荻野洋一 映画等覚書ブログ

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MARCA紙 発表「格闘技映画トップ20」

2015-02-08 09:29:55 | 映画
 スペインのスポーツ新聞「MARCA」(一般紙も含めて同国最大の発行部数を誇る)が、エンタメコンテンツ企業「IGN」と共同でオールタイムの「格闘技映画トップ20」(TOP 20 MEJORES PELÍCULAS SOBRE DEPORTES DE LUCHA)を発表した。レスリング米国チーム内の殺人事件をあつかった『フォックスキャッチャー』のスペイン公開に際しての景気づけ行事ということらしい。

http://es.ign.com/movie/90809/feature/top-20-mejores-peliculas-sobre-deportes-de-lucha

▼格闘技映画トップ20
1  鉄腕ジム(ラオール・ウォルシュ 1942)
2  罠(ロバート・ワイズ 1949)
3  シンデレラマン(ロン・ハワード 2005)
4  チャンピオン(マーク・ロブソン 1949)
5  ミリオン・ダラー・ベイビー(クリント・イーストウッド 2004)
6  殴られる男(マーク・ロブソン 1956)
7  リング(アルフレッド・ヒッチコック 1927)
8  チャンプ(キング・ヴィダー 1931)
9  タイタンズを忘れない(ボアズ・イェーキン 2000)※アメフト映画
10 ベスト・キッド(ジョン・G・アヴィルドセン 1984)
11   インヴィンシブル 栄光へのタッチダウン(エリクソン・コア 2006)※アメフト映画
12 ゴングなき戦い(ジョン・ヒューストン 1972)
13 傷だらけの栄光(ロバート・ワイズ 1956)
14 インビクタス 負けざる者たち(クリント・イーストウッド 2009)※ラグビー映画
15 ロッキー(ジョン・G・アヴィルドセン 1976)
16 ALI アリ(マイケル・マン 2001)
17 若者のすべて(ルキノ・ヴィスコンティ 1960)
18 レスラー(ダーレン・アロノフスキー 2008)
19 ザ・ファイター(デヴィッド・O・ラッセル 2010)
20 レイジング・ブル(マーティン・スコセッシ 1980)

 ロバート・アルドリッチ『カリフォルニア・ドールズ』を忘れるという最大の過誤をはたいているほか、アナトール・リトヴァク『栄光の都』もロバート・ロッセン『ボディ・アンド・ソウル』も入っていないことに文句をつけたくなるが、その手の文句は野暮だろう。むしろスポーツ新聞の記者たちが選んだわりには、本格的すぎる。おそらく「IGN」側の知識が相当吹き込まれているものと察せられるが、それでも宅配制度のない国で毎日何百万部も売れているメジャー紙で、こういうリストが披露されるインパクトはそれなりに大きいのではないか。個人的にはヒッチコックのサイレント作品『リング』とキング・ヴィダー『チャンプ』(ジョン・ヴォイト主演作はこれのリメイク)は未見だし、ジョン・ヒューストンの『ゴングなき戦い』というのも見ていない。
 9位『タイタンズを忘れない』と11位『インヴィンシブル』はアメフト映画、14位『インビクタス』はラグビー映画である。スペインではアメフトとラグビーは格闘技というジャンル認識なのだろうか。逆にアルモドバル『トーク・トゥ・ハー』など闘牛の映画が入らないのは意外だ。私が選出メンバーなら、闘牛はおろか、闘鶏の映画もベストの上位に入れるだろう(アレです)。
 もし日本で同様の企画を、たとえば「Number」誌あたりがやったとしたら、アメフトとラグビーは含まれないだろう。ローラーゲームも微妙な線だ。代わって、中川信夫『雷電』2部作、周防正行『シコふんじゃった。』などの相撲映画がランクインしてくるかもしれない。『カリフォルニア・ドールズ』がぶっちぎりの1位になってほしいし、『ドラゴン怒りの鉄拳』や『イップ・マン 葉問』など中国拳法ものもランクインしてほしい。
 ところで上記のMARCAトップ20は、じつは順位が振られていない。下から順かもしれないし、上から順かもしれない。かといってアルファベット順でもないから、なにがしかの意図をもって並べた順番であることは間違いない。『鉄腕ジム』が1位、『罠』が2位だったら格好いいという手前勝手な思惑(&願望)が多分に作用して、カウントダウンで順位を振っておいたが、おそらくこれで合っているのではないか。もしあべこべだとすると、『レイジング・ブル』が1位、『ザ・ファイター』が2位となり、それはそれで納得してしまう。『若者のすべて』が4位に躍り出るというのもおもしろい。

『薄氷の殺人』 刁亦男

2015-02-06 22:50:24 | 映画
 刁亦男(ディアオ・イーナン)の新作『薄氷の殺人』は、去年のベルリン映画祭で『グランド・ブダペスト・ホテル』『6才のボクが、大人になるまで。』といった有力な出品作を差しおいて金熊賞(最高賞)を受賞しているが、ヴェネツィアならこうはならなかったのではないか。いかにもベルリンらしいチョイスだと言える。1999年と2004年の2つの迷宮入り殺人事件、ファム・ファタールと元刑事のノワールである。
 すでに多くの人が書いているように、この映画の一番の特長は、あの凍てついた都市の風貌だろう。凍結した路上に怪しく明滅するキャバレー「白日焰火」のネオンサイン、白昼に酔っぱらいが放ちまくる打ち上げ花火。作品を一見するだけではどこでロケされたのかを私の語学力では割り出せなかったが、哈爾浜(ハルビン)が舞台だとのこと。市内の公園がそのままスケートリンクになり、スケート靴のエッジが凶器となる。主人公の廖凡(リャオ・ファン)が途中入った店で食べる羊肉スープが、冷えきった心身を一時的に温める。羊肉というのも華北らしい食材だ。ロウ・イエの新作『二重生活』の舞台となった長江流域の都市・武漢のまとわりつく湿気と比較してみるとおもしろい。
 容疑者の妻を演じる桂綸鎂(グイ・ルンメイ)の儚げな美しさが光る。彼女は典型的な台湾女優であって、南国の街頭が似合う。こういう大陸本国の、しかも東北地方の風土にはとうてい合わないと本作を見る前は思ったが、これが意外とマッチする。彼女は2010年代に入って活躍に拍車をかけている。胡金銓(キン・フー)の傑作のひとつ『残酷ドラゴン 血斗!竜門の宿』(1967)を徐克(ツイ・ハーク)がリメイクした『ドラゴンゲート 空飛ぶ剣と幻の秘宝』(2011)、あるいは台湾の民主化運動に参加する大学生男女の三角関係を未練たっぷりに描く『GF*BF』(2012)、これは両方ともすばらしかった。松雪泰子、市川実日子、そして韓国のキム・ミンジュ(イ・スンミンに改名)を足して3で割ったような、年増の艶めかしさが桂綸鎂には出ている。


ヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほかで上映中
http://www.thin-ice-murder.com

『ストックホルムでワルツを』 ペア・フリー

2015-02-04 22:50:38 | 映画
 1960~80年代に活躍したスウェーデンの女性ジャズ・ヴォーカリスト、モニカ・ゼタールンドの伝記映画である本作は、北欧各国で記録的な観客動員を記録したとのことだ。スウェーデンの田舎町に住むシングルマザーがニューヨークで陽の目を見るまでの苦労話である。
 これは、ある雛型を再現していると思う。つまり、「本場」文化に対するローカライズという現象のバリエーションである。北欧の田舎娘は、ジャズの「本場」ニューヨークで一旗揚げることを夢見る。ジャズ、ブルース、ハリウッド映画、ブロードウェイ・ミュージカル、野球etc.と、アメリカは20世紀以降、「本場」的文化の担い手だったことは言うまでもない。そしてそれは、アメリカの他国文化に対する無関心によって余計に助長されていた。
 彼女は最初の渡米時、バーで隣り合ったエマ・フィッツジェラルドの前で歌ってみせるが、フィッツジェラルドはしらけるばかりである。「あなたのような欧州人が、南部の黒人について歌っても滑稽なだけだ」。彼女が再浮上の契機をつかむのは、ジャズにスウェーデン語の歌詞をつけて、スウェーデン女の孤独をアンニュイに、時に滑稽に歌ってみせた時だ。ローカライズの成功例である。ニューヨーカーは方言がお好きなのである。
 同時期に日本で公開された『バンクーバーの朝日』なども同じ物語構造である。差別に苦しむ日系移民の野球チームが、腕力でまさる白人チームを例の日本的犠打野球で次々に打ち破る物語だが、この作品の場合、大リーグ相手などではなく、所詮はカナダの地方アマチュア球界でしかないという点はよかった。大リーグということなら、ニグロリーグの選手だったジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャースのスターになる『42』(2013)が記憶に新しい。
 シャンソン歌手の石井好子のエッセイを読んでいると気持ちよくなれるのは、このローカライズと「本場」の折り合いが、ある極点を突き破っているからだろう。『ストックホルムでワルツを』のヒロインもその極点に到達しようともがく。そのもがきが全北欧的な共感を呼ぶ。日本産のスコッチウイスキーが「本場」スコットランド産を尻目に世界一に認定されたり、室町時代の水墨画家・雪舟が「本場」明の画壇で首座の地位を与えられたり、青森から来た少女が京都で舞妓になる『舞妓はレディ』にしても、訛っている海女が東京でアイドルになる『あまちゃん』にしても、同根の構造を有しているのである。
 この手の中で最もおもしろいタレントが、アメリカ人のチェンバロ奏者・指揮者ウィリアム・クリスティだと思う。クリスティはフランスに渡って器楽アンサンブル、レ・ザール・フロリサンを起ち上げて、上演機会のまったくなかったフランスのバロックオペラに陽の目を浴びさせ、多くの復刻公演でフランス・クラシック界の巨匠となった。現在公開中のフレデリック・ワイズマン『ナショナル・ギャラリー』でも時代楽器研究の重鎮としてその名が現れていたが、そもそもワイズマンその人が「映画界のウィリアム・クリスティ」をめざしているように察せられる。
 方言化の逆流よって「本場」の鼻を明かすという物語構造の甘い蜜の味を、人類が手放すことは永遠にあるまい。つまりこれは貴種流離譚の逆流現象であり、観客に与える感銘はむしろ貴種流離譚と同種のものである。溝口健二の傑作『残菊物語』(1939)の花柳章太郎が、ドサ回りの旅芸人として雌伏の数年間を耐えていたことを、『ストックホルムでワルツを』を見ながら改めて思い出さずにはいられなかった。


ヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか都内では終了、全国で順次公開
http://stockholm-waltz.com

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』 フレデリック・ワイズマン

2015-02-01 11:40:19 | 映画
 フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーは、ある期間ひとつの場所に留まるということの記録である。教育機関、警察署、高校、修道院、動物園、州議会などさまざまな場所に留まってきた。前2作『パリ・オペラ座のすべて』(2009)『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』(2011)ではパリに留まり、しかも共に劇場であるため、演者たちのパフォーマンスが被写体の中心となり、そこではおのずと、労せずしてスペクタクルが生起していた。
 最新作『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』では、ロンドンのナショナル・ギャラリー(国立美術館)にカメラが留まるのだが、主眼となるのは、ここに収められた名画群と鑑賞者の視線のカットバックである。このカットバックが本物なのか、それともいわゆる「盗み」なのかは証明できない。ある日は絵画のブツ撮りに集中し、また別の日は望遠レンズを装着して人々の顔を拾うのに集中する(望遠レンズで遠巻きにねらうことによって、人々の “撮られている” という意識を軽減することができる)──そんな素材の集め方も可能だからである。そしてそのカットバックの怪しさのなかにこそ、ワイズマン・ドキュメンタリーの真の意図が込められているように思えてならない。
 視線のカットバックのほかに、本作のもうひとつの主眼はパロール(発話行為)である。美術館という空間が視線の場所であると同時に、パロール空間でもあることをワイズマンは再発見する。予算編成の会議、他団体とのタイアップの是非をめぐるディスカッション、修復の作業法にむけた打合せといったスタッフ間のパロールがあり、さらには、旅行会社のツアコンまたは美術館付きの学芸員による鑑賞者へのギャラリートークがある。
 殊にギャラリートークは昨今、日本をふくめ世界的にさかんになっている。泉屋博古館(京都・鹿ヶ谷)では、入口で待ち構えたボランティア・スタッフたちが入場する私たちに「解説しますよ」と「客引き」にいそしんでいるほどである。また、東京国立博物館(いわゆる東博 東京・上野公園)のギャラリートークの質はすばらしく、『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』のギャラリートークがティツィアーノ、ホルバイン、ターナーといった自慢の有名絵画にどうしても偏ってしまったのに対して、東博では微に入り細に入りあらゆるフォルムについてのギャラリートークが用意されている。私は東博で「水滴」についてのギャラリートークを聴いたことがある。「水滴(すいてき)」とは、書や水墨画の作者が墨を硯の上で水でと溶くときに使う小型の水差しのことである。「水滴」の形態的な美の有り様をめぐってこれだけの言説が花を咲かせることができるのかと、解説を担当した学芸員にすっかり感心してしまった。また、東京各所からこれだけ多くの人が「水滴」についてのパロールを求めてやって来て、ゾロゾロと館内を移動しながら満喫しているという事態にも感動した。そういう意味で『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』のパロールの多くは、モチーフの解釈学に留まってしまったというきらいがなきにしもあらずである。
 前2作におけるオペラ座やクレイジーホースでは、もっぱらコーチによる演者たちへの指導の声がはげしくこだましたが、視覚的な美に限定されたはずの美術館という施設の、多彩な聴覚的バリエーションに傾注したワイズマンの意識は、じつに的確である。上映時間は3時間と長尺だが、撮影された170時間から選りすぐられた極上の3時間となった。


Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷)ほか全国順次公開
http://www.cetera.co.jp/treasure/