私達はみんな生きていました!
時間軸は前後ではなく、
確実に縦に・・・、上下に伸びているのを感じます。
「明窓出版」麻生さん。
「明窓出版」小国さん。
「明窓出版」のこの御二方が、私を28年ぶりにこのバリ・プリアタンの地に運んでくれました、心より感謝致します。
この28年前の出来事の終わりは、けっしてハッピーエンドではありません。
それは、意識的にも・無意識的にも、
参加した全ての者が命を懸けて挑んだ1982年「インドネシア舞踏キャラバン」でした!
2か月を要して辿り着いた、このバリ・プリアタン「マンダラハウス」でのワークショップ公演!
私達は運命の踏み絵を、神々からの大いなるお試しをかせられていました。
ここでの公演ではたぶん・異文化交流としては当時の「白虎社」が望んだ最大のスパークリングが起きていました。
公演が始まり中盤を迎えた頃、雨が降って来ました。
当時のバリでは、この時期・12月の雨季が始まる最初の雨に打たれると病気をするという迷信があり、ガムランのグループ達はさっさと演奏を止めて片づけ始めました。
でも・「白虎社」のダンサー達はバリ・レゴンの子供たちを担ぎながらパフォーマンスを続けようとしたのです。
音が途絶えては流石にパフォーマンスを続ける事は無理でした。
「止めよう!」
Mr.チョコアリは言いました!
私もその後、隣村のドイツ人からお借りしたアップライトピアノが雨に濡れてどうなったかは今は記憶にはありません。
私達はその公演を終えたその後、数々の試練を受ける事に。
このツアーに参加した全ての者が、ここに集結して一気に散る事になります。
これを機に、ダンサー達主要メンバーが「白虎社」を離脱しスタッフも入れ替り、
私はと言えば、それから10年近く全世界ワールドツアーに音楽監修:作曲・演奏で参加する事に。
これも今から思えば、命をかけて「癒しの音楽」を学ぶ為の神の導きであったのかもしれません。いくらお金を払っても出来ない様な貴重な体験をさせてもらいました。
この一件でブラックマジシャンンの呪いを受けているという噂が私達の間で広まりました。
身体の不調を訴えてデンパサールの病院で手術を受ける「白虎社」のメンバー。野犬に襲われてバイク転倒して骨折する撮影班。仲間割れをし先に帰国する音響スタッフ。そして仲間割れするダンサー達と、数々の試練が私達を襲い始めました。
28年前、40名近くの集団でインドネシアに上陸して、2か月のジャワ・バリ滞在を経てようやく最後の日本便に搭乗できたのは、
たった7名のスタッフでした。
私達全ての者がブラックマジシャンの呪いにかけられていました。
日本に着いて横浜の中華街での久々の食事をした時、
目前のテレビで、学校の屋上から手をツナイデ飛び降りた子供達のニュースが流れました。私達は不覚にも・それを観て笑ってしました。日本でずっと暮らしていてそれを観ていたなら、それはありえない事でした。
私達がこの2ヶ月間インドネシアで体験した事が、極度のインドネシア体験のカルチャーショックから私達の人格を壊していました。私達皆がそのカルチャーショックの落差に鬱に襲われていたと思います。
私も帰国して、目の当りのする横断歩道で赤信号で止まる人や歩道を何者かに操られる様にして一方向に歩く人達を観て、衝撃を受けていました。
最後の7人が東京に辿り着いた時、航空会社のミスでメンバーの一人の荷物がトランジットと間違われてアメリカに行ってしまいました。
帰国後しばらくしてその彼女が亡くなりました。
私もスタッフの中では一番仲のいい仲間のひとりで、やはりこのツアー体験が大きな原因のひとつでした。
亡くなる直前に渡されたカセットテープ。
このメロディーの曲をアレンジしてと言われて受け取っていたのですが、それを私が聴く事もなく彼女は逝ってしまいました。
ずっと封印されたそのテープを聴く事はありませんでしたが、それから随分経って聴いたそのテープには、何も入ってませんでした。
私もバリから帰国してから一年間の引き籠りに入ります。
その後日本での長い引き籠りを経て、航路で送られて来たインドネシアのガムランの楽器を使い、
この東南アジア体験を元に、私が生まれた東アジアと西洋クラシックを融合したオリエンタルな異国情緒たっぷりの無国籍サウンドを日本で展開する事を決心します。ドヴュッシーの西洋クラシック音楽印象派にはとても及びませんが、
それが「mar-pa」でした。