狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

美女撫子(ビジョナデシコ)その7。

2020年06月16日 23時48分23秒 | お花に関する日記
 本日6月16日は、第一次世界大戦のドイツの賠償についてのローザンヌ会議が開幕して事実上の賠償金支払い停止が決定された日で、「離婚法」を制定してカトリック教会と対立したアルゼンチンのフアン・ペロン大統領の集会に海軍機が爆弾を投下した日で、ハンガリー動乱時にソ連侵攻に抵抗したハンガリーの元首相ナジ・イムレらがKGBの秘密裁判により処刑された日で、ソ連のバレエダンサー・ルドルフ・ヌレエフが海外公演中にパリのル・ブルジェ空港で亡命した日で、ドイツ赤軍の創設者の1人・ウルリケ・マインホフが逮捕された日で、南アフリカのソウェトで黒人学生のデモが暴動に発展した日です。

 本日も倉敷は晴れてていましたよ。
 最高気温は二十九度。最低気温は二十一度でありました。
 明日も予報では倉敷は晴れとなっております。





 上の写真に写っているお花は、「美女撫子(ビジョナデシコ)」です。
 美女撫子のお花に関しては、2019年5月15日の記事2018年5月14日の記事2017年5月14日の記事2016年5月28日の記事2015年5月25日の記事2009年5月12日の記事もよろしかったらご覧くださいませ。
 2019年と2018年と2017年と2016年と2015年と2009年の美女撫子のお花の記事です。

 美女撫子のお花の花言葉は、「あなたは完璧」ですよ。



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天使にも似た悪魔ほど人を迷わすものはない。

2020年06月16日 22時33分13秒 | その他の日記
 以下の文は、朝日新聞の社説『東京五輪の年に 旗を振る、って何だろう』の転載であります。

 『あなたはこれまで旗を振ったことがあるだろうか。
  運動会の応援やスポーツ観戦、あるいはイベントやデモに参加したとき……。
  いったい旗とは何か。
  米国では、星条旗をこう表現するそうだ。「あなたの信じるすべてのものになりうるだろう」
  今年は東京五輪が開かれる年である。
  多くの人が多くの旗を掲げる機会がありそうだ。
  メダルを胸に旗を誇らしげに見上げる人もいるに違いない。
  そんな年の始まりに、少しだけ考えてみたい。
  そもそも人はなぜ、旗を手にするのか。
     *
  人類に代わって「猿」が支配する世界を描いたSF映画「続・猿の惑星」(1970年)には、2種類の旗が登場する。
  ゴリラの兵たちが行軍で掲げるピンクと黒の旗と、平和デモをするチンパンジーたちが手にしていた白い旗だ。
  ゴリラの将軍は叫ぶ。
  「我々軍人の聖なる義務は武力でかの地を占領し、我々の旗を掲げることだ」
  もちろん現実には「猿」や動物が旗を掲げるようなことはない。
  それは人間だけの特別な行為なのだから。
  人はいつから旗を使い始めたのか。
  諸説あるようだが、紀元前11世紀ごろの中国、周の時代が始まりとも言われる。
  最古とされる旗は白色で、やはり軍を動かす際に使われたらしい。
  起源がどうあれ、旗は集団のシンボルとされてきた。
  近年では、宗主国の権威の象徴として植民地支配に利用され、それに対抗する動きにも使われた。
  モザンビークの国旗には自動小銃カラシニコフが描かれている。
  独立闘争をたたえ、「あらゆる手段で国を守る」との決意の表れだという。
  集団の歴史が込められた旗は団結のパワーとなり、その掲揚が巨大な興奮を与えてきた。
     *
  一方で、見る人が代われば、それは激しい憎悪の対象にもなりうる。
  例えば2001年の米同時多発テロの直後、自由の象徴として米国各地にあふれた星条旗。
  その同じ旗が、米軍の攻撃で多くの市民が死傷したアフガニスタンなどでは暴力と理不尽さのシンボルとされた。
  特定の集団への憎しみが高まれば、旗は集団の代わりに辱められ、燃やされる。
  米国では1980年代、星条旗を焼いた男性が逮捕されたが、最高裁で無罪になった。
  判決は、この男性の行動も、憲法が定める「言論の自由」にあたるとした。
  「私は自由を大切に思う。旗を燃やす自由でさえ、その権利を誇りに思う」。いまは亡き米歌手のジョニー・キャッシュは、ヒット曲「みすぼらしい星条旗」を歌う際、そう観客に語りかけたそうだ。
  「日の丸」に対しても、複雑な感情を抱く人々がいる。
  戦後75年が過ぎても、そうした人々から見れば、日の丸を掲げる行為そのものが、侵略戦争の暗い記憶を呼び起こすものにほかならない。
  東京五輪で旭日(きょくじつ)旗を振るのを禁止すべきだ――。
  最近、韓国の人々からは、そんな声も伝えられる。
  旭日旗は旧日本陸海軍の旗であり、いまも海上自衛隊の自衛艦旗である。
  日本政府は「(旭日旗が)政治的主張だとか軍国主義の象徴だという指摘は全く当たらない」と反発している。
  そう簡単に言い切れるものだろうか。
  昨年のラグビーW杯の観客席でも一部で旭日旗が振られた。
  わざわざ国際競技の場に持ち込む人の目的は何だろう。
  快く思わない人たちがいることがわかっている旗を意図的に振る行為に、「政治的主張」はないといえるのだろうか。
  旗がまとう背景や、使う人の意図によって旗は色々な意味を映す。
  受け止める人次第で見え方が正反対になることもある。
     *
  ニューヨークの国連本部に行くと、ずらりと並んだ国旗の列に圧倒される。
  地球上には何と多くの国家があるのかということを旗の存在が教えてくれる。
  国だけではない。
  多様な枠組みでの組織や集団、もっと言えば、様々な主張や考え方も旗は代表している。
  例えばレインボーフラッグに込められた意味は、平和や愛、性的少数者の権利保護など。
  英諜報(ちょうほう)機関MI6は近年、この旗を本部に掲げた。
  あらゆる人材を歓迎するとのメッセージと受け止められたそうだ。
  五輪で旗を掲揚するのも、分断や対立をあおる目的ではないはずだ。
  東京五輪での行動計画には「共生社会の実現をめざす」とある。
  国別対抗が注目されがちな五輪だが、他者を認める機会としても意識したい。
  なぜ、旗を掲げるのか。
  五輪を前に一人ひとりが立ち止まり、自由に考えてみるのはどうだろう。
  歴史を学ぶ、他者を尊重する、平和の尊さを発信する。
  旗の数だけ、それぞれの思いがあっていい』
                               転載終わり。




 つまり、朝日新聞は気に入らないと誰かが言い出すとそれを廃止しろと述べているということになります。
 そして、朝日新聞は歴史無視し他者を愚弄して平和を破壊する行為を推奨しているということになります。
 朝日新聞社は、このような意見は朝日新聞社の社旗を廃止し朝日新聞社の社名を変更してから述べるべきです。
 朝日新聞は、戦前の日本を戦争に導いたのですから。

 旗は自分達が属するものを鮮明にする為に存在します。
 船舶が旗を掲げずに航行することは海賊船と見做されて即座に攻撃を受ける可能性があります。
 自分達が属するものを鮮明にするということは意味があるのです。

 旗を無くせば、不意打ちの攻撃が容易に可能になります。
 世界中から旗が無くなればテロリスト達は大喜びすることでしょう。

 旭日旗に関しては、韓国の言い分は成り立ちません。
 単なる嫌がらせでありいちゃもん付けでしかありません。
 日本に対する侮蔑行為であり差別行為でしかありません。
 韓国の言い分を呑むのならば韓国政府はベトナムの言い分を呑んで韓国の国旗を廃止しなければならなくなります。
 朝日新聞の述べていることは筋が通りません。
 そして朝日新聞が述べていることは日本に対する侮蔑行為であり差別行為でしかありません。
 個人がどのように考えようがそれは自由です。
 しかし、公の場で日本に対する侮蔑行為や差別行為を繰り返す朝日新聞社の行動は異様です。
 そして韓国の言い分のみを正しいとする朝日新聞の数々の報道の姿勢は、異様で異常です。
 国旗を誹謗することは国籍差別行為でしかありません。
 どのような経緯があろうとも国旗を誹謗するということは、その国旗の国家を誹謗し侮蔑するということであり、差別行為でしかありません。

 物事を多面的に見ることはなく都合の悪いことは隠蔽し事実を捻じ曲げ歴史を改竄し続ける朝日新聞社は、報道機関ではなく、ある思想に基づいたプロパガンダ集団だと見做さざるをえません。
 このような集団が戦前に日本を戦争に導き、その責任を一切取らず知らん顔をし続け、そして戦後も同じ手法で事実を捻じ曲げ歴史を改竄し自分達の思想を押し付けてきて人々を扇動し続けているのです。

 繰り返しますが、個人でどのような考えを持っていても構いません。
 マスメディアが事実を無視し歴史を改竄して侮蔑行為や差別行為を繰り返していることが異常で異様だ。と私は思っているのでございます。


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『ヘイトフル・エイト』

2020年06月16日 13時55分26秒 | 映画・ドラマに関する日記
 昨日の夜は、映画『ヘイトフル・エイト』のDVDを観ていました。

 南北戦争終結から数年後のワイオミング州の山中。
 元北軍少佐で賞金稼ぎのマーキス・ウォーレンは、冬の山の中で立ち往生していた。
 通りかかった駅馬車に乗せてもらおうとするが、駅馬車の御者はこの駅馬車は貸し切りなので乗者に許可を取って欲しいと言う。
 乗っていたのは、賞金稼ぎのジョン・ルース。
 彼は賞金首を生きたまま引き渡す賞金稼ぎで、一万ドルの賞金首であるデイジー・ドメルグを連れていた……。

 監督は、クエンティン・タランティーノ。
 出演者は、サミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ジェニファー・ジェイソン・リー、ウォルトン・ゴギンズ、デミアン・ビチル、ティム・ロス、マイケル・マドセン、ブルース・ダーン、ジェームズ・パークス、デイナ・グーリエ、ゾーイ・ベル、リー・ホースリー、ジーン・ジョーンズ、キース・ジェファーソン、クレイグ・スターク、ベリンダ・オウィノ、チャニング・テイタム、クエンティン・タランティーノ、など。

 猛吹雪で家屋に閉じ込められた8人を描いた密室劇で西部劇です。



 猛吹雪をやり過ごす為に山中の「ミニーの紳士服飾店」でやり過ごそうとするのです。
 そこには先客がいるのです。
 「ミニーの紳士服飾店」に集まった人間は、胡散臭い人間ばかり……。

 誰も信用できないのです。
 観ている人は誰も感情移入できないのです。
 でも、緊迫感が凄くてぐいぐいと引き込まれるのです。

 罵り合いに続く罵り合い。
 自分を優位な立場にしようと駆け引きが繰り返し行われます。

 そして衝撃的なことがおこるのです。
 そこからさらに腹の探り合いや騙し合いが行われるのです。

 緊張感あふれる状況。そして身も蓋もない残酷な描写。
 でもって悪人達が繰り広げる騙し合い。
 何気ない会話が後になって効いてきます。

 面白かったですよ。
 お勧めです。

 ただ、残酷な表現が出てくるので苦手なお方は御注意されたし。



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如何なる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由を我に与えたまえ。

2020年06月16日 13時15分41秒 | その他の日記
 以下の文は、PRESIDENT Onlineの『「不快なポスターを許せない」保守化するリベラルの末路     自分で自分の首を締めている』と題した記事の転載であります。




          『「不快なポスターを許せない」保守化するリベラルの末路     自分で自分の首を締めている』


 昨年10月、マンガのキャラクターを起用した日本赤十字社のポスターに対し、「過度に性的だ」などの批判が寄せられた。
 文筆家の御田寺圭氏は「自分にとって許しがたいものも擁護するのがリベラリズムだったはずだ。これではリベラリズムが政治的に活力を取り戻すことは難しい」と指摘する――。

     「過度に性的」と批判された献血ポスター

 昨年10月、日本赤十字社が人気マンガ『宇崎ちゃんは遊びたい!』のキャラクターを用いたキャンペーンを行った。
 そのキャンペーンで作成されたポスターについて、一部の人びとから「過度に性的だ」などと批判を受ける騒動となった。
 同作品のキャンペーンは本年2月に第2弾が開始され、報道によれば、日本赤十字社は批判を受けてガイドラインを新たに策定したという。

      去年、日本赤十字社が胸の大きな女性の漫画キャラクターのポスターなどを作成して献血を募ったことに対し「過度に性的だ」といった批判が寄せられたことを受け、日本赤十字社は広告のガイドラインを策定したうえで、同じキャラクターを用いた新たなデザインの謝礼品を作り、今月から第2弾のキャンペーンを始めました。専門家は「広告が炎上すると、ただ謝罪して取り下げるケースが多かった中で、今回、批判を受け違う形を提示してきたことは問題解決の糸口となるのでは」と話しています。 
(NHK NEWS WEB「日赤「宇崎ちゃん」献血キャンペーン 謝礼品変更し第2弾開始」(2020年2月6日)より引用)

 第一弾を「性的だ」「セクハラだ」などときびしく批判していた人びとが、第二弾については「ガイドラインを遵守していて、内容がよくなった」と評価する向きも少なからずあったようだ。
 しかしながら、原作者のツイートによれば、ガイドラインの策定を受けて内容にレビューが入ったようなことはなく「批判を受けたので原作者が反省して表現を変更した」という筋書きではないようだ。

    「保守的な風紀委員」になったリベラリストたち

 今回のキャンペーンで、日本赤十字社に対して批判や非難の声を挙げた人びとの多くが、平時は人権――とりわけ女性の人権――を擁護する「リベラル」な人びとであったことはひじょうに興味深い。
 マンガやアニメのイラストレーションに反対したり苦言を呈したりするのは、ひと昔前なら「保守的な風紀委員的しぐさ」に過ぎなかったものであり、自由で先進的な立場をとる人びとがそれに抵抗してきたからだ。
 ところが、現在はまるで立場が逆転しているように見える。
 「リベラル」な人びとは、こうしたイラストレーションを「けしからん」「公共の場にふさわしくない」「差別だ、人権侵害だ」と言い募り、圧殺しようとしているのである。
 国や権力からの「社会の道徳や風紀を乱す」といった圧力に対して「表現の自由」を守ってきた人びとが、同じ論理を振りかざすようになるのは、じつに皮肉な光景のようにも思える。

    矛盾してきた「多様性」の主張

 現代社会のリベラリストたちは「多様性」「寛容」「包摂」を掲げているが、実際の女性が性的な格好をさせられているわけでもないようなイラスト一枚に対して、断固として許さないかのような態度は、それらのスローガンからは程遠いものだろう。
 実際のところ、リベラリストたちが現代社会で目指しているのは「だれもが自由にふるまうこと」ではなくて、まさに、「お前たちがこの社会に存在してよいのかどうかを決められるのはこっちだぞ」という「社会の規範を決定する権利の獲得」に他ならない。
 リベラリストが掲げる「多様性」「寛容」「包摂」についても、そのことを踏まえればけっして矛盾しない。
 すなわち――「私たちの設定する規範に従うかぎりにおいて、多様性は尊重されて社会に寛容に迎え入れられるが、規範に沿わないものや従わないものは包摂されない」と。
 「社会の規範」を、多数派の良識に基づいて振りかざし、少数者の表現や行動を抑圧してきたのは、元来としては保守的な人びとのふるまいだった。
 実際のところ、このやり方はきわめて強力であり、人びとの良識に基づいた共感を前にしては「不道徳」「不見識」とされたものが社会で居場所を獲得することは極めて困難だった。
 もっとも、そのためにリベラリストたちは「人権」を擁護してこの重要性を説き、どのような人であっても自由にふるまえる権利を主張してきたのだ。

    「世間の良識」を理由に嫌いなものを排除

 人びとの「素直な人情」にしたがってしまえば、けっして擁護されず、存在も認められないようなものにこそ人権があったことをリベラリストたちは熟知していた。
 だが、規範主義的な抑圧と対峙しているうちに、リベラリストたちも無自覚のうちに規範主義的な方法論を採用するようになってしまったのかもしれない。
 自分の考えや立場に相容れないものを、「社会的に望ましくない」などと「世間の良識」に置換して排除を正当化しようとするのは、「規範を決める権利」を簒奪した者たちのふるまいにほかならない。
 もはや現代社会のリベラリズムは「自由と人権の擁護者」ではなく、「リベラルな規範の伝道者」――いうなれば「ネオ・パターナリズム」とでも形容すべき代物となっている。

    自らの行いで「反リベラル」を生み出すエリートたち

 いま、世界のいたるところで「リベラル」が政治的な逆風に苦しんでいる理由を考えるとき、この現象は大きなヒントとなる。
 自分の都合に悪いタイプの自由を目にすると「それをやめよう」と、道徳保守的なふるまいを隠そうともしない。
 「自分たちこそが『リベラル』の有効範囲を決定できる」と、自身の優越性を信じてやまない。
 だが当の市民側には違和感が募る。
 自由や人権の重要性をつね日ごろから喧伝していたはずの人が、自分の嫌いなタイプの自由にはまったくその原則を覆すような言動をみせるのだから無理もない。
 「リベラル」なエリートたちに「自分たちの自由や権利を擁護してもらえなかった層」は、反リベラルになる。
 自分たちの権利を「後回し」にされた白人たち(必ずしも白人貧困層とはかぎらない)が、「白人のアイデンティティ(自由や権利)を守る」という文脈によって、トランプの支持者に合流するのもこの流れによって説明される。
 ある献血ポスターを見て「これはセクハラだ。女性の人権を侵害している」などと言ったとしても、「これも原則的にはリベラルが守れと主張する自由の範疇に含まれるのでは?」と応じられてしまう。
 こうなると「リベラル」なエリートたちはしばしば逆上する。
 そのような「反転可能性」による意趣返しを想定していないからだ。
 「お前は自由や人権のなんたるかもわかっていない。勉強不足だ。これは自由や人権にはあたらない。なぜなら~だからだ!」と、さまざまな理由を並べ立てる。

    「不快なもの」をも認めるのがリベラル社会ではないか

 「リベラル」な社会とは「私が快適かつ自由にふるまえること」ではなくて、相手もまた同じように勝手気ままにふるまってくることが含意されており、その際に生じる不快感や軋轢にも我慢することが要求される。
 「人権」とは「私が快適かつ自由にふるまえる権利」ではなくて、相手もまた同じように自由や権利が保障されるものであり、ときには自分にとっては許しがたい者の自由や権利をも擁護しなければならないものだ。
 近頃のリベラリズムの退潮には「私にとって快適なものにかぎって自由であり、また存在する権利がある(そうでないものはリベラルの範囲に当てはまらない)」とナチュラルに考えている知識人たちの驕り高ぶりが無関係ではないだろう。
 そのような「知的鈍感・知的傲慢」に気づかないほど、一般大衆は愚かではない。

    リベラリズムの「大衆化」がもたらした現実

 「リベラル」なエリートたちにとっては、自らの「リベラルな規範」に大衆が共感し従うことが理想で、それは実際のところしばらくの間はうまくいっているように見えた。
 しかし、リベラリズムが広く社会に浸透して「大衆化」した結果、とても自分には歓迎できないようなものまで「多様性」として包摂しなければならなくなってしまった。
 「私たちが築きあげてきたリベラリズムという理念は、お前たちの(低劣な)自由や権利を行使したり擁護したりするためにあるのではない」という本音を、とうとう隠し切れなくなってきているのだ。
 彼らの「ネオ・パターナリズム」は、おそらく、市井の生活者たちの表現や行動にも自分たちと同じレベルの自由と権利が付与される現実に耐えられなくなってきていることに由来しているのだろう。
 2017年に米国のカリフォルニア大学バークレー校で、右派メディア編集者の講演が学生の抗議デモにより中止になった事件があった。
 学生の一部は暴徒化し、放火をしたという(BBC「米カリフォルニア大学、右派メディア編集者の講演中止 抗議デモ受け」2017年2月2日)。
 性的なイラストの自由を認めなかったり、右派のメディア編集者の講演を暴力によって中止させたりするなど、リベラルな人びとが敵対者の言論の自由を認めまいとするような出来事は、同じ延長上の現象である。

    公正さを徹底しない限り、逆風は強くなる

 リベラリズムの本懐はその「公正さ」にある。
 世間の人びとから支持や共感が集まりやすいものではなく、むしろ市民社会においてはその存在を肯定されたり擁護されたりしにくいようなものにも等しく自由や権利があることを主張する一貫性こそが、リベラリズムを今日まで存続させた原動力であった。
 逆説的に思われるかもしれないが、リベラリズムが政治的に活力を取り戻すためには、敵に塩を送ることも辞さない、いわば「空気の読めない公正さ」が必要になる。
 世間の同情があつまるような存在に「より多くの権利や自由を」付与したくなるのは人情として当然ではあるだろうが、しかしそうすればするほど、かえってリベラリズムには「敵」が増え、逆風は強くなる。

                                 転載終わり。



 日本の左派系フェニミズム集団は、数々の表現物を破壊するだけでなく、実在する女性モデルに対して「女性性を売り物にしている」と言いがかりをつけて公の場で罵詈雑言を浴びせる狂気に満ちた集団に成り果てました。
 胸が大きいという理由で罵詈雑言を浴びたその女性モデルは、「縮胸手術を受けるべきだ」という恐ろしい主張を左派系フェミニズム集団から突きつけられ、口には出せないほどの下品な言葉で非難を浴びました。
 このような集団が支持している政党が政権を奪取すると、どのような社会が生まれるのか? 考えるだけでも恐ろしいです。
 全ての価値観は自分達が決めると述べている集団です。
 自分達が気に入らない価値観は全てぶち壊す集団です。
 この集団によって多くの表現物と多くのイベントが潰されてきました。
 この集団には弁護士や学者や文化人が居ます。
 大人の力―権力を使って抵抗できない弱者を徹底的に攻撃し他者の価値観を一切認めない集団が支持する政党が政権を奪取すると全体主義で自由の無い社会が生まれる可能性があります。
 このような集団が、大手を振って日本の社会で様々な表現物や表現者を破壊し続けているのです。
 とても怖いです。
 私のような人間は、このような集団が支持する政党が政権を奪取すると真っ先に抹殺されてしまう可能性があります。
 とても怖いです。



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