埋没するホアキン・フェニックスは、『ブレードランナー』(1982)のハリソン・フォードの生まれ変わりだろう。ビル影に大モニターが出没して、ちっぽけな主人公に覆い被さることからもそれは明らかだ。ロケ地としてロサンジェルスと上海の二都市をたくみにミックスし、どちらともつかぬ匿名のコスモポリタン都市として現出させるあたりも、多分に『ブレードランナー』風味である。
 そして『トランセンデンス』がB級SF的不毛を再生産し、『her 世界でひとつの彼女』がもてない男の幻想を肥大化させる。どっちもどっちの両作であるが、あえて個人的趣味から言わせてもらうなら、前者への苛立ちを、後者が癒やしてくれたことを告白せねばならない。まさかスパイク・ジョーンズに慰められるとは、想像だにしなかった。


『トランセンデンス』 丸の内ピカデリーほかで上映
http://transcendence.jp
『her 世界でひとつの彼女』 ヒューマントラストシネマ有楽町ほかで上映
http://her.asmik-ace.co.jp

クロード・レヴィ=ストロース 著『月の裏側』

2014-07-14 01:24:03 | 
 20世紀最大の知性、クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の遺稿のうち、日本に関するものを採録した "L’autre face de la lune: Écrit sur le Japon" が2011年にフランスで刊行され(Editions du Seuil 刊)、大好評を得たそうだが、それから3年をへてようやく『月の裏側──日本文化への視角』(中央公論新社 刊)として邦訳が出たばかりである。
 レヴィ=ストロースが初めて日本の土を踏んだのは70歳近くになってからに過ぎないが、彼と日本の出会いは決して浅くなく、6歳の時にジャポニスムに感化された画家である父から、善行のたびにごほうびでもらった浮世絵のコレクションがその馴れ初めなのである。「悲しき熱帯」ブラジルとの濃密なランデヴーが彼の業績の大部分を占めたため(今夏は別の意味で「悲しき熱帯」になってしまったが)、日本への関心は初恋からうっすらと続く通奏低音に過ぎなかったかもしれない。だが、それがやがて狂おしい老いらくの恋へと発展したことは、本書における率直な日本への愛の表明が証拠立てているだろう。
 本書を、ロラン・バルトによって書かれた、読み手の心を溶かすような日本論『記号の帝国』に次ぐ不朽の名著として、世界史に登録せねばならない。それは単に愛国的身振りであることを超越して、20世紀最大の知の巨人によってその狂おしい記述の対象となった側にとって、この世における最低限の礼儀ではないだろうか。
 巨人の弟子にして、日本における窓口を司った文化人類学者・川田順造による訳注はやや意地悪で、師の日本に対する誤解、思い違い、贔屓の引き倒しを容赦なく指摘して、この本の熱を冷ます。それによって、レヴィ=ストロースの晩年の稚気が強調されている。天才の稚気があぶり出されるのだ。しかし、禅僧画家の仙(1750-1837)について書かれた「世界を甘受する芸術」ほどの美しいテクストを、私たちはいったいこの世のどこで読むことができるというのだろうか?
 クロード同様に日本マニアである彼の次男マテュー・レヴィ=ストロースが父の米寿の祝いに贈った日本製炊飯器を、晩年の巨匠は愛用してやまなかった。曰く、「ご飯に焼き海苔をふたたび味わえるのが、ほんとうに嬉しいのです。ご飯に焼き海苔、それは、この海藻の味わいとともに、プルーストにとってマドレーヌがそうでありえたのと同じくらい、私にとって日本を思い起こす力をもっているのです!」 …炊飯器の手柄が『失われた時を求めて』におけるマドレーヌの味わいに喩えられるとは、近年精彩を欠く日本の工業技術も、いくばくか貴重な歴史的役割を果たし得たと言えるのではないか。
 本書につづいて同じ版元Editions du Seuil社から去年出たばかりの "Nous sommes tous des cannibales"(われわれはみんな人食い人種である)も、早期の邦訳刊行も期待したいところである。

中野成樹+フランケンズ『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』

2014-07-12 06:19:02 | 演劇
 中野成樹+フランケンズ(以下、ナカフラ)の別役実戯曲2作同時上演『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』を、水曜金曜と1日おきに見に行く。
 ナカフラといえば本来チェーホフほか海外戯曲の〈誤意訳〉による上演を得意とするグループで、前回の評では大谷能生と組んだチェーホフ『長単調(または眺め身近め』(あうるすぽっと)をとりあげた。今回は国内作家、それも別役実の不条理演劇である。誤訳、意訳が得意とはなんとも人聞きが悪いが、ナカフラの場合、その人聞きの悪さそのものが主題となっていると言って過言ではない。
 今回の2作上演を、大いなる笑いにつつまれて見終えた。〈間〉のズレの面白さは絶妙で、楽しい気分で劇場を後にした。しかし、不条理であることを笑う、〈間〉のズレを笑う、それでいいのだろうかという疑問を抱いた。深夜テレビなどで演じられる少しシュールな漫才と同じ感覚でこの体験を消費してもいいのだろうか。いや、私は演劇というものに、それ以上のものを要求する。それ以上とは何か。それは、演劇がすでに終焉したジャンルであるという諦念のあとにそれでも醸し出される油脂のことである。今回の2作上演にこの油脂が欠けていたとは断言しない。しかし、上演者側および観客である私たち双方にその油脂が完徹されていたかどうか。
 では、近年の別役戯曲の上演とくらべるとどうか。たとえば大滝秀治率いる劇団民藝が、伝統のメソッド演技を捨てて別役実を理解しようとして滑稽なほど悪戦苦闘する『らくだ』(2009 紀伊國屋サザンシアター)はどうだろう。NHKで『らくだ』上演までの故・大滝秀治の格闘に密着したドキュメンタリー番組が放送されていたのを見たことがあるが、高齢の大滝が別役戯曲への違和を克服しようともがく姿は、まさに「演劇」そのものであった(大滝秀治追悼記事)。そして昨夏に深津篤史演出で上演された『象』(2013 新国立劇場)。放射能によるケロイドのもてあそび(「オリーブオイルを塗ると塗らないとでは、ケロイドのツヤが違う」といったセリフの醸す笑いの黒々しさ)ほか、登場人物の一挙手一投足に息を飲んだ。大量の悲しみが溢れるのを受け止めきれぬほどだった。
 民藝や深津篤史にくらべると、緊張感のレベルが少し違うのではないか。選んだテクストが、よりライトな感覚のものだったに過ぎないのか。突然アニメソングを唄い出したりするパロディの援用におもねった世の小劇場演劇、あれらに時間を使う余裕は、私たちにはない。ナカフラはそういうレベルのものではないというのは今回も感じられたが、よりいっそう研ぎ澄ませてほしい。

P.S.
 見終えて、下北沢のバーで飲む。初めて入った上演会場のシアター711は、たしかシネマ下北沢(のちのシネマアートン下北沢)の跡地であるはずである。バーテンダー氏に確認したところ、やはりそうだと言う。711というのは劇場オーナーの誕生日なのだそう。とすると、きょうは誕生日だったということか。無料サービスとかそういうのはないのだね。シネマ下北沢は以前、あがた森魚の監修のもとで拙作短編も上映してくれた劇場である。入口階段から廊下、ホール内、併設のカフェまでふくめ、凝りに凝った愛に溢れるレトロモダンなセットデザインだったように記憶している。今回伺ったシアター711にその面影は、トイレのシンクに張られたタイル以外はほぼゼロ。スズナリ風の謹厳実直な普通のアングラ劇場となっていて、時計が逆に遡った感覚を覚えた。


中野成樹+フランスケンズ〈誤意訳から別役へ〉2作上演は、下北沢シアター711(東京・世田谷)で7/15(火)まで
http://frankens.net

『郊遊』 蔡明亮

2014-07-10 01:01:45 | 映画
 蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の最新作にして引退作でもある『郊遊〈ピクニック〉』を試写で見た。蔡明亮はまぎれもなく “作家” だ。この人の作風に拒否反応を示す人も少なくないが、1カットを見ただけで蔡明亮の映画だと誰でも言い当てることができる。これは認めるべきだと思う。今回の『郊遊』でも、常連役者の李康生(リー・カンション)が台北の場末を退屈まぎれにそぞろ歩いてみせるだけで、あっという間に蔡明亮の映画になってしまう。
 素朴な疑問として、なぜ蔡明亮は引退してしまうのか? 映画監督が存命中に引退宣言するのは、意外と見られないことだ。たいがいの人は未練たっぷりにフェイドアウトしていき、死ねばそれなりにオマージュを捧げてもらえるといった昨今の世の中だ。1957年生まれというから、やはり引退宣言した宮崎駿はもちろん、いまだ若手の気風を残す黒沢清よりも年下なのに。映画作家は次のように書いている。「私は、いつ死んでもおかしくないというほどに体調が悪くなった」「近頃のいわゆる、エンタテイメント・ヴァリュー、市場のメカニズム、大衆の好みへの絶え間ない迎合、それらが私をうんざりさせた」と。だがこれは、フィルムメイカーにあるまじき甘ったれた思想とも言える。映画が市場のメカニズムから解放されるなんてありえない。しかし、それも選択だ。映画から離れるのも悪くない選択である。皆が皆、すっかりやせ細ったこのジャンルにしがみついている必然性はない。
 試写後、配給スタッフの方が私に、蔡明亮は本国ではファインアート、パフォーマンスアートの分野ですごく高い評価を得ているから、とも注釈を加えてくださった。つまり、商業映画の枠を越えたいということだろう。そう言われてみれば、『郊遊』に写されたあらゆる事象──人間たちの営み/都市の片隅に打ち捨てられた廃墟/川っぺりの水際の泥/大通りに林立する人間立て看板/連日降りつづけるどしゃぶり/廃墟の壁に描かれた石ころだらけの風景画、エトセトラエトセトラ──これらは全部、インスタレーションだと思った。しかも、そんじょそこいらでお目にかかれないほどハイレベルな。誰もが侯孝賢のように、映画そのものであり続けることの栄光と悲惨を体現できるわけではないのだ。だから、蔡明亮の選択は決して甘えなどではなく、才能のある人特有の冷淡さというか、冷厳な選択なのである。
 現実という残酷にして有限の物象を素材とした、蔡明亮の無限なヴィジョンを具現化させた剥製として、この最終作『郊遊』は、青白く冷えきった光を、見る側に鋭利に差し向けている。それにしても、『郊遊』というのは、じつに美しいタイトルである。


8月下旬、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開の予定
http://www.moviola.jp/jiaoyou/