フェンネル氏の奇妙な生活

気付いた世界の中の小さな出来事と水彩画と時たま油絵と思いついたことを爺さんが一人語りいたします。

hotaru

2014-05-31 08:00:28 | Weblog
あの川に蛍は帰ってきたんだろうか。地元の人が大切に育てていた蛍の幼虫をどこかのマンション業者に頼まれたかどうか根こそぎ盗って行かれた川。去年は1っ匹も飛んでなかった。一昨年前だったっけ。忘れた。でもあれから蛍保護条例ができてもう盗られなくなってるんだが。つまり盗ると罰則を受けるということだ。子供が1匹2匹取るのはお目こぼしだったっけ。忘れた。それもダメだったのかな。昨今バカな親が多いからダメといっとけば解釈条例にはならないだろ。あの川に蛍は戻ってきたのかな。この季節になるとふとそんなことが気になってしまう。今晩でも見に行ってみるかな。
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どくだみ茶を飲んだら

2014-05-30 07:47:51 | Weblog
もう茶色になってしまった去年のどくだみ茶。飲めるだろうと淹れてみた。香りは今年のものより強くはないが乾燥には年季がはいっているのでよりよく茶がでる。飲んでみる。美味。昼飯に、夕飯後にと味わった。そしたらその晩、寝てたら夜中に尿意で目覚めた。話には聞いていたけど夜中に尿意をもよおして起きるということはなかったから「いよいよ老化だ」と一人得心した。やれやれとブツブツ。バジルに言うと「あっ、どくだみ茶飲んだからよ」とのこと。どくだみ茶には利尿作用があるんだ。むくみを取ったりする民間療法で使うからね。とのこと。ああそうなのか。老化ではなかったのか。と気を取り直して一歩あるくと腰が痛い。やっぱり年か。
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格調

2014-05-29 08:27:26 | Weblog
格調と言う言葉はもう死語となってしまったのか。話し言葉と書き言葉は歴然とした区別があったはずなのに話し言葉で書かれた文章や詩があまりにも多い。それが分かりやすいとちやほやとマスコミでもてはやされている。舞台裏は見せないというのが暗黙のルールだったのに舞台裏だけで構成されるテレビ番組。権威主義でなくなったのはいいことだけど番組に割り込んで緊急地震報道みたいにAKBの誰それが今日退院しましたというNHK。なんかどこか違和感がある。昔は権威主義で芸能ニュースはしないと決めていたNHK。権威主義が崩れたのはいいんだがAKBが緊急を要するニュースなんだろうか。履き違えの感がいなめない。もはや思考がハンリュウなんだろうか。格調高い憲法の言葉を平易に平易に国民を馬鹿にしてるのかと思うくらいボードを使ったまで集団的自衛権について説明してた安倍ちゃん。とどのつまりあまりにも軽くなりすぎて隠しておきたかった「自衛隊をアメリカ軍の盾とするために集団的自衛権の行使を」と言ってしまった。そりゃぁ都合よく解釈しすぎだろう。格調高くこの件を考えたら解釈変更では出来ないということがわかるはずなのに。彼らもまたハンリュウなのかな。まず、獅子身中の虫を取り除くことからはじめてもらいたいな。セドリックビラーニの「定理がうまれる」でも読んで難解な言葉がもたらす効用をもう一度わかるべきだ。単細胞ナ言葉でなく複雑な言葉を駆使できる国の民なのだから。
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なんという活力

2014-05-28 07:48:09 | Weblog
ガストンレビュファがこの本を書いたのが30代だろうから当たり前と言えば当たり前だが「今朝のように、昨日のように、一昨日のように、私達の体内では活気が沸騰している」活気、生命のこの饗宴よ!
でこの本は終わっている。これは山に登る人には共通の理解できる意識だと思う。今は昔となったけれどこれを読むと活力の錯覚があって気力が充実してくる。もちろんもうロッククライミングはできないけどなんだかやった気分ですがすがしい。かすかにのこっているザイルの感触を思い起こして「俺たちは死にぞこないでも冒険家でもない」と言ったレビュファの言葉を聞く。「私達は自分の人生とガイドという職業を愛しているのだ」そうだよな。好きなことそれを仕事にするのが一番いいんだよ。だけど人生って好きなことをやるように戻ってくるんじゃないかな。そのとき本来の活力を漲らせるんじゃないかな。まぁ、遅いか早いかの違いで。早い人は憧れが強かったんだろうね。いてもたってもいられないくらい・・・・。
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Gaston

2014-05-27 07:42:36 | Weblog
図書館の書庫からガストンレビュファの「星と嵐」を出してもらって読んでいる。1955年にでた訳本であるがアルプスの6つの北壁を登った記録である。書店は売るために「六つの北壁」というタイトルにしたかったそうだがレビュファが単なる記録の物語にしたくなかったで「星と嵐」というタイトルに決めたそうだ。1955年といえば自分の幼少期。そのときに出た本の漢字がやや昔の漢字で読みづらい。長野まゆみのように美的感覚で用いているのではなくごく当たり前というか日常でさらっと用いられているのだが書けといわれたら書けない。複雑な漢字。かろうじてまだ読めるのだがこれが不思議と想像力を駆り立てる。1955年だから明治ほど厳しくはないけど確実に僕は文字を失っている。それとともに情感も哲学も。レビュファが感じたことを100%吸い上げられない。当時の若者が100%吸い上げたことを僕にはできないのだろう。と思いながら読んでいる。僕は登ったとか制服したとかの達成感は問題ではなくレビュファがビバークしながら考えたことや感じたこと。岩にぶら下がりながら見上げた空や突然感じた風を共有したいからもちろん想像だけどその言葉の言外の意味を理解しなければ何の価値も見出せないのだ。とブツブツ。「望ましからざるコンディションと」と表現されるのと「調子がイマイチで」と訳される間にはアカデミックの大きな差があるでしょう。それが言葉のというか日本語の価値なんだよね。何でもかんでもデジタル化して簡単にすればいいというもんじゃないと「星と嵐」は教えてくれる。冒険家のバイブルと言われていた本だから当時の冒険家は言外の意味を感じていたんだろうな。
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enjoy Indonesia

2014-05-26 07:55:21 | Weblog
アメリアが実行委員長をやってるからとバジルを誘ってカルポートに行ってきた。バリの踊りや西ジャワの踊りを見せてもらってまるでインドネシアに言った気分。


スタッフのインドネシア人の日本語は上手くて日本語が世界の言葉の発生かと思った。会場ではインドネシアの食べ物と雑貨も売られていて僕は料理をするのでケチャというインドネシアの醤油みたいなものと有名なサンバルソースの小瓶を買った。名前は忘れたけどコロッケ見たいな揚げ物も買った。ナシゴレンも売ってたな。揚げ物は意外といってはなんだけど「薄味」で旨いんだ。クセになりそう。コーヒーも売ってて人気があった。「コピ」「コピ」といって忙しくスタッフがしてるのを見てそういえば「コピルアック」の本場だったなと思った。「コピ」というのはインドネシア語で「コーヒー」のことだ。「エナック」がおいしいで「バンガス」が「いいね」だ。高知の小学生がインドネシアの民族楽器「アンクルン」を演奏してくれてこんな交流を小学時代に経験するのはいいことだと思った。「ノーナマニシアパヤンプーナ」って歌声が耳に残っている。「可愛いあの娘は誰のもの」という日本語訳の唄だ。日本訳では「いえあの娘は独り者」というけどインドネシア語では「キタサマン」で「いえあの娘はみんなの者」との違いが文化の違いかな。しかし南国の陽気さは土佐人向きかな。最後にみんなで踊った「サジョジョ」踊りなんか

まさに高知そのものだった。ここでもアメリアが一番踊りが上手かった。普段、ぼーっとした印象なんだけど意外とアスリートなんだぜ。
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頂上の景色

2014-05-25 07:38:17 | Weblog
どんなに簡単な山でも頂上からの景色は格別なものだ。と思いながらこの前登った白髪山の頂上の絵を描いた。みんながそれぞれの思いで口々に山の素晴らしさを言ってたかと思うとめいめい勝手に自分の用事をやっている。

「ワーぁやっと着いた」と完全イガンちゃん。「フーゥ疲れた」とイガンくん。「あれが剣か」とがむしゃらクン。「みんなぁ見て見て」とアンティーク。「水が漏れて」とシェルパくん。そんな話し声がいまにも聞こえてきそうだね。遮るものがなく360度のパノラマ。風は少し強かったけど「人生の大いなる喜び」を感じる時でも合ったんだオレタチには。ナンだろうね山の絵を描くのは楽しくてたまらない。登るのはもっと好きだけど。
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senang sekali Indonesia

2014-05-24 09:13:26 | Weblog
見たことがある顔が今朝の新聞に載ってた。「アメリアじゃないか」とその顔を懐かしんだ。アメリアはスラバヤから5年前に来た国際交流員で無料で僕らにインドネシア語を教えてくれた。ぜんぜんできる生徒じゃなかったけど初級中級と講座を受け持ってくれて優しく分かるように教えてくれた。もうすっかり忘れてはいるけどアメリアの顔みたら単語がなぜかポロポロと出てきて習ったんだなと思った。そのアメリアが明日カルポートで「インドネシアを楽しもう」というイベントを午後3時から午後5時まで開くと言う。踊りと演奏と飲み物食べ物小物雑貨などインドネシアの文化交流だそうだ。入場は無料でバリ舞踊、サジョジョ踊り、アンクルン、マンゴージュースにタピオカ粉のお菓子。きいてるだけでも「インドネシア」だね。明日はアメリアに会いに行こう。
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点と面積

2014-05-23 07:02:16 | Weblog
点は面積を持たない。線は点の集合である。これも面積を持たない。線の集合は面であるこれは面積を持つ。平面の上に絵を描く。面積の上に面積を持たない「点と線」で絵を描く。絵は面積を持っているのか。「幻影と実在の違い」これは情報量の差ということだそうだ。点と線の間には情報量の差はないが線と面との間には情報量の差は歴然とある。不思議な気がする。その不思議を操って絵を描く。「絵を描く」とはこういうことだったのかと絵の入り口に立った気分になる。「デッサンとは絵筆を伴った哲学だ」とは誰の言葉だったっけ。「点は天になるか。線は泉になるか」紙と絵筆の間に「天と地」があり「点と線」がある。
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地下水海洋放出

2014-05-22 09:12:05 | Weblog
フクシマ原発で汚染地下水の海洋排出がはじまった。盗電が決めた安全基準に見合ったものというから笑っちまう。これに責任を取らず「完全にコントロールされている」とのたまったボンが漁協を説得して海洋排出をきめたというから「原発棄民」という言葉がアタマをよぎった。国はフクシマを捨ててしまったのはあきらかであったけど海を汚染拡大して日本を棄ててしまうのだろうか。黒潮と親潮がぶつかってシャッフルされる福島沖だから汚染値はさがって彼らの基準ではOKなんだろうけど水溶性の汚染物質ストロンチウム90はあるとき底魚から高い濃度で発見されたということにならないだろうか。もうフクシマを棄てている国は「風評被害だ」と一蹴してしまい被害の過小評価で「完全にコントロールでおもてなし」と言うのだろう。しかし海洋は世界と繋がっているから中国の常識のようなウソをついても収拾はできない。このところ安倍ちゃんの言動を見ていると「安倍ヒットラー」みたいに見えて来てたけどアメリカでもそうなんだね。「アジアで一番危険な男」として「解釈憲法」の件で大手新聞を賑わかしていたね。原発を推進して事故があってもその責任をとらないとらせない党の代表だからさもありなんか。しかし世界では通用しない。損得だけではない国もあるのだから。海洋は問題だと思うよ。地下水汚染を防ぐ手当てをするということを真面目に考えないでなんで安易な方法ばかりというか経費を節約することばかり考えるんだろう。税金と電気代で莫大な利益を上げている盗電なのになぜ裏金ばかり貯めこんで汚染防止に金をかけないんだろう。漁民に譲歩を迫るなんて本末転倒だろう。一部のグレーオヤジがこの国を破壊するのを黙ってみていないといけないのかな。力のない日本人は。
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