オークランド通信

のんびりしたお国柄が気に入りニュージーランド在住27年。仕事、子育て、生活全版にわたって語ります。

その30 池坊専永展 12-12-06

2007-08-15 10:25:23 | 第21-30回
その30 池坊専永展


最近、いけばなづいてます。
私自身、4月と11月にフラワーデザインといけばなのデモをやりました。
7月には、初めてのいけばな展参加、11月19日の地元日本人のお祭りジャパンデイ
のいけばな展にも2点出展しました。
30年フラワーアレンジやっていて、今更いけばなはないだろうと言われそうですが、
今年はいけばなにのめってます。

そのハイライトとも言うべき事がありました。
日本のいけばな、池坊流家元池坊専永さんが11月23日から26日までオークランド
を訪問され、2回のデモ、展覧会を行われました。
池坊流家元池坊専永さんは、かなり昔のテレビのコマーシャル、ネスカフェ、
「違いのわかる男のゴールドブレンド」にでていた方といえば、覚えている方もいるか
もしれません。

最近、私のクラスのレッスンやいけばなのお稽古場でも、ちょっとした専永ブームです。
専永さんはこう言ったとか、これは池坊立花風と言って真似してみたり。


池坊専永さんは、池坊流45代家元で、日本でいけばなをやっている先生でもちょっと
お目にかかることはない方なのです。池坊のお弟子さんからみれば、神様のような方で
す。
ところが、いけばな人口の少ないオークランドでは専永whoって感じです。
友達や、生徒さんたち宣伝していたのですが、反応はいまひとつでした。
若いころ京都で池坊をかじった私としましては、これを見なかったから一生の悔いと
思い、忙しい最中でかけました。


11月23日、オークランド市内のLangham Hotelのいけばな展に行きました。
フラワーデザインのレッスンの後、うちの生徒さんたちと見に行きました。
正直言って、がっかり。
展示室が薄暗くて、その上バックが濃い模様入りの壁紙で花は映えないのです。
生花(しょうか)はいいとして、立花はもっと豪華なものを期待していたので、作品の
小さいのにがっかりです。
枯れた葉を使ったりの侘寂は、パシフィックの鮮やかな花の慣れ親しんでいる私達
には物足りなく感じたのです。


11月24日、オークランド総領事官邸の池坊専永さんのデモとディナーにお招きを
頂きました。私は、地元いけばなインターナショナルの役員としていきました。
50人の小さな催しでした。

専永さんのデモは、池坊国際部のアメリカ人通訳入りで行われました。
彼自身、20年間京都に住み、専永さんの片腕としてやってきただけあり、単に通訳
というよりもいけばなの対する深い理解に基づいて説明していました。
専永さんは、立花(りっか)、生花(しょうか)、自由花(じゆうか)の3点を、
簡単な日本語で、ジョークも交えて明確に説明しながら活けられました。
かざおれ(嵐のたおれた花を、生けてやろうと言う気持ち)、究極の花の命の表現
等、いけばなの精神、池坊の表現、芸術がよくわかりました。

お茶のお手前にも似た礼式活け(れいしきいけ)をされた着物姿の女性の立ち居振る舞
い、アシスタントの男性のりりしい袴姿にも、私達は魅了されました。
この三人は池坊本部国際部に所属していて、海外のデモ、ワークショップをチームで数
多く行っているそうです。

最後には、招待客5人が選ばれ自由花のミニレッスンがあり、一言ずつ専永さんか
ら一言ずつコメントを頂きました。

その後は、立食パーティーで、池坊のスタッフの方達と会話を楽しみました。
私は、専永さんとお話したかったのに、いつもだれかがそばにいて、果たせなく残念で
した。


あくる土曜朝、朝食を取りながら夫に昨夜のデモのことを話しました。
夫はビルマ人ですが、京都大学で日本庭園の勉強をしたので、日本文化にも興味があり
ます。私は、総領事館で見たからもういいやと思っていたのですが、再度出かけること
にしました。

一般向けのデモは、夜7時半から市内スカイタワーの向かいのSt. Matthew Churchで
行われました。
だいたいの内容は、昨夜と同じでした。

最後に、専永さんはワインボトル、キーウィーのつる、もち花とニュージーランド、日
本両方の素材を使ったクリスマスの自由花を生けられました。
ワインボトルは、同行のお弟子さんがニュージーランドワインを気に入り、ホテル
ルームで飲んだ空き瓶などと冗談を言われてました。

この時は最後に、ミーハーな私達は専永さんと写真撮影でき、お話もできました。
私が、フラワーデザインを教えていると言うと、専永さんは、「いけばなは一輪が美しい、
フラワーアレンジメントは全部が美しい」と言うお言葉を下さいました。
いけばなは花一輪をいかす為に活けますが、フラワーデザインは全部の花が見えるよう
に活けます。
まったく、簡単で適切な説明だと思いました。

閉会の時に、このイベントのために用意した花の残りを、参加者へのプレゼントがあり
ました。オークランドではなかなか手に入りにくい、がまの葉、ふといなどのいけばな
花材もありました。
運良くもらえたうちの生徒さんたちは、自宅でいけばなを活けて楽しんだようです。


私は、今は草月流のいけばなをやっています。
この週は池坊のいけばなを堪能しました。たてはなと言われる立花は、是非もう一度
習ってみたいと思いました。
しかしながら、今は草月かなと思いました。
草月は床の間を出たいけばなであり、現代の発展し、海外でも広く普及してます。
立花はとても好きだけど、これは全くの別世界だと思います。
その点、草月は私の感覚に近いところにあり、学んだことがすぐにフラワーデザインの
花の仕事にすぐ反映できるのです。
草月は正統日本のいけばなからは、はずれていっている面もあるかもしれません。
池坊も、決まりの多い生花(しょうか)は生徒さんに人気がないので、最近は自由花
からおけいこを始めるところもあるそうです。
日本のいけばなも、現代社会、国際世界をふまえての地域を意識して、変化していかな
ければ生き残れないと思いました。
現に私のフラワーデザインのコースに来る生徒さん達は、いけばなをやったことがない
人が多いのです。
私の娘時代は、お茶お花は女性の嗜みで、お嫁入りまでにお免状を取るというのが普通でした。
でも私達は日本人であり、日本の美意識を持っています。
いけばなの流派、フラワーアレンジと表現方法は変わっても、世界のどこにいても、
日本人である私を表現できればと日々精進してます。

クリスマスまであと2週間、ショッピングも仕事も最後の追い込みの今日この頃です。
皆様、よいクリスマス、お正月をお迎え下さい。
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その25 コンサート三昧 11-07-06

2007-08-15 10:20:04 | 第21-30回
その25 コンサート三昧

先月からコンサートによくでかけている。

市の図書館のランチタイムコンサート、これはただ。ソプラノの母とテナーの
息子のコンサート。
モーツアルトのレクイエム、International Music Festivalのオーストラリア
のピアニスト、Town hallでの日本からのお能、昨日はクラッシックチャリテ
ィーコンサートと続いている。
先先週などは月、水の夜と週2回も行ったので、週末にはくたくただった。

一年前に声楽を習うようになってから、ずっとコンサートに行く機会が増えた。
勉強のため、友達とでかけたり、チケットが余っているからと誘われたりと色々
である。ピアノ教室の発表会レベルから、オーケストラまで、オークランドで
は気楽に行けるコンサートが毎月ある。


昨日はLaura Fergusson Trust Charity Concertに出かけた。
Laura Fergusson Trust は、Brain damageのリハビリをサポートする団体で
いろんなチャリティー活動を行っている。
その一環として、毎年7月にクラッシックのコンサートを催している。
今年は第6回目となるそうだ。

出演者は、ピアニストJohn Chen、バイオリン Christabel Lin、テナー Steve
Martin、バリトン Grant Dixon、メゾソプラノ高橋侑子さん。
クラッシックは初心者に近い私も知っているようなおなじみの曲が多かった。
ビアノ、バイオリン、声楽とバラエティーに富んでいて楽しかった。

ピアニストJohn Chen は、まだ19歳である。このコンサートの出始めた時は、
ピアノのうまいChinese boyぐらいの認識しかなかった。
ところが、2004年にシドニーので国際ピアノコンテストで一位を取ってか
ら、注目され始め、今はアメリカの大学のマスターコースで学びながら演奏
活動を行っている。
今回もこのコンサートのために、ニュージーランドに帰ってきたそうだ。
我が町のJohn Chenが、世界のJohn Chenになりつつある。

John Chenは、Mozartの Sonata in E♭(K282)と Ravelの Sonatine in f♯
minorを演奏した。同じピアノでも、弾き手によってこうも音色が変わるもの
かと思う。私以上にクラッシック音楽のことはわからない主人も、やわらかい
音色だねという。なんの気負いもなく、淡々と流れるように演奏する。

バイオリンの Christabel Lin は、クライストチャーチ生まれの中国人。前回
のコンサートでは姉妹ででていた。
今回はベートーベンの”Kreutzer Sonata”1曲のみの演奏であったが、成熟し
た情感のこもった演奏であった。

John Chen とChristabel の演奏を数年前から毎年聞いているが、若い人の成
長ぶりには目を見張るものがある。もっとも彼らは、ニュージーランドを代表
をする若手演奏家達ではあるが。

テナー Steve Martinは、田舎の実直なニュージーランド人という感じである。
Steveは、オペラToscaから、E luca van le stelleを歌った。もう少し、感
情的な盛り上がりがあってもと思った。この曲はコーヒーのテレビコマーシャ
ルに使われていて、イタリア女性が最後に“うーむ”とうなずくシーンを、聞
くたびに思い出してしまう。

師匠であるバリトン Grant Dixon とのデュエットThe Pearl Fisherの Au Fond
du temple saintは息のあった素晴らしい二重奏で、会場を沸かせた。
Steveは、イタリア、ナポリ民謡のCore’n Grato、 Santa Luciaが彼の
声質に合っていていたと思う。

メゾソプラノ高橋侑子さんの最初の2曲が、特に素晴らしかった。
Martiniの Plaisir d’amour(聞かせしよ愛の言葉を)を、低音で聞かせた。
メゾソプラノの歌手であるが、低音の表現が素晴らしい。
Wertherの Letters aria。これはゲーテの“若きウェルテルの悩み”のオペラ
からのアリア。シャーレットが手紙を読みながら、悲しみ、失望するシーンを
感情をこめて歌い上げた。

20分のインターバルには、地元のロータリークラブの青年達がコーヒー、紅
茶をだしてくれた。そこでだされたビスケットもスーパーマーケットからの寄
付だそうだ。
私は、親しい友人を見かけて最近の近況を尋ねたりした。

あくる日も、メールで友人と感想をやりとりして、印象の残るいいコンサート
であった。
アリアのメロディーはよく知っていても、オペラ自体を知らないのもあって、
翌日ネットで検索してみた。

先日のお能の吉野天人も、日本の伝統文化でありながら、日本語が理解できな
かった。一緒に行ったちょっと日本語がわかるキーウィーに、“何言ってるの?”と質問されたけど、私もわからないのだ。
オペラの能楽も基礎知識がないと、筋が理解できない。イタリア人ならオペラ
のせりふは理解できるのだろうか。
音楽初心者ではあるが、コンサートごとに私の音楽の世界が広まっていくのは
嬉しい。


でも最近は聞くより、自分で歌うほうがずっと楽しい。
去年から、日本の歌曲やアリアを先生について習っている。
なんとかの手習いだけど、楽譜もまともに読めないけれど、わずかずつでも上
達していくのは嬉しい。自分が歌うようになり、発声法や曲目ももっと興味を
持つようになった。以前は聞き流していた音も聞けるようになり、新しい発見
があると感動する。
この曲、私も歌えないかなと思って聞くと、真剣にキーを追ったりする。
この年だから、純粋に自分の楽しみの為の歌っている。
歌を習いだして、風邪はひいてはいけないとか、睡眠不足だと声がうまくでな
いとか、歌は自分の健康管理にもいいと判った。

いつか私のソプラノを皆さんにお聞かせしますね。

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その22 息子の怪我 11-04-06

2007-08-15 10:18:38 | 第21-30回
その22 息子の怪我

今週末にイースターの連休を控え、普段たらたら暮らしてる私も木曜までに
片付けたい仕事が多く忙しくしている。
ニュージーランドでは4連休というのはイースター休暇のみだし、同時に学校の休
みに入るので遊びに出かける人も多い。


毎週火曜夜、うちの息子は近くのジムでインドアサッカーをやっている。
先週、息子は青白い顔をして戻って来た。
試合中に人があたって転倒した際に、右腕を怪我したそうである。
自分の体重が折り曲げた腕に全部かかった状態で、床に落ちたらしい。
倒れる瞬間、この倒れ方はやばい、怪我するだろうなと思ったそうである。
10分ぐらいあまりの痛さに動けなかったという。

帰ってきたのは夜9時すぎていた。
近所の緊急病院に電話をかけたが、診察はやっているがレントゲン室が閉まっ
ているから来ても何もできないという。
この時間に行けるのはAuckland Hospital, Ascot Hospitalぐらい。
ここの救急部門は24時間やっている。総合病院だから当たり前である。

息子は、レントゲン技師をしているおねえちゃんに電話をかけた。
息子 “骨折れたらどんな風になる?”
姉 “私はレントゲン撮るだけだから、患者さんの症状はわからない。
私が働く部門は交通事故とかで生死を争うような患者が多いし、そういう人
は意識もなくて痛いなんて言わない。”
息子 “じゃあ今どうしたらいい?”
姉 “救急部門ではあまり深刻でないケースは後回しでされるし、今からだっ
たらきっと相当待たされるよ。
パナドール飲んで寝れば?明日朝近くの病院へ行けばいいよ。“
息子は “She is useless”と怒っていた。

娘の言うことは当然たど思った。
交通事故で体がずたずたになっている患者さんに比べれは、息子の腕の怪我な
んて血も出てないし全然深刻じゃない。

息子はあいたたと言いながらも、お腹がすいて死にそうだといい、鳥の唐揚げ、
お味噌汁で晩御飯を食べた。
熱もないし食欲もあるから、私達も息子の怪我はたいしたことないと判断した。
骨折していたら、青白くなって冷や汗がでて吐き気がすると思う。
たぶんひじの捻挫か、筋を痛めたくらいだろう。

筋肉痛用のボルタリンを塗り、包帯でぐるぐる巻きにし、風呂敷で腕を首から
つって応急処置出来上がりである。
ボルタリンが適当かどうか判らないが、なんかマミーに塗ってもらえば、
チチンブイブイ、痛いの痛いの飛んで行けー、である。息子は大学生であるが。

あくる日病院へ。
診察してレントゲン取ったが、レントゲンを読み取れる医師がいないのでどこ
が悪いのかわからないという。
痛かったらパナドールを飲みなさいということである。
やってもらったのは三角巾をつけてもらっただけ。
これが日本だったら、シップとか痛み止めとか山のようにくれると思うけど。

この国はなんでもパナドールである。
パナドールはバファリンのような痛み止めである。
風邪も発熱、生理通、筋肉痛、なんでもパナドールである。
これは薬局ではなくても、スーパーでもどこでも買える。ニュージーランド
家庭の常備薬である。
風邪で立っているのもしんどい時に病院に行っても、パナドール飲んで寝なさ
いと言われる。これじゃあ家で寝てた方がましと思う。

あくる日、息子はまた病院へ。レントゲンには何も写ってないので判らないという。
1週間後にまたレントゲンを取りにこいという。

でも痛くて右腕が伸ばせない。
2日後、学校へ行ったら友達に
” Oh my god!! What did you do?”と言われてそうだ。
イースターから学校は秋休で、来週の木曜閉め切りのアサインメントがたくさ
んあるそうである。
右腕の負傷で、インテリアの図面が書けない。
毎晩夕飯の後片付けは息子の仕事であるが、当分私が皿洗いしなければならないよう
である。

息子は高校時代から空手、サッカーをやっているが、怪我も多い。
スポーツに怪我はつき物とは言うが。
息子は、たびたびACCのお世話になっている。

ACCは Accident Compensation Corporationで、ニュージーランド人、外国観光客
にかかわらず、スポーツ、事故による怪我の治療費用を負担してくれる政府機関
である。ごくわずかの自己負担はあるが、治療からリハビリまでカバーされる。

又、事故でなくても職業による疾患もカバーされる。
娘は仕事中患者さんを持ち上げた時に腰痛を起こし、しばらく治療に通っていた。
この時も、ACCの負担である。勤務時間中に起こった怪我等で、長期に渡って
仕事を休まなければならない場合、ACC が給料の何割かを支払ってくれる。
日本の労災保険に似た所があるかもしれない。

ニュージーランドで働く人は、所得税と一緒にACC に税金を納めている。
危険度の高い職業ほど、ACC の税率が高い。

怪我から1週間たった。
息子は、腕のレントゲン写真持って帰ってきた。何も異常がないと言われたそうだ。
とたんに元気になっている。

さっき“I’m going to soccer tonight”といって出かけていった。
全く反省のないやつである。

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その28 New Zealand Gift Fairs 10-10-06

2007-08-15 10:13:24 | 第21-30回
その28 New Zealand Gift Fairs

先週の日曜日、Greenlaneの ASB Show Groundで開催されたクリスマスギフト
フェアーにでかけました。
www.giftfairs.co.nz


これは秋、春2回行われる業者向けの見本市です。
私は、仕事で使う花器や資材をまとめて、いつもこのショウで注文します。
このショウは一般向けではないので、レジスターにはビジネスカード、ビジネ
スの銀行口座の提示、取引業者2社をあげるなどが必要です。

ギフトフェアーは、新製品の紹介、ニュージーランドマーケットに新規に参入
してくる業者にも展示のよい機会です。

ニュージーランドのお店で売られているほとんどの製品が、展示されてます。
だから数年も続けていけば、商品のだいたいの出所、卸値がわかってきます。
展示品は、アクセサリー、バッグ、キャンドル、陶器、キッチン用品、衣類、
おみやげ物、クラフトなどあげれば切りがないほどです。
私の仕事関係では、造花、ポプリ、コンテナ、リボン、ギフトなどがあります。

毎回、ショウスペシャルや新製品、新しい業者など目逃せません。
今回のギフトフェアーは450以上の展示業者があり、ホール8個全部を使い、
なかなか盛況でした。


Day Light Savingの初日10月1日の朝9時に、友達とショウの入り口で待ち
合わせしました。
その朝は、今日からDay Light Savingということを忘れていて、7時に起きた
つもりが実は8時で、あと30分で出かけなければならないと判り、ちょっと
慌てました。

Day Light Savingは時計を1時間進めます。半年後のDay Light Saving
の終わりには、1時間戻します。
今のニュージーランドと日本との時差は4時間。
逆の時はいいけど、1時間早くなるのは慣れるまで大変。

ちょうど9時にパーキングに車を入れて、ゲートに着いたのは9時5分。
受付は、新しくレジスターする人達の行列ができてます。
一般向けのショウではないのに、すごい人気です。
友人に遅れて怒られると思いきや、携帯に電話があり、今起きたところと言い
ます。彼女もDay Light Saving 忘れていたそうです。
お互い在住10数年になるのに、いまだに慣れません。
ちなみに、準備のいい人は、寝る前に時計を1時間進めておくそうです。


10時に落ち合うことにして、私は先に見に回ります。
まず、ホール7&8に行きました。
真っ先におなじみのポプリ屋が見つかりました。
www.pastelpines.com

教室用に、エッセンシャルオイル入りのポプリの子袋をいくつか注文。
ここのはクラフト用に作られているので、ボプリの中身が大きくて扱いやすい
のです。カラフルで、リボンやナッツ類の他のオーナメントとも合わせやすい。
クリスマスのポプリ、グリーンと赤のセットも数個注文。

次に、いつもの陶器屋。
http://www.modernearth.co.nz/index.html


ここは、主にタイからの輸入品をリーズナブルな価格で取り扱ってます。
お花の活けこみには、あまり高価な花瓶は使えないので重宝してます。
特にチェンマイ産の渋いグリーンとグレーの青磁はお気に入りです。
チェンマイに行った時、花瓶を買って帰ろうとしたが、あまりの重さとリスク
を考え断念。
だれかが輸入したものを、ニュージーランドで買うのが楽チンです。
価格も、私がタイで個人として買うのよりか安く買えるし、配達時に割れてい
たら返品もきくし、大助かりです。
グリーンのバナナの葉っぱの銘々皿がかわいくて欲しくなるが、自宅に持って
いるのはほとんど白なのでマッチしないので断念しました。
高さ80cmと60cmの黒のセットの寸胴のつぼ2個、白の12面体の花瓶、
エメラルドグリーンの直径30cmの青磁の水盤、あとは小さな長方体の花器
を数個注文しました。

2軒で注文を済ませると10時になったので(先週の9時)、又入り口に行き
友人と待ちました。

また友人と同じホールに戻りショッピング続行です。
友人はクリスタルの専門店を見つけて、石を手にとって触ったりとたいそう気
に入った様子でした。私は気にも留めず通り過ぎてましたが、やはり興味に
よって見るところが違うんですね。
www.ronsrocks.co.nz

石屋のおっちゃんが、癒し、ヒーリングブーム乗ってビジネスを展開したと感
じでした。工場で青い作業着着て石を磨いていたほうが似合っているような、
素朴な叔父さんでした。
石は触ってみると、温度が違うんですね。ヒスイは暖かいし、水晶、クリスタ
ルは冷たい。

これなら自分で使ってもいいかなと思える、すてきなデザインのかばん屋を発
見。ちょっとしゃれてると思ったら、デンマークからの輸入品でした。
しかし、卸で$300近くもするし、倍がけで売るとすると$600.
これならブランドものが買えると思ってしまいます。
http://www.leonetti-berlin.de/


最低数千ドルの仕入れはしなければならないし、ニュージーランドでこういう
高価なの売れるのかなと思いました。

ちょっとお腹の空いてきた私達は、試食品を物色。
Crayfish Oilなるものを発見。フランスパンにつけて食べてみました。
Crayfish、イセエビの脳みそのうまみだけをオイルにしたような、不思議な味。
パエリアの味付けにでも使えばいいのかもしれない。

同じところにあったBlue River Dairy Productsのチーズは絶品。
一個仕入れで40ドルもしていたが、それだけのことはありました。
一生もう二度と食べられないかもと、私達は帰る前にも行き、気付かれないよ
うにまたこっそり試食しました。
Tussock Creekの Fetaチーズは今まで食べたことのある中で一番おいしかった
です。ちょっと苦く、濃厚な味がする。
となりにあった、臭い靴下の味の Pecorino Styleのチーズもよく熟成してい
て、何切れも食べてしまいました。
帰りがけ、今日は幸せだったね、と友人。単に食いしん坊なだけですが。

気が付くと、もう2時間もたってます。
寄り道ばかりせず、仕事のものを注文しなくてはと、おなじみの業者を捜しま
す。

Mayonでバスケットと籐のトレーを注文。ここは、バスケットだけでなく
籐の輸入家具も取り扱ってます。
www.mayon.co.nz

花市場の中の資材屋のOcean Unionで、白、ライム、黒の立方体の陶器のコン
テナを注文。いつも行くのに、見逃している製品が多く、改めて使えるものは
ないかよく見ました。
www.oceanunion.co.nz

そしてまた、ここ最近のお気に入りのオリーブオイル製品のお店へ。
www.simunolive.co.nz
Extra Virgin Olive Oilは今年はいい出来で、苦味があって黄緑ががったグリ
ーンです。
オークランド南方のBombay Hillで作られてます。Body Creamや日焼け止めも
しっとりして気に入ってます。

一通り注文したので、帰ろうとすると外は雨風の嵐。
しかたなく、友人とショウ臨時のレストランでシェパードパイをお昼に食べま
した。あんまりおいしくはなかったけど、体が暖まりました。
しばらく待っても、いっこうに雨がやむ気配がないので、パーキングまでダッ
シュ。10分ぐらいの距離なのにずぶ濡れになりました。

後で知ったことですが、その日は突然の嵐でWest Aucklandの Ranuiで竜巻が
おき、2軒の家の屋根がとんだそうです。
先週まで満開だったさくらも一気に散って、葉っぱばかりになってしまいまし
た。
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その21 Mangere Bridgeの道路工事 10-03-06

2007-08-15 10:11:39 | 第21-30回
その21 Mangere Bridgeの道路工事

  毎日通るMagere Bridge(マンガレーブリッジ)。
日によっては一日数回往復することもある。うちからオークランド側にでるに
は、必ず渡る橋である。
State Highway20号線は、南はAuckland International Airportと Manukau
Cityから北は Mt Roskill(マウントロスキル)を繋いでいる。
ニュージーランドでは高速道路(State Highway)のことをMortar Way と呼ぶ。
高速料金はなく、ただである。だからに日に何回も行き来したり、長距離通勤
する訳である。

私の住む町はこの橋に袂にあるので、町の名もMagere Bridge となっている。
通常オークランドと記載してるが、行政区画はManukau(マヌカウ) Cityに属
する。Magere Bridge から南はManukau City 、Harbour Bridgeから北は
Northshore Cityである。

Auckland Cityは、北はHarbour Bridge、南は Mangere Bridgeにはさまれた
地域。オークランドは上下がくびれたボトルネックといわれるゆえんである。

Magere Bridgeは、ニュージーランドの原住民のマオリ族のひとつTainui(タ
イヌイ)の北端の居住地である。Tainui族はここから南、 Waikato(ワイカト)
地方を支配していた。現在はマオリ人は全人口の10%ほどであるし、この地
域もいろんな人種が住んでいるため、マオリ人以外は特にこの歴史を意識する
ことはないだろう。
Magere Bridgeは、昔からリタイアした中流クラスの白人が多く住み、老人用
スクーターでお買い物にいけるようなのどかな町である。

Magere Bridgeの西側はTasman Sea、東側はPacific Oceanで潮の満ち干も違
うらしい。

オークランド空港はこの橋より南側にあるので、橋は空港から町にでる通路に
なっている。

Magere Bridgeに一ヶ月前から大きなサインボードがでていた。
あまり深く気にも留めず、毎日通りすぎていた。

その週の月曜、2月13日にポストに“Weekend lane closures on SH20 Mangere
Bridge Feb 17 to Apr 10”というちらしがはいっていた。
そのDetour Routeによると対岸のOnehungaへ行くには、まず Otahuhu(オタ
フフ)方向にむかい Great south Roadに入り、そこから Church streetに行
ってOnehungaにたどりつくという回り道である。
時計回りに行けばほんのちょっとのところを、反対時計回りにぐるっと1周近
く行くという感じである。
2月17日の週末から4月10日まで、毎週末金曜の11時から月曜の朝5時ま
でMagere Bridgeの北行き斜線が道路工事のため閉鎖とある。


これは早速、私達の日常の生活に影響を及ぼした。
初日の18日に私はPenroseのワークショップへ車のタイヤを替えに行った。
普段なら橋を渡って10分のところなのに、迂回路を通って30分もかかってし
まった。帰りに北側からは橋を渡ったが、やはり道路閉鎖していた。

その日バスで街に行った友人によると、ほんの橋をこしただけのOnehungaまで
1時間かかったそうである。普段なら5分なのに。

夜6時のニュースで、私が通ったすぐ後に迂回路のPenroseでトラック横転、
ドライバー死亡と報じていた。
まったくこの橋の閉鎖がなく、この迂回路を通らなければこのドライバーは死
なずにすんだかもしれない。交通事故などで、あの時あの場所にいなければと
悔やまれることは多々ある。

その日の6時のニュースでMangere Bridgeの閉鎖が報じられ、最長5キロの停
滞、また不慣れな迂回路でGreat South Rdでトラックの大事故と非難ごうごう
だった。ある人は2時間も車に閉じ込められたそうだ。

20号線を避けてオークランドに入るには、Manukauから1号線に入らなけれ
ばならない。
説明、迂回路の表示が不親切なので、車は通常どおりManukau City空港方向か
ら入ってくる。そして我が家のすぐそばのCoronation Rdで20号線からだされ、
例の迂回路でOnegungaにたどりつくことになる。

空港勤務の友人によると、空港からの車はManukau Cutyから1号線でオークラ
ンド市内へ向うよう指示されていたそうだ。
まあ空港に到着後だから、多少遅れて市内に着いてもいいかということである。
もしこれが橋の南行き斜線だったら大問題である。橋の工事を知らずにいつも
通りの時刻にでたら、飛行機に乗り遅れてしまう。


翌日2月19日(日)に私達は南へ50km、片道2時間ほどの所にある
Raglan(ラグラン)へピクニックに行った。
ラグランはサーフの名所としても知られている。
私達一家は砂浜から釣れない釣りを楽しみ、いなり寿司、サラダで昼食を取っ
た後、サーフビーチへ行った。
ハンググライダーで目の前をいったり来たりする鳥人間を眺めたり、何かに憑
かれるように沖まで泳ぎ、波に乗ってでサーフで岸までの往復を繰り返すサー
ファーの群れをぼんやり眺めて過ごした。
ラグランの休日は,のんびりしていい休養になったが、行きは苦労した。

その朝、一緒にラグランに行く夜勤明けの娘をピックアップにオークランド病
院に向った。
橋が渡れなし、指定の迂回路をさけて、Otahuhuから1号線北行きに乗り町へ
向おうとした。
ところがここも工事中。Motorway の入り口がふさがれている。指示通り行く
と、橋を渡ってMotorwayの反対側にいったん渡り、また別の橋でこっち側へ渡
り、やっと北行き1号線に乗るというもの。
どこにもどうやってMotorwayに乗れるのか、いったい迂回路はどこに向ってい
るのか書いてなくて表示が不親切。
ナビゲーターの主人は道を間違えるし、息子も不慣れな道でイライラし朝から
車中は険悪な雰囲気になる。通常20分のところが1時間もかかった。

その日夕方、町から帰ってきたら反対車線もふつうに動いていた。予告だと月
曜朝5時なで閉鎖のはずなのに。この週末は第一回目とあって苦情、問題が多
いので早めに工事を切り上げたのかも。

週明け、橋の脇に今週は工事延期とあった。
さらに2月25日のヘラルド新聞によると、3月24日まで工事は延期とある。
3月24日からはひとつではなく、三つの迂回路を使い、工事期間も日曜朝ま
でとなると言う。オリジナルのプランの月曜日5時までの閉鎖だと、週明けの
通勤通学に影響がでることはまぬがれないからだ。

Magere Bridgeに平行して、古い橋がある。
昔はこの橋を使って空港方面へ向ったが、今は自転車、歩行人に通路となって
いる。工事中この古い橋をを臨時で使うとかできないものだろうか。

ここだけでなくあちこちで工事。3月で年度末が近いせいかな。
2月26日ノースショアーの友人宅へ。
1号線でHarbour Bridge を渡ってからTakapuna(タカプナ), Devonport
(デーバンポート)へ出る Akoranga Drive(アカランガドライブ)の出口が閉
まっている。
そのため次の出口まで車が数珠繋ぎになっていた。それならそうと橋を渡る前
から表示が出ているべきである。そこまで来てからでられないとわかる。
土日で交通量は少ないとはいえ、約束の時間に遅れる人もあるであろう。


これらの一連の道路閉鎖は、まあ交通局は事前にある程度情報を流していたと
思うが、ニュージーランド人の一般気質からして見ていないだろうなと思う。
見てなくて、当日道でスタックして怒るというパターンである。今日は工事だ
から回り道しなきゃとはだれも思っていないと思う。
Motorway から1時間以上のスタックの上やっとでれたと思ったら、行ったこと
もないへんな道を行かされる。でもみんな迷子の羊のようにだらだら後をつい
ていくのである。

朝夕の交通停滞は日常茶飯事であるが、みんなお行儀よく停滞の列で耐えてい
るように見られる。ホーンを鳴らして、前行車をせかしたりしない。
たとえ青信号でボッートして発車しなくても、しばらくはみんな待っている。
ちょっと長いなと感じられると、軽くピット鳴らして注意を促す程度である。
都会であるオークランドでも、車はのんびり走っている。
この雰囲気というか、運転のタイミングが違うためせっかちなアジア人ドライ
バーの事故をおこしがちだ。
それでも田舎から来た人は、オークランド人はせっかちで車も多いので恐ろし
くて運転できないという。

3月24日からのMagere Bridge の北斜線はこれら教訓を受けて、事故なくす
すむ事を祈りたい。土日は町になるべく出ないようにしよう。

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その29 ピンクッション 10-11-06

2007-08-15 10:04:33 | 第21-30回
その29 ピンクッション

さすがに11月、のんびりペースの私でも仕事に追われてます。
今回の配信は、書くゆとりがなくて前に花のサイトに書いたのをまとめてみました。


2003年1月記

前から私はProteaceae(プロテア科)の花が大好きだ。
私のお散歩コースにも見事なピンクッション(リウカスポーマムとニュージー
ランドでは言う)があり、開花時には100本余りの花をつけている。
何度“一本下さい”と言いかけた事か。

フローリストの私としては、指をくわえて眺めながら通り過ぎてしまうしか仕
方がなかった。
でも、どうしてもほしくて、問屋さんから結構高い値段で泣く泣く買っていた。
私の庭に植えれば、毎年アレンジメントにもふんだんに使えるのにと思ってた。
それを聞いた友人が、
North Islandにプロテア栽培農家があると教えたくれた。

ある土曜日、ドライブを兼ねて夫とWarkworthへでかける。
オークランドから車で北へ約1時間。9時すぎ到着。朝食をとるためカフェに
入ると、マオリ人のトラックドライバーがベーコンエッグにベイクドビーンズ
トーストというボリュームたっぷりの典型的キーウィーブレイクファーストを
とっていた。
後から入ってきたのは“私達、昨日別荘にきたの”という中年の都会的な白人
カップル。クリスマスシーズンをここで過ごすという。

Warkworthからビーチまで10分、近郊にはワイナリーや地元の陶芸家のク
ラフトショップが多い。通りはホリディー客で朝からにぎわっている。

朝食をすませた私達は、プロテア栽培農家THE PROTEA PATCHへ向かう。
ここは町から5分ほどで、隣りにはワイナリーがあり、葡萄畑に囲まれている。
オーナーのシャーレンがでてきて、写真をみせながら説明してくれる。生憎今
はプロテアを植えるシーズンではないという。写真の中からほしいものを予約
し、来年3月下旬に取りにくることにする。
 
ピンクッションの種類は人気ですぐ売り切れになるそうだ。私の大好きなピン
クッションはオレンジを2種類に黄色を一本、その他にキングプロテア、クイ
ーンプロテア、グリーンプロテア、サハリサンセット、フィリカ、ブルニアな
ど13本をたのんだ。

シャーレンは親切に育て方を教えてくれる。プロテアの家族は風通しがよく、
荒れて岩の多い土地に向いているという。火山岩がごろごろしている我が家の
庭に、まさに最適だ。
Proteaceae(プロテア科)は3月から8月(ニュージーランドの秋から冬)
の間に植え、夏の間は水をやってはいけないという。これはなまけものの私に
ぴったり。

作業場の隅に、とても見事な肌色のカラーが20本ほどバケツに無造作に入っ
ている。
ピンクとオレンジの中間のような色合いで、茎は太く2メートル近くある。こ
こではカラーも栽培しているらしい。はるばるやって来て、手ぶらで帰るのは
つまらないので、“これ売ってるの?”と私。シャーレンは“これは日本への
輸出用なの。一本$2.50(160円ほど)で引き取ってくれるから、ニュ
ージーランドマーケットには馬鹿らしくてだせないわよ。”と言う。
そうか、こうやってニュージーランドでベストの花たちはドルを生むために
日本へ行くのだな。
シャーレンが指差した、川の対岸の湿地帯の続きにさまざまな彩りのカラーが
植わったいた。
これまでおなじみの黄色、エンジ色に加えて新色の肌色、アプリコット色、オ
レンジ色がある。

プロテア、サンダーソニア、シンビジウムに加え、最近ではカラーがニュージ
ーランドから日本へ多く輸出されている。


昼過ぎ家に帰りついた私達は、庭の南斜面をプロテアガーデンにする事を決め
る。今は草ぼーぼーだけど3月までに整備すればよい。プロテア、ピンクッシ
ョンは植えてから開花するまでに3年から5年かかるらしい。
皆さん、5年後には我が家のプロテアガーデンを見にきてね。

2004年3月記
私のプロテアその後

合計20本のプロテア科の苗を4月のイースターのお休みに植えた。
去年は雨が多かったせいもあるが、湿気の残りやすい木の影に植えたものなど
病気になったりで、半分ほどで枯れてしまった。生き残って元気なのは、風あ
たりの強い、火山岩のごろごろした斜面に植えたリューコスポーマムだ。
それでも一年近くたっているのに、背丈70CMにしかならない。来年は花をつ
けてくれるだろうか。その隣のプロテアは固いつぼみをつけ始めた。
ナーサリーのシャーレンは、植えた後は”Sit Back and relax”なんて言
っていたが、雑草はちょっとにすきにもはびこる。東斜面のリューカデンドロ
ンは冬の間2-3ヵ月ほうっておいたら、隣の庭から延びてきた昼顔やプハ
(ニュージーランド原産の野生のほうれん草)に小さな苗は覆い尽くされ、も
やしにようにひょろひょろになっていた。

2月のある日、シャーレンをプロテアパッチに訪れる。シャーレンのお母さん
がプロテアの苗作りをしていた。苗がビニール鉢の中で根付き、秋口になれば
植えごろになる。本当は私が枯らしたプロテアをいくつか買い足したかったの
だが、またしても時期が早すぎると言われた。
苗がまだ育ったいないのだ。そのかわり直径30cm程の見事なエケベリアを
2鉢買う。ピンクがかった、フリル状の葉で花をつけていた。
家で私が植えているのはプロテア以外は多肉植物の種類である。これらもいっ
たん植えたら、水やりもいらず簡単に増やせる。最近はエケベリアやゼリービ
ーンを花束やアレンジメントによく使っている。水持ちがいいし、アレンジに
した後はそのままほおっておけば根っこがでて育つ。

プロテアパッチの向かいのワイナリーでテイスティングの後、気に入ったリー
スリングで昼食を頂く。ワイナリーのレストランは平日だというに盛況である。
添えてあったオリーブもここで採れたものだそうだ。帰りはプホイに寄り
ブルーチーズを買い、ちょっとした小旅行であった。


そして今週。
リウカスポーマムは、今年は9月から花が咲き始めています。
毎週、少しずつ咲いてくるので、花の教室、生けこみ、私の生花の練習用にと
重宝してます。

今週土曜日は「East meets West」と言う題名で、日本のいけばなと西洋の
フラワーアレンジメントのデモンストレーションをやります。
日本の文化、華道の精神性などの話をするので、今週はそのことで頭がいっぱ
い。ほかのことが考えられません。
デモでは、使い慣れた我が家のリウカスポーマムで盛り花を一杯活けることに
しています。
このデモの報告はまたいつかしますね。

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その23 ビルマ難民 09-05-06

2007-08-15 10:02:01 | 第21-30回
その23 ビルマ難民

ニュージーランドは移民の国です。
特にオークランドは、アジア系移民も多く、私達のような国際結婚カップルに
も居心地がいいのです。移民の中には、難民としてニュージーランドに受け入
れられた人々も含まれます。
オークランド近郊では、ベトナム、アフガニスタン、ソマリ、ボスニア、ビル
マなどからの難民が居住しています。

毎年3月、ポッターパークでオークランド市主催で難民のお祭りが開かれるほ
どです。各国のパフォーマンスや民族料理のお店がでます。

私の夫はビルマ人で、オークランドで難民のサポート活動のボランティアをや
っています。
2001年に100名余のビルマ難民がやってきたのを皮切りに、毎年ビルマ難民が
ニュージーランド政府に受け入れられています。
ニュージーランドは国連で指定された難民受け入れ国の一つです。
ビルマの難民の受け入れ先は、ニュージーランド、オーストラリア、ドイツ、
イギリス、スウェーデンなどがあります。
今年は、3月、5月、11月と3回に分けてビルマの難民が来ます。

1988年のラングーンでの紛争以来、ビルマでは政治的に不安定な状況が
続いています。
反政府のリーダーであるアウンサンスチー女史は、ノーベル平和賞を受賞し、
90年の総選挙では過半数の票を獲得したにもかかわらず、現政府による自宅
軟禁にされたままです。

今年第一回目のグループが、3月31日にタイ国境の難民キャンプからとマレー
シアからやってきました。
タイ国境からやってきたのは、およそ60人でナガニー族、いわゆる首長族と
いわれる人たちです。大多数のビルマ難民はタイ国境付近の難民キャンプに収
容され、国連の難民認定を受けた後、難民受け入れ国に送られます。

マレーシアからは、主にチン族の不法滞在者40名ほどです。最近クアラルン
プールでのチン族教会への弾圧から、不法滞在のチン族が注目され始めました。
今回は特別の措置で、国連が運営する難民キャンプ以外からの、ビルマ難民
としてチン族がやってきました。このグループは独身の男女が主です。

一般にビルマ人とよばれるのは、ビルマ、シャン、カレン、チン、ヤカイン族
がいます。彼らは異なった文化も持ち、それぞれの言語があります。ナガニー
族は少数部族のひとつです。

今回タイの難民キャンプからやって来た子供達は、タイ語とカレン語を話し、
ビルマの国語のビルマ語を話せない子も多いです。


ニュージーランドでは、難民の到着から地元住民として落ち着くまでシステム
化されたサポートで、非常にスムーズに世界からの難民が受け入れられていま
す。

世界各地の難民キャンプから、国連の世話でニュージーランドに到着した難民
は、空港に近いマンガレイのRefugee Centreに収容されます。
彼らはここに4週間いて、その間に結核などの健康診断を受けます。
ニュージーランドで生きていくための必要言語、英語教育は到着後すくに始ま
ります。
キャンプでは、一部屋に2人ずつ入り、食事は食堂で全員でとります。
その間に1家族に付き一人スポンサーがつきます。スポンサーは、難民の人達
がスムーズにニュージーランドの生活になじめるようにすべての面にわたって
ボランテアとして働きます。
難民のWINZ(Work & Income New Zealand)からの生活保護の受け取り、
子供の入学手続き、買い物の手伝いもします。

センターをでて一家族ずつ各地域のstate house(政府の低所得者の為の住宅)
へ引っ越した後も、スポンサーは平均週1回訪問します。
難民の中には妊娠している婦人もいて、来てすぐ出産する人もいます。
難民は最初にRefugeeのビザを支給され、だいたい5年くらいでニュージーラ
ンド市民となります。

4週間後、難民は政府の指定する地域へ移動させられます。最低3年間は、
進学などで他の地域の学校に行くなどの特別な事情がない限り、指定地域から
移動することを許されません。市民権取得後は、ニュージーランドにとどまる
人達もいれば、親戚知人をたよってオーストラリアやアメリカなどに渡って行
く人もいます。

今回、ナガニー族たちは、出発当日朝11時にニュージーランドへ行くと知らさ
れ、6時に旅立ち、翌日夕方オークランドに到着しました。
まさに着の身着のまま、飛行機にのったと言う感じです。中には靴もなく、は
だしの人もいました。
難民キャンプの中でも、選ばれた家族だけが他国へ受け入れられるため、やっ
かみなどを避けるための措置だと思われます。難民のなかには第3国に旅立つ
まで2-3年かかる人もいます。
今回は1歳から10歳ぐらいまでの子供連れの家族が多かったです。なかには1
歳から9歳の5人の子持ちの家族もいました。

タイのバンコクからの飛行機は難民だけのチャーター便で、ソマリ、アフガニ
スタンの難民と合流しました。

夫はこの4週間の間、毎日のようにセンターを訪れ、事細かにビルマ難民の世
話を焼いていました。テレフォンカードを渡して、タイやビルマにいる家族と
の連絡や、イーメールを代筆したりしました。
皆様からご寄付頂いた衣類、食器をセンターに運び、難民に分け与えました。
ほとんど手ぶらでやって来たビルマ難民も出発近くにはけっこうな物持ちとな
り、入れ物として我が家からもスーツケース、旅行かばんを寄付しました。

4月27日にオークランド空港からビルマ難民は、ウェリングトン、ネルソン
へと旅立って行きました。現地の空港ではスポンサー、地元サポートグループ
が出迎えたそうです。


いつも、このような難民の受け入れはニュージーランド政府の援助ばかりでな
く、普通の市民の善意に支えられていると実感します。
一市民として、あるいは宗教心、道徳心から困った人たちを助けてあげよう、
いい意味での善意がニュージーランド人にはまだまだ健在です。
教会や非営利団体の属して、チャリティー、ホランティアを日常的に行って
いて、その行動力、組織力にはすばらしいものがあります。
ビルマ難民が来ると聞いただけで、ガレージを整理し寄付品を取りに来るよう
にという、電話があちこちからはいってきます。つぎの難民がやってくるまで、
我が家のガレージは寄付品の山となりそうです。

ビルマ難民の人たちも、ニュージーランド人の善意を裏切らないで、初心を
忘れずニュージーランドに定着してくれることを祈りたいです。
第1回ビルマ難民の受け入れから5年、彼らは良くも悪くもキーウィー化して
きたと思います。また別の機会に詳しく触れたいと思います。

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その24 Fukuoka Day 09-06-06

2007-08-15 09:56:11 | 第21-30回
その24 Fukuoka Day

福岡Auckland姉妹都市20周年記念のFukuoka Dayに行ってきました。
福岡市とオークランドは姉妹都市で、10年前にも記念式典が行われました。
セカンダリースクールでも、福岡の高校と姉妹校のところがあり、娘が行った
Epsom Girls Grammar Schoolでも隔年日本の夏休みに福岡からの交換留学生を
受け入れていました。

Fukuoka Dayは、開会式から閉会まで両市長が参加し、多数のオークランド市
民が訪れ賑わってました。

Auckland Cityのこの催しを、NZ Japan Society of Auckland, 在オークラン
ド総領事館、日本人会が共同企画・運営していました。

Fukuoka Dayは、5月20日、朝10時から午後4時半までAuckland Town Hall
で行われました。
Town Hall はオークランドダウンタウンの中心道路Queen St.に面しているし、
Aotea広場のフリーマーケットも同時に開催されていたので、通りがかりの人
も入ってきて大変な混雑でした。

催しは、ステージショウ、展示、販売、外では日本食の屋台、武道のデモンス
トレーションと盛りだくさんでした。

メインステージでは、恒例のマオリ族の歓迎のカパハカに始まり、オークラン
ドと福岡の団体のパフォーマンスがありました。

福岡からはアンサンブル・アジア(Ensemble Asia)が参加してました。
アンサンブル・アジアは福岡在住の中国と日本の民族音楽の演奏家で構成され、
アジアに開かれた都市を目指す福岡市にふさわしい新しいアジア音楽を目指し
て、作・編曲家と協力して活動しているそうです。
中国楽器の胡弓、和楽器の琵琶、琴等にピアノ伴奏がつくというコンテンポラ
リーミュージックでした。私は福岡と言うと、黒田節、炭鉱節とか北原白秋の
歌を思い浮かべるけど、福岡はアジアの都市ということなんですね。
中国音楽でも、和楽でもない不思議な感じがしました。

オークランド側はよさこいソーランダンス、日本舞踊、お琴のアンサンブル、
ラップ、手話付フォークソング、最後は女声合唱団さくらの会による“ふるさ
と、村祭り、マオリの曲Po Atarau(さよならの歌)”でフィナーレでした。
ふるさとの合唱の時、福岡市長は目を閉じて、感傷にふけり聞き入っていられ
てようでした。
私も“うさぎおいしかのやま、、、、”と聞いただけで涙ぐんでしまいました。
外国に住むようになって、日本の歌曲が胸にしみます。年のせいかな。
日本にいる時は、感動も何もしなかったのにね。


午後、着物交流協会による着付けのファッションショーがありました。
最後の十二単が着付けが外国人には物珍しかったようで、友人の旦那さんが見
入ってました。

展示は博多人形の販売展示、切絵、生花の展示とデモンストレーション、浴衣
コーナーがありました。
福岡らしい展示は博多人形だけで、希望者は人形の顔の絵付けをすると、お
人形がもらえたようです。
浴衣コーナーは浴衣を着付けてもらい、しばらく会場内を浴衣のまま歩き回っ
てよかったようです。Kiwi Girlsがサンダル履きで楽しそうに記念撮影して
ました。

販売コーナーには、日本食料品、和食器、盆栽等の販売がありました。
外では地元日本食レストランの屋台がでてました。
和食は、お寿司、どんぶりもの、ラーメン、皿うどんなどがありました。
日本関係の催しには、いつもでてくる和食レストランだったので、私は特に
食べたいという気はおこりませんでした。
不謹慎な我が夫は、Aotea Suareの屋台でインドのサモアを食べたそうです。

3階では、Ikebana Internationalのよる生花の展示とデモンストレーション
がありました。草月流が大多数で、日本人は数人ということもあり、モダン
アート風のアレンジが目に付きました。
それでも季節が秋ということで、菊、紅葉したもみじなど日本情緒にある生花
の展示もありました。
一緒に見ていた友人は、“ニュージーランドにも菊があるんですね”と関心して
ました。菊なんて世界中どこにでもあるし、花の輸入はどこでもやっているか

、世界何処行っても同じような花があるという事実を知ってること自体が特
殊だということが判りました。
りんどう、芍薬、菊、紫式部といった和風な花もニュージーランドで栽培され
てますよ、と教えてあげました。
オセアニアらしい花材、バンクシャー、フレックス、プロテアなどを使った
大胆な生花は現代の住居、外国の住まいにも似合うのではと思いました。

私はパフォーマンス部門で参加してたので、あまり見れず残念でした。

感想としては、食べ物もパフォーマンスもいつものオークランド日本グループ
の面々で、福岡らしさがでていなかったと思いました。
辛子明太子、博多のとんこつラーメンが食べられると思って行ったのは私だけ
ではなかったようです。
会場であった何人か博多っぽ達とぼやきあってました。

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その27 マオリクイーンの葬儀 08-09-06

2007-08-15 09:54:20 | 第21-30回
その27 マオリクイーンの葬儀


8月15日、マオリクイーン、Dame Te Atairangikaahu(デイム・テ・アタイラ
ンギカアフ)が、長年の病の末、75歳で亡くなった。

Dame Te Atairangikaahu は、Waikato地方を拠点とする Tainui部族のリーダ
ーである。
Tainui のリーダーは、ニュージーランドマオリのKing又は Queenとされる。
Queen は、正式には政治的な権威はなく、象徴的な存在である。しかしなから、
イギリス政府とマオリ人の間に交わされたTreaty of Waitangi条約の解決策の
話し合いに大いに貢献した。
マオリと1800年代の入植したイギリスを中心とするヨーロッパ人との争い、“ニュージーランド市民戦争”とも呼ばれるマオリ土地戦争が各地で勃発した。
Treaty of Waitangi条約は、その解決策として定められた。

ニュージーランドマオリの” Kingitanga(King) movement”は、1858年に
始まる。
Tainui族のPotatau Te Wherowheroが、第一代の王である。
Dame Te Atairangikaahuは6代目にあたる。1966年に、クイーンの父King
Koriki没後、マオリの部族が集まり、長女であるTe Atairangikaahuをマオリ
クイーンに指名した。

今回、Dame Te Atairangikaahuの後を長男のTuheitua Paki(51歳)が継ぎ
7代目となった。
Tuheitua Paki氏 は、地元HantlyでTainui Clutural Adviser として
Te Wananga O Aotearoa(マオリの教育機関)で働いている。
キングになった為、公務に専念するためこの職から退くものとされている。
今回はTainui部族内でのみ王位継承を話し合いが持たれたため、不満を漏らす
部族の長もいた。


Dame Te Atairangikaahuは、部族間での亀裂など、マオリ族内の問題の解決に
務めるなど、マオリ統一に向けて助力し数々の功績を立て、族内からの信望も
厚かった。
今年5月には、在位40年を祝う式典を終えたばかりだった。
在位40年というのは、マオリが王を選出するようになって以来、在位期間は最
長であった。


彼女の住んでいたNaruawahia(ナルアワヒア)という町にある、Turangawaewae
Marae(トゥランガワエワエ・マラエ)というマオリの集会場があり、ご遺体
はそこに安置されていた。
Dame Te Atairangikaahu の葬儀は1週間続き、ヘレン・クラーク首相を始めと
する歴代の首相達も弔問に訪れた。
イギリスのエリザベス女王からのメッセージも届いた。
政府機関には半旗が掲げられ、Tainui族ばかりでなく、他部族も弔問に訪れた。
彼女はその人柄から多くの人々に慕われ、一般市民も最後のお別れにマラエ
を訪れた。
連日一万人以上の弔問客が訪れ、月曜の葬儀までに10万人以上が参加した。


弔問に訪れる人は黒い服を着て、年配のマオリ婦人はつたなどのグリーン
でつくった花輪を頭につけている。
グリーンの種類は各部族で異なり、シンボルマークのようになっている。

葬儀では、豚、じゃがいも、サツマイモなどのHangi(ハンギ)蒸し焼きがだれ
にでも振舞われる。
この近世の歴史的ともいえる壮大な葬儀のために、特別なダイニングチームが
作られ、地方から野菜、肉のKoha(寄付)が多く寄せられ、マラエのキッチン
はフル回転であったそうだ。
ふだんからマラエでは数千人の単位でのケータリングがされているが、今回は
桁外れの規模であった。


葬儀のクライマックスは8月21日に、マオリクリーンの棺は、Turangawaewae 
MaraeからハントリーのTaipiri Mountainの麓までWaka(カヌー)でワイカト川
を下っていった。
Taipiri MountainはTainui族の墓地である。マオリの歴代の王達もここに眠
っている。
知り合いのマオリ人とここを通ると、彼らは車を泊め、祖先に敬意を表して黙
祷する。

この日は、混乱をさけるため国道1号線が10時から4時まで閉鎖された。
弔問の人々は行けるところまで車で行き、その後は徒歩でマラエまで向った。

ニュージーランドの先住民族はマオリ族という狩猟民族で、ニュージーランド
の全人口の15%ほどである。
マオリ族は今から1000年ほど前、クック諸島周辺から移住したのではない
かというのが一般的な説である。
マオリ人たちはハワイキ、ハワイヌイ、ハワイキロア、ハワイキパママオとい
た伝説上の故郷からやって来たとする。マオリ人たちは、死んだらハワイキに
行くと信じているので、ハワイキは事実上の土地ではないかもしれない。
現在のマオリ族の各部族はその時やってきたワカ(カヌー)までさかのぼるこ
とができるとされている。
マオリクイーンの祖先のワカはTainuiである。


私は1993年から1998年まで6年間、Tainuiの関連組織で働いたこともあり、マオリクイーンの死がとても身近なものと感じられた。
ニュージーランドへやって来て最初の職場で親切でしてもらったことが忘れた
れない。

その当時、私は、Tainui 関連の催しの花の装飾を何度かまかされた。
10年ほど前、Hamiltonで Air Force Baseで式典のステージで花を活けてい
た。その時、上品なマオリ婦人がちょっと覗きに来て、しばらく私の仕事振り
を眺めておられた。
彼女が去った後、アシスタントの青年が、あれはマオリクイーンだと教えてく
れた。
その後、私のボスとマオリクイーンが親戚であったこともあり、クイーンのご
自宅用に造花やドライフラワーのアレンジメントを何度かお作りした。


Taipiri Mountain には、忘れられない思い出がある。
あれから13年もたった。13年前の今頃、9月のはじめ、ラッパ水仙、桜が咲き
やっと春が来たんだと浮かれた気分でいた。
そこに突然の訃報。私のボスの娘が自殺したという。当時、ボスの娘は12歳。
うちの娘と同い年であった。
自宅の納屋で父親の猟銃で、自らの命をたったのだ。忙しい両親に代わって、
弟たちの面倒をよく見、勉強のよくできるボス自慢の娘だった。ボスは“日本
語で一番の成績をとったのよ”と喜んでいた。
誰もなぜ彼女が自殺したのか、理解できなかった。“なぜ、なぜ”と繰り返して
も、誰も答えが得られない。
彼女の後を追うように、わずか数千人の小さな町でコピーキャット自殺がはや
った。
その年だけでも、3人のティーンエイジャーが同じ町で自殺した。
どうしてと、親達の疑問、悲しみは深まるばかりであった。

私は、ボスの娘の葬式の花を頼まれた。
12歳の可憐な少女にふさわしく、かわいいアレンジにしてほしいと。
真っ赤なチューリップ、アネモネ、スウィートピー、とマラエにいっべんに春
が訪れたようだった。

娘は、マオリクイーンが眠るのと同じTaipiri Mountain に埋葬された。
ボスの祖先はマオリクイーンと親戚にあたり、Tainuiの高貴な血筋である。

丘の中腹に墓穴が掘られたいた。家族、親戚、友人たちが回りに集まる。
力持ちの男達が、チューリップの載ったやや小さめの娘の棺を、墓穴にゆっく
り下ろしていく。その日は打ってかわって、ワイカト川から冷たい風が吹き上
げていた。
満開の赤いチューリップが風になびいていた。
底に下ろされた棺おけは、春の花におおわれている。参列の人々が一本ずつ花
を投げ込み、娘に最後のお別れの挨拶をする。
そのそばで、私のボスは四つんばいになって、墓穴のふちにしがみつき泣いて
いた。
子供のように、大声で、あたりかまわず、時には吐くように泣いていた。
マオリの女性は、全身の悲しみをおしだすように体全体で泣く。

私は、Taipiri Mountain の脇を通るたび、あの日のことが忘れられない。
マオリクイーンの死も、10万人の弔問客に、ニュージーランド中の人々の悲し
みをさそった。
だか、部族の未来ともいえる娘の死は、悔やまれてならない。
これをマオリの現在の社会問題とひとつとは、捉えられない。
マオリと現代の社会の価値観のギャップ、このような自殺の犠牲者を説明すれ
ばいいのだろうか。

同い年のわが娘は25歳になる。思いやりのある社会人に育ってくれたこと、当
たり前の子供の成長に感謝している。

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その26 オーケストラ体験記 08-08-06

2007-08-15 09:49:03 | 第21-30回
その26 オーケストラ体験記

今月もコンサートの話題です。

たらたらとマイペースの自営業を営んでいるのですが、どうも来年3月まで
仕事の日程から海外に遊びに行けないということが最近わかりました。
とたんに仕事が退屈で、気晴らししたい病が始まりました。
地球の果て、ニュージーランドから一年以上も出れないとわかると窒息しそう
な気分です。
そこで、またコンサートに行ってきました。

先週、朝のワイドショウを見てたら、バス・バリトン歌手Jonathan Lemaluが
出てました。
里帰り講演で、8月5日タウンホールでNew Zealand Symphony Orchestraとマ
ーラーを歌うということです。
前々から彼のことは気になっていたので、早速チケットを買いました。
どっかその辺で、フリーマーケットとかで出会いそうな親しみ易さ、でも
今やニュージーランドを代表する若手オペラ歌手の歌を一度は聴いてみたいな
と思ってました。

コンサート当日の朝、一緒に行く筈だった友人から電話。
朝から何度かもどし、熱もあり、とてもコンサートにはいけないとの事。
私は1週間前からこのコンサートだけを楽しみに頑張ってきたので、なんとし
ても一緒に行く人を見つけなければなりません
困った私は、心あたりの友人に片っ端から電話しました。
しかしながら、後数時間後のコンサートに行ける友人はなかなかいません。
結局、花のサークルの友人のベルが一緒に行ってくれることになりました。
ベルは数年前のご主人を亡くし一人暮らしです。クラッシックファンで、この
急な私のリクエストに快く答えてくれました。

雨の中、7時にベルをピックアップ、パーキングのあるAotea Centreに7時
15分に到着しました。
ところが、すぐそばのQueen Stの信号から駐車場の入り口まで停滞が始まって
ます。
駐車場に空きがでなけれは、バーが下がったままで入っていけません。30分
かかって地下3階のパーキングに車を停めて、Town Hallに着いたのは開演1
0分前でした。

Town Hallは、オークランダーにはポピュラーな会場でアットホームな感じが
私は好きです。
すでにラウンジは込み合っていて、バーのあたりは友人との会話をワインや
ビールを片手に楽しむ人だかりがしてます。

Auckland Town Hallはバロック風の美しい建物です。大ホールの正面にはパイ
プオルガンがあります。
パイプオルガンをバックにオーケストラが並び、上からライトアップされると
いい雰囲気です。タイムトリップした気分になります。
日本の都市にある、無地質なバックグラウンドのステージとは赴きが違います。
ここはコンサートばかりではなく、オークランド大学の卒業式会場としても使
われ、Queen streetの真ん中の位置していて、そのクロックタワーとともにオ
ークランド市民に親しまれています。

コンサートのあった大ホールは、周りをぐるりとバルコニーに取り囲まれてい
ます。真正面は3階までバルコニーがあります。
バルコニーの飾り、天井の施されたレリーフは1907年当初の形をとどめて
います。パイプオルガンも1910年当時からあるそうです。
隣にあるAotea Centre のホールよりも、ここのほうが音響がいいと言われて
います。
インテリア、音響効果と共にまさにクラッシックコンサート向きであると言
えるでしょう。


最初はトロンポーンのDavid Bremner。
Davidのために、Gareth Farrが作曲したコンチェルトでした。
二人はニュージーランドオーケストラを通じて友人で、長年の付き合いから
Davidの音楽的資質を理解し上で、彼のためのソロ曲を作曲したそうです。
この曲の初めてのお披露目とあって、演奏の後しばらく拍手が鳴り止みません
でした。私は、トロンボーンというとブラスバンドか、というくらいの発想し
かなく、トロンボーンのオーケストラとの演奏は初めて聴き、大変興味深かっ
たです。

次の出演したサモア人のバス・バリトンJonathan Lemaluは、南島Otagoの出
身で30歳です。
オタゴ大学法学部時代に歌手として見出され、当初彼の両親は反対であったら
しいのですが、オペラ歌手に転向します。
Jonathan は教会の合唱団、高校時代にカルテットでつちかった音楽経験、それ
になんといっても深くてかつ明るい美声の持ち主で、すぐに頭角をあらわし、
現在はニューヨーク、メトロポリタン楽団の日本公演、ロンドンでのオペラな
どと世界的に活躍しています。
彼は、アイランダーらしい暖かい思いやりがあり、とてもチャーミングです。

Jonathanは、Gustav Mahler(マーラー) のSongs from Des Knoben Wunderhorn
(少年の魔法の笛)をオーケストラをバックに歌いました。
ソプラノやテナーの声だと、どちらかというとオーケストラは伴奏あるいは違
った高さに感じられます。ところが、Jonathanのバス・バリトンは、ある時は
オーケストラと一体になって響き、独特な重厚な雰囲気を醸し出していました。
この曲の元はドイツで歌いつかれていた民間の詩を、マーラーが歌曲とした作
曲したものです。
昔の民間の風習や出来事を歌っているところは、日本の地方の歌い継がれて
いる子守唄に近いかなと思いました。
少年の悲しい思いや、残酷な仕打ちを受けた様が歌われている箇所を、Jonathan
は時には深く、時には感情を込めてろうろうと歌い上げ、みごとに表現してい
ました。
演奏の後は、割れんばかりの拍手、拍手だけではこの感激は伝え切れないとば
かりに、床をどんどん足で踏みたたき会場は騒然としました。
指揮者、Jonathanも何度も会場に出てきて、オーケストラも全員立ち上がり観
客に答えます。


スイス生まれの指揮者、Matthias Bamertの率いるNew Zealand Symphony
Orchestraは、現在ニュージーランドで一番充実した楽団だと言われています。
弦楽器のまとまりがとてもよく、マーラーの壮大な曲をうまくこなしていまし
た。音の小さいところから大きなところでのうねるような波の盛り上がり、切
れのよさ、これはやはりコンサート会場でしか味わえない醍醐味ですね。


インターバルの間、外へ出ると、またしもバーとアイスクリームショップは大
混雑。
こちらの人は大人や年寄りでも、年中アイスクリーム食べます。老夫婦が
Tiptopのアイスバーをほうばっている様子はなんともほほえましい。

プログラムの終了後、指揮者のMatthias Bamertが出てきて、団員の一人がこ
の公演を最後後に楽団を去ることを話しました。
その団員は31年間、オーケストラに所属していたそうです。演奏者としての
みならず、毎年、マネジメントと団員の給与、待遇のナゴチエーションをこなし、
大いに貢献してくれたと労をねぎらいました。
Matthiasは自分のもらった花束も、その団員に渡し、彼は自分のもらった分と
二つの花束をかかえ大変感動した様子でした。

一緒に行ったベルはNew Zealand Symphony Orchestraの会員だそうです。
会員になると、年間の優待券が貰えるそうです。
オーケストラのFriendsとしての演奏会のサポートもするそうです。
コンサートの差し入れを会員が交代でするそうで、彼女が当番だった時、バス
ケットいっぱいにサンドイッチを作って持って行ったそうです。
ソロ歌手の部屋にも、フルーツやコーヒーのポットを添えて、持っていったそ
うです。他の外国では、このような習慣がないらしく、その日の出演歌手に大
変感謝されたそうです。
ベルはその時、差し入れは初めてだったので友人にちゃんと食べてくれるかな
と聞いたそうです。友人曰く、” Don’t worry. They are hungry people.”
そう、ベルの心配をよそにバスケットは空っぽだったそうですよ。
リハーサル等のため早くから会場入りするし、晩御飯スキップしてくる人も多
いのでしょうね。


今回大変不快だったのは、観客の咳です。たちの悪い風邪がはやっているよ
うで、曲間の一斉のがまんしきれないと言う風の咳の合唱。
演奏中もずっと咳をしている人がいて、なんとも耳障りでした。
他の観客のためにも風邪引きさんは、おうちで留守番しててよ、と言いたいく
らいでした。


土曜の夜は、本当に音楽好きの人達、長年の支持者達がオーケストラを支え、
一緒に楽しむと言う雰囲気のコンサートに大いに満足しました。
ここ2,3日は、運転中もJonathan LemaluのCDを聞いて、心豊かに過ごせそ
うです。

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