狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

「漫画とかゲームって暇潰しのものでは?」 「お前は食事や呼吸を『暇潰し』と呼ぶのか?」

2020年06月27日 22時54分31秒 | VSの日記
 本日6月27日は、来目皇子の病により新羅征討が中止となったとされる日で、鹿ケ谷の陰謀で藤原成親・俊寛らが流罪になった日で、伊藤博文・井上馨ら長州藩士5人が英国留学のため密出国した日で、箱館戦争終結して新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わった日で、ジョシュア・スローカムが史上初の単独世界一周を達成した日で、ロシアで戦艦ポチョムキンの水兵が蜂起した日で、中村大尉事件が起こった日で、韓国国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織・国民保導連盟の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを少なくとも20万人あまりを大量虐殺した保導連盟事件を起こした日で、ハリー・S・トルーマン米大統領が北朝鮮に宣戦布告して陸海軍に出動を命令した日で、北ベトナムからの第4次集団引揚げ船上海丸が元軍人5名を乗せてハイフォンより門司港へ入港して最後の集団引揚げが終焉した日で、長野県松本市でオウム真理教がサリンガスを散布して死者7人・重軽症者144人のテロ事件を起こした日です。

 本日の倉敷は曇りのち晴れでありましたよ。
 最高気温は二十九度。最低気温は二十二度でありました。
 明日は予報では倉敷は晴れとなっております。






 昭和か、平成か、兎に角遠い昔の事である。
 ヲタクの御教を奉ずるものは、その頃でももう見つかり次第火炙りや磔に遇わされていた。
 しかし迫害が烈しいだけに、ヲタクを統べる御主も、その頃は一層この国の宗徒にあらたかな御加護を加えられたらしい。
 秋葉原あたりの街々には時々日の暮の光と一緒に天使や聖徒の見舞う事があった。
 現にあの聖・手塚治虫でさえ一度などはヲタク達の聖堂に姿を現したと伝えられている。
 と同時に悪魔もまた宗徒の精進を妨げる為、或いは厳格な教師の姿となり、或いは舶来の草花となり、或いは網代の乗物となり、しばしば同じ聖堂に出没した。
 夜昼さえ分たぬ土の牢に、或るヲタクを苦しめた鼠も実は悪魔の変化だったそうである。
 そのヲタクは平成八年の秋、十一人の宗徒と火炙りになった。
 ――その昭和か、平成か、とにかく遠い昔である。

 或る田舎町に、おぎんと云う童子が住んでいた。
 おぎんの父母は京の都から、はるばるその田舎町へ流浪して来た。
 しかし、何もし出さない内に、おぎん一人を残したまま、二人とも故人になってしまった。
 勿論、彼等は、ヲタクの御教を知るはずはない。
 彼等の信じたのは基督教である。
 旧教か、新教か、希臘正教か、何にもせよ基督の教である。
 独逸のマンフレート・クレメントは、天性奸智に富んだ基督は以色列の各地を遊歴しながらヤハウェと称する神の道を説いた、と述べた。
 その後また日本の国へも、やはり同じ道を教えに来た。
 基督の説いた教によれば、我々人間の霊魂=アニマはヤハウェと称する神の判断次第で天界に行くか地の底に堕とされるかが決まるそうである。
 のみならず基督は羅馬に対する反逆を扇動したと云う。
 基督の教の荒誕なのは勿論、基督の大悪もまた明白である。と。

 しかしおぎんの母親は、前にもちょいと書いた通り、そのような話を知るはずはない。
 彼等は息を引きとった後も、基督の教を信じている。
 寂しい墓原の松の影に、末は「真のいんへるの」に堕ちるのも知らず、儚い天国を夢見ている。

 しかしおぎんは幸いにも、両親の無知に染まっていない。
 これはその田舎町居つきの農夫、憐れみの深いじょあん孫七は、とうにこの童子の額へ、ばぷちずもの御水を注いだ上、聖なるヲタクの二つ名を与えていた。
 おぎんは、「深く御柔軟、深く御哀憐、勝れて甘しくまします童女さんた・まりあ様」が、自然と身籠った事を信じていない。
 十字架に懸かり死し給い、石の御棺に納められ給い、大地の底に埋められた基督が、三日の後甦った事を信じていない。
 ただただヲタクの神を奉じている。
 御糺明の喇叭さえ響き渡れば、「ヲタクの御主、大いなる御威光、大いなる御威勢を以て天下り給い、土埃になりたる人々の色身を元の霊魂=アニマに併て甦し給い、善人も悪人も他者の趣味を蔑ろにしない限りは快楽の世界に連れ行く」事を知っている。
 殊に「御言葉の御聖徳により、麺麭と酒の色形は変らずと雖もその正体は御主の御血肉となり変る」尊いさがらめんとを信じている。
 おぎんの心は両親のやうに、熱風に吹かれた沙漠ではない。
 素朴な野薔薇の花を交えた、実りの豊かな麦畠である。
 おぎんは両親を失った後、ヲタクであるじょあん孫七の養子になった。
 孫七の妻、じょあんなおすみも、やはり心の優しい人である。
 おぎんはこの夫婦と一緒に、牛を追ったり麦を刈ったり、幸福にその日を送っていた。
 勿論そう云う暮しの中にも、町の人の目に立たない限りは本を読んだり漫画を読んだりゲームをしたりしてヲタクの活動を怠ったことはない。
 おぎんは井戸端の無花果の陰に、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心にゲームで遊びそして祷った。
 この童子の祷りは、こう云う簡単なものなのである。
 「憐みの御主。御身に御礼をなし奉る。流人となれる冤罪の子供。御身に叫びをなし奉る。哀れこの涙の谷に柔軟の御眼を巡らさせ給え。あんめい。」

 すると或る年のヲタクの聖なる夜。悪魔は何人かの役人と一緒に、突然孫七の家へ入って来た。
 孫七の家には沢山の本の山が積み重なっている。
 漫画本や映画やアニメのDVDが並んでいる。
 役人達は互に頷き合いながら、孫七夫婦に縄をかけた。
 おぎんも同時に括り上げられた。
 しかし彼等は三人とも、全然悪びれる気色はなかった。
 ヲタクの楽しみの為ならば、霊魂=アニマの助かりの為ならば、如何なる責苦も覚悟である。
 ヲタクの御主は必ず我等の為に、御加護を賜わるのに違いない。
 彼等は皆云い合せたように、こう確信していたのである。

 役人は彼等を縛いましめた後のち、代官の屋敷へ引き立てて行った。
 しかし、彼等はその途中も暗夜の風に吹かれながら各々好きな物語の話をはじめた。
 悪魔は彼等の捕われたのを見ると、手を拍って喜び笑った。
 しかし彼等の健気な様には、少からず腹を立てたらしい。
 悪魔は一人になった後、忌々しそうに唾をするが早いか、たちまち大きい石臼になった。
 そうしてごろごろ転がりながら闇の中に消え失せてしまった。
 じょあん孫七、じょあんなおすみ、おぎんの三人は、土の牢に投げこまれた上、ヲタクの御教を捨てるように、いろいろの責苦に遇わされた。
 しかし水責めや火責めに遇っても、彼等の決心は動かなかった。
 たとい皮肉は爛れるにしても、ヲタクの楽しみを捨て去ることはできない。
 趣味を他者によって批判されて無理矢理辞めさせられることなど許しはしない。

 のみならず尊いヲタクの天使や聖徒は、夢とも現ともつかない中に、しばしば彼等を慰めに来た。
 殊にそういう幸福は、一番おぎんに恵まれたらしい。
 おぎんは聖・手塚治虫が大きい両手の平に、蝗を沢山掬い上げながら、食えと云う所を見た事がある。
 また聖・水木しげるが美しい金色の杯に、水をくれる所を見た事もある。
 代官は、オタクの御教は勿論、釈迦の教も基督の教えも知らなかったから、なぜ彼等が剛情を張るのかさっぱり理解が出来なかった。
 時には三人が三人とも、気違いではないかと思う事もあった。
 しかし気違いでもない事が分かると、今度は大蛇か一角獣とか、とにかく人倫には縁のない動物のような気がし出した。
 そう云う動物を生かして置いては、今日の法律に違うばかりか、一国の安危にも関わる訣である。
 そこで代官は一月ばかり、土の牢に彼等を入れて置いた後、とうとう三人とも焼き殺す事にした。

 じょあん孫七を始め三人のオタク宗徒は、町はずれの刑場へ引かれる途中も、恐れる気色は見えなかった。
 刑場はちょうど墓原に隣った石ころの多い空き地である。
 彼等はそこへ到着すると、一々オタクである罪状を読み聞かされた後、太い角柱に括りつけられた。
 それから右にじょあんなおすみ、中央にじょあん孫七、左におぎんと云う順に、刑場のまん中へ押し立てられた。

 おすみは連日の責苦の為、急に年をとったように見える。
 孫七も髭の伸びた頬には、ほとんど血の気が通っていない。
 おぎんも――おぎんは二人に比くらべると、まだしも普段と変らなかった。
 が、彼等は三人とも、堆い薪を踏まえたまま、同じように静かな顔をしている。

 刑場のまわりにはずっと前から、大勢の見物が取り巻いている。
 そのまた見物の向うの空には、墓原の松が五六本、天蓋のように枝を張っている。

 一切の準備の終った時、役人の一人は物々しげに、三人の前へ進みよると、オタクの御教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もし御教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやると云った。
 しかし彼等は答えない。
 皆遠い空を見守ったまま、口元には微笑さえ湛えている。

 役人は勿論見物すら、この数分の間くらいひっそりとなったためしはない。
 無数の眼はじっと瞬きもせず、三人の顔に注がれている。
 が、これは傷しさの余り、誰も息を呑んだのではない。
 見物はたいてい火のかかるのを、今か今かと待っていたのである。
 役人はまた処刑の手間どるのに、すっかり退屈し切っていたから、話をする勇気も出なかったのである。

 すると突然一同の耳は、はっきりと意外な言葉を捉えた。
 「私は御教を捨てる事に致しました」
 声の主はおぎんである。
 見物は一度に騒ぎ立った。
 が、一度どよめいた後、たちまちまた静かになってしまった。
 それは孫七が悲しそうに、おぎんの方を振り向きながら、力のない声を出したからである。
 「おぎん! お前は悪魔に誑かされたのか? ただただ楽しんでいることを否定されただけで楽しむことを諦めたのか?」
 その言葉が終らない内に、おすみも遥かにおぎんの方へ一生懸命な声をかけた。
 「おぎん! おぎん! お前には悪魔がついたのだよ。祈っておくれ。祈っておくれ」
 しかしおぎんは返事をしない。
 ただ眼は大勢の見物の向うの天蓋のように枝を張った墓原の松を眺めている。
 その内にもう役人の一人は、おぎんの縄目を赦すように命じた。
 じょあん孫七はそれを見るなり、諦めたように眼を瞑った。
 「万事に適い給う御主。御計らいに任せ奉る」

 やっと縄を離れたおぎんは、茫然と暫く佇んでいた。
 しかし、孫七やおすみを見ると急にその前へ跪きながら、何も云わずに涙を流した。
 孫七はやはり眼を閉じている。
 おすみも顔を背けたまま、おぎんの方は見ようともしない。

 「御父様、御母様、如何か勘忍して下さいまし」
 おぎんはやっと口を開いた。
 「わたしは御教を捨てました。その訣はふと向うに見える天蓋のような松の梢に気のついた所為でございます。あの墓原の松の陰に眠っていらっしゃる御両親はオタクの御教も御存知なし。きっと今頃は真のいんへるのにお堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今私一人、快楽に耽る世界に入っては、どうしても申し訣がありません。私はやはり地獄の底へ御両親の跡を追って参りましょう。どうか御父様や御母様はオタクの神様の御側へお出なすって下さいまし。その代り御教を捨てた上は、私も生きては居られません。………」

 おぎんは切れ切れにそう云ってから、後は啜り泣きに沈んでしまった。
 すると今度はじょあんなおすみも、足に踏んだ薪の上へほろほろ涙を落し出した。
 これからオタクの天界へ入ろうとするのに、用もない歎きに耽っているのは勿論宗徒のすべき事ではない。
 じょあん孫七は、苦々しそうに隣の妻を振り返りながら、癇高い声に叱りつけた。
 「お前も悪魔に見入られたのか? オタクの御教を捨てたければ、勝手にお前だけ捨てるが好い。俺は一人でも焼け死んで見せるぞ」
 「いえ。私も御供を致します。けれどもそれは――それは」
 おすみは涙を呑みこんでから、半ば叫ぶように言葉を投げた。
 「けれどもそれはオタクの天界に参りたいからではございません。ただ貴方の、――貴方の御供を致すのでございます。」

 孫七は長い間、黙っていた。
 しかしその顔は蒼醒めたり、また血の色を漲らせたりした。
 と同時に汗の玉も、つぶつぶ顔に溜まり出した。
 孫七は今、心の眼に彼の霊魂=アニマを見ているのである。
 彼の霊魂=アニマを奪い合う天使と悪魔とを見ているのである。

 もしその時足元のおぎんが泣き伏した顔を挙げずにいたら、――いや、もうおぎんは顔を挙げた。
 しかも涙に溢れた眼には不思議な光を宿しながらぢっと彼を見守っている。
 この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。
 あらゆる人間の心である。
 「御父様! 真のいんへるのへ参りましょう。御母様も渡しも、あちらの御父様や御母様も、――みんな悪魔に攫われましょう」
 孫七はとうとう堕落した。


 この話は我国に多かったオタク達の受難の中でも、最も恥べき躓きとして後代に伝えられた物語である。

 何でも彼等が三人ながら御教を捨てるとなった時には、オタクの何たるかを弁えない見物の老若男女さえも尽く彼等を憎んだと云う。
 これは折角の火炙りも何も見損なった遺恨だったかも知れない。
 さらにまた伝うる所によれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物に化けながら、夜中、刑場に飛んでいたと云う。
 これもそう無性に喜ぶほど悪魔の成功だったかどうか、狐は甚だ懐疑的である。



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『鍵のない夢を見る』/辻村深月

2020年06月27日 16時56分20秒 | 小説・本に関する日記
 昨日の夜は、辻村深月の小説『鍵のない夢を見る』を読み返していました。
 「仁志野町の泥棒」と「石蕗南地区の放火」と「美弥谷団地の逃亡者」と「芹葉大学の夢と殺人」と「君本家の誘拐」の5編が収められている短編小説集です。

 事件に巻き込まれる或いは事件を起こしてしまう女性の心理を細やかに描いた短編小説集。
 お話はとても練られていてひねりが効いています。
 とても読みごたえがあった短編小説集でありましたよ。

 面白かったですよ。
 お勧めです。


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もし、あなたが自分自身で思考せず、新聞や隣人や地域的な偏見があなたに代わって思考しているとしたら、あなたの人生はめちゃくちゃなものになるでしょう。

2020年06月27日 16時37分03秒 | その他の日記
 以下の文は、MBC NEWSの『新聞記者が強要の疑い 警察が告発状を受理 屋久島町』と題した記事の転載であります。
 
『新聞記者が強要の疑い 警察が告発状を受理 屋久島町』
6/26 19:00

 屋久島町の出張旅費をめぐり新聞記者2人らが取材対象の男性に自らの主張内容を認めるコメントをするよう強要した疑いがある問題で、住民が警察に提出していた告発状が26日、受理されました。

 告発状を提出したのは屋久島町の住民6人です。
 告発状などによりますと、南日本新聞と朝日新聞の記者2人は4月、屋久島町の出張旅費を巡る取材のため、当時、町内の旅行代理店の所長を務めていた男性を男性の上司とともに呼び出し、大声で怒鳴りつけるなどして、記者らの主張を認めるコメントをするよう強要した疑いがあるとしています。

 男性のその際のコメントは南日本新聞と朝日新聞に掲載されましたが、男性はMBCの取材に対し、「そういうふうに言わされた」として、記事の内容は事実とは異なると説明していました。

 住民らはこれが強要の疑いにあたるとして4月に屋久島警察署に告発状を提出していましたが、その後、追加資料などを加え、26日付けで受理されたということです。

 告発人らは南日本新聞と朝日新聞に当時の取材の方法などについて公開質問状を送っていて、届いた回答について記者会見を開く予定です。

                              転載終わり。




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相手の本音は自分に打ち明けたところにではなく打ち明けられなかったところにある。だからもし相手を理解しようと思うのなら相手が言ったことにではなく言わなかったことに耳を傾けなさい。

2020年06月27日 13時06分36秒 | その他の日記
 朝日新聞の『この政党は保守か革新か 揺らぐ「常識」、若者のリアル』の記事で編集委員の真鍋弘樹記者は、20代の人達の政権与党への支持が高い理由がわからないとして、「教育のせいなのか。周囲から浮くのを恐れるのか。50代の記者も加わって議論したが、答えは出ない」としています。

 そりゃそうでしょ。
 貴方達は10代や20代や30代の人達が何を望み何を願い何を実現したいのかを徹底的に無視してきたではないですか。
 自分達の主張のみが正義であるとし、自分達の主張に賛同しない者は「心の病気だ。治らない」と述べる者を絶賛推奨し公の場で自分達の主張に賛同しない者を「殺す」とか「吊るす」とか「叩ききってやる」とか述べる人を応援してきたではないですか。
 「無知な若者は選挙で投票するな」と述べるような馬鹿を絶賛応援しているではないですか。
 自分達とは異なる意見を徹底的に無視し或いは攻撃してきたではないですか。
 自分達とは異なる意見を理解しようとは一切してきていないではないですか。
 自分達とは異なる意見に目を瞑り無視して自分達の意見のみを強要してきたではないですか。
 そして自分達の意見に都合の悪いことは無視し知らん顔をしてきたではないですか。
 自分達とは異なる意見に対してはデマを広めて潰そうとしてきたではないですか。
 そしてこの期に及んで自分達の意見に従わない者を何故に従わないのかと考えても、他者を理解しようとはしていないではないですか。
 教育のせいだとか周囲から浮くことを恐れているだとか、自分達に都合のよい言い訳に終始して、相手を理解しようとはしていないではないですか。
 ひたすら、自分達は悪くない、悪いのは他者だ、自分達の意見は絶対的な真理であり正義である、自分達の意見に従わない者の方がおかしい、という姿勢に終始して他者を理解しようとしていないではないですか。
 10代や20代や30代の彼ら彼女らが何を望み何を願い何を実現したのか。それを理解しようとせず無視して、それで支持が広まるとでも思っているのですか?

 そもそも何故に若者のみを槍玉にあげているのですか?
 そもそも40代や50代や60代や70代以上の人達の支持を得ていますか?
 野党連合が支持を固めている世代ってあるのですか?

 若者ならば理由も無しに叩きやすいという理由で記事を書いていませんか?


 民主党政権で民主党が公約破りをするさまを私達はまざまざと見せつけられたのです。
 選挙前は耳に心地よい公約を述べていながらその公約をことごとく破っておいて責任も取らないし説明も一切しないし選挙で国民の審判を受けるという真摯さもない。
 そのような浅ましい姿をまざまざと見せつけられたのです。
 そして旧民主党に所属した議員達はその反省を一切せず自分達は悪くないと開き直っています。
 旧民主党は政権を取る前は一応は具体的な政策を述べています。
 しかし今の旧民主党系の政党は具体的な政策を述べません。ふわふわとした漠然とした方針しか述べません。それをどのように実現するのかという具体性は皆無です。
 旧民主党の政党は旧民主党が政権を取る前よりもはるかに劣化しています。
 あの民主党政権よりもはるかに劣化した旧民主党系の政党をどのような理由で支持しろと?
 外交面では世界中から無視され内政面では経済を滅茶苦茶にし財政も滅茶苦茶にしておいて一切反省せずに自分達は悪くないと述べるような政党をどのような理由で支持しろと?

 他者を理解しようとしないのならば分かるわけはありませんよ。
 自分達の意見のみが絶対的な正義で絶対的な真理であるとし自分達とは異なる意見に目を瞑り無視して自分達の意見のみを強要するのならば分かるわけはありませんよ。
 自分達の意見とは異なる者を悪として攻撃するだけで自分達の意見とは異なる者を理解しようとしないのならば分かるわけはありませんよ。
 対立と分裂を煽るだけです。

 私達は私達を理解しようとしない人達と付き合う義理などないのです。
 私達は私達を理解しようとしない人達に時間や労力を割かねばならない義理などないのですよ。

 まずは他者を理解しようと努力することから始めてみては如何か?





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恐怖は、混乱し錯乱した想像から生じます。常に平静な判断力が働くように心掛けるべきです。

2020年06月27日 12時59分44秒 | その他の日記
 以下の文は、ニューズウィーク日本版のジェレミー・ファウスト(ハーバード大学医科大学院保健政策・公衆衛生部門講師)氏の『ダイヤモンド・プリンセス号の感染データがあぶり出す「致死率」の真実』と題した記事の転載であります。



 『ダイヤモンド・プリンセス号の感染データがあぶり出す「致死率」の真実』
 2020年3月11日


 新型コロナウイルスが、世界中でパニックを引き起こしている。
 薬局から手指消毒剤が姿を消し、オンラインではN95マスクがとんでもない高値で取引されている。
 そのどちらも、まるで1918年に数千万人が命を落としたスペイン風邪の再来のような騒ぎだ。

 確かに、現在報じられているCOVID-19(2019年型コロナウイルス感染症)の致死率は2〜3%で、スペイン風邪に近い水準だから、不安に駆られるのは無理もない。
 だが最終的にこの数字はもっと低いことが明らかになるだろう。
 米国立衛生研究所(NIH)と米疾病対策センター(CDC)が言及した1%という致死率さえも、このウイルスの威力を過大評価している恐れがある。

 新型ウイルスの発生初期に、推定致死率が過度に高く報じられるのはよくあることだ。
 2009年に流行したH1N1型インフルエンザは当初、最終的な致死率1.28%の10倍近い数字が取り沙汰された。
 今回も同じような現象が起きている。

 新型コロナウイルスの感染者が湖北省武漢で爆発的に増えたとき、致死率は4%超とされていた。
 やがて湖北省の他の地域に感染が広がると、致死率は2%に、中国全体に広がると0.2~0.4%に低下した。
 無症状者や軽症患者も検査対象に含められるようになると、より現実的な数字が明らかになってきた。

 WHO(世界保健機関)は最近の報告書で、世界的な致死率を3.4%と予想以上に高く示したが、パニックに陥る必要はない。
 最終的には、この数字が1%を大幅に下回ることを示唆する、極めて直接的かつ説得力のある証拠が存在する。
 それは豪華クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の感染データだ。

 語弊を恐れずに言うと、隔離されたクルーズ船は、ウイルスの性質を研究するには絶好の実験室だ。
 何しろ、通常はコントロールできない多くの条件がそろっている。
 ダイヤモンド・プリンセスの場合、乗客・乗員3711人のうち、乗船時に新型コロナウイルスに感染していたのはたった1人で、それ以外は基本的に旅ができるほど健康で、限られた場所(船内)でウイルスにさらされた。

 中国からは恐ろしい数字が発表されていたが、そのうち何人が別の病気を持っていたかは分からない。
 いったい何人が命に関わる別の病気で既に入院していて、そこで新型コロナウイルスに感染したのか。
 健康だったのに、このウイルスに感染して、重症化したのは何人なのか。
 一般的な環境では、こうした情報を知ることはできない。
 だから正確な致死率をはじき出すことが難しい。

 中国の年間死亡者数は900万人。つまり新型コロナウイルスがなくても、1日に2万5000人、この2カ月なら約150万人が死亡していた計算になる。
 このうちかなりの割合が「たばこ病」とも言われる慢性閉塞性肺疾患(COPD)や下気道感染症、そして肺癌による死だ。
 その症状は、COVID-19の重い症状と区別がつかない。
 中国のCOVID-19による死者は、長年の喫煙習慣によりCOPDを発症するのと同じ年齢層で急増した(中国では成人男性の半分が喫煙者だ)。
 中国の感染拡大のピークとなった1〜2月初旬、1日約25人のペースで死者が出たが、そのほとんどが一般にCOPDが幅広く見られる高齢者だった。
 また、死者の大多数が集中した湖北省は、肺癌とCOPDの罹患率が中国の平均よりも著しく高い地域だ。
 1日2万5000人の死亡者に占める25人のうち、新型コロナウイルスだけが原因で死亡した人と、合併症が原因で死亡した人を見分けるのは容易ではない。
 しかし重要なのは、新型ウイルスによって、通常より死亡者数がどのくらい増えたのかだ。
 そこで重要な視点をもたらしてくれるのが、ダイヤモンド・プリンセス号のデータだ。
 乗員・乗客3711人のうち、陽性と判定されたのは705人以上(船内の環境とウイルスの感染力を考えると驚くほど少ない)。
 その半分以上は無症状だった。
 そして死者は6人。
 つまり致死率は0.85%だ。

 患者の死因を見極めるのが非常に難しい中国などとは異なり、この6人は超過死亡(新型コロナウイルスがなければ生じなかったはずの死亡)だと考えることができる。
 何より重要なのは、この6人が全員70歳以上だったことだろう。
 70歳未満の乗客は1人も死んでいない。
 中国の統計が正しいなら、ダイヤモンド・プリンセスでも70歳未満の乗客4人が死んでいなければならない。
 だが、そうはならなかった。

 ダイヤモンド・プリンセスのデータは、70歳以上の致死率は中国の統計の8分の1(1.1%)、80歳以上の致死率は3分の1(4.9%)であることを示唆している。

 もちろんこれらの数字も懸念すべきものではある。
 だが、ダイヤモンド・プリンセスで陽性とされた人は、高ウイルス量に繰り返しさらされた可能性が高い。
 また、一部の治療は遅れた。つまり、きちんとした手順が守られていれば、ダイヤモンド・プリンセスでの致死率はもっと低かった可能性があるのだ。
 さらに、乗客はクルーズ船の旅に参加できるほど健康だったとはいえ、一般的な人口を反映して、多くの人が生活習慣病を抱えていただろう。
 従ってダイヤモンド・プリンセスのデータに基づく推定致死率は、合理的と考えてよさそうだ。

 これらの事実を合わせて考えると、新型コロナウイルス感染症は、ほとんどの若者にとっては比較的良性の病気である一方で、一部の生活習慣病を抱える高齢者にとっては、深刻な病気である可能性を示している(それでも報道されているほどのリスクはないだろう)。

 中国では10歳以下の感染者数百人のうち死者はゼロで、健康な成人感染者(高齢者以外)の致死率は0.2〜0.4%だ。
 おそらく検査を受けていない大量の無症状感染者を含めれば、もっと低くなるだろう。
 若者の致死率が低いことを考えると、私たちがいま集中して資源を投じるべきなのは、健康な人への感染を防ぐことではなく(いずれにせよ感染拡大は不可避だ)、重症化するリスクが高い人たちを守ることだ。
 対象となるのは、70歳以上の全人口と、この種のウイルスに対してもともと高いリスクを持つ人たちだ。

 つまり重点的に対策を講じるべきなのは、学校ではなく老人ホーム、飛行機ではなく病院だ。
 高リスクグループは比較的限られているが、彼らを適切に守らなければ、その致死率は悲劇的に高くなりかねない。

 幸いこのウイルスの感染力や潜伏期間、そしてハイリスク者の人物像や居場所は分かっている。
 食料やマスクを買い込む健康な人たちは、不安を的外れなエネルギーに変えているにすぎない。
 本当にリスクにさらされている人たちを守るのに役立たないなら、その行動は貴重な資源の無駄遣いになりかねない。

                               転載終わり。


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自分が何者かは能力で決まるのではない。どんな選択をするかだ。

2020年06月27日 12時31分58秒 | その他の日記
 以下の文は、PRESIDENT Onlineの御田寺 圭氏の『「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会     「岩国トロッコ問題」が露呈した本音』と題した記事の転載であります。
 



       「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会     「岩国トロッコ問題」が露呈した本音


   5人を助けられるのなら、1人を犠牲にしてもいいのか。
   この思考実験「トロッコ問題」を取り上げた山口県の小中学校が謝罪に追い込まれた。
   その理由は保護者からの「授業で不安を感じている」という指摘だという。
   文筆家の御田寺圭氏は「ケチがつくことには挑戦してはならないという、現代社会を象徴している」と分析する――。


    たった数名の「授業に不安を感じている」で謝罪

  『山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
  (中略)
  授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。
  しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。
  両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。
  (毎日新聞「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」岩国の小中学校が保護者に謝罪」2019年9月29日より引用)』


 数百人を相手にした授業で、たった数名から「不安に感じている」といった訴えがあったことによって謝罪をする――まさに現代社会の教育現場を象徴する出来事のようだ。
 こんなことで謝罪をしなければならないのであれば、体育や音楽や算数など、他の授業で不安を覚えた生徒など山ほどいるはずだが、それらもすべて謝罪して回るのだろうか。

    「ある人を助けるなら、別の人を犠牲にしてもよいか」
 さておき、「トロッコ問題」とは倫理学における思考実験のひとつであり「ある人を助けるためであれば、別の人を犠牲にしてもよいのだろうか?」を問うものである。
 著名な政治哲学者であるマイケル・サンデルが「正義」についての考察において引用したことで、世界的に広く知られるようになった。
 簡単に解説しよう。

  線路を走っている一台のトロッコが制御不能に陥ってしまい、このまま進めば向かった先で作業をしている5人がトロッコにひき殺されてしまう。
  あなたは偶然にも、トロッコが走る線路の分岐切り替えレバーの近くにいる。
  レバーを倒してトロッコの線路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員がいる。
  5人を助けるためなら1人を犠牲にしてもよいのだろうか。
  あるいはこのままにするべきなのだろうか。

    大人たちが出した答えは「現場から立ち去る」
 「ある人が生きるためには別の人の死がともなうが、それは許されるのか?」という問いは古くから存在する。
 紀元前200年代に活躍した、古代ギリシャの哲学者であるカルネアデスも同じような問題を提起した――「難破した舟の壊れた舟板にしがみついた人が、別の人がしがみつこうとしたのを突き飛ばした。なぜならその人がしがみついていた舟板はふたりがしがみつけば沈んでしまう程度のものだったからだ。彼は生還後、罪には問われなかったが、果たしてそれはただしかったのだろうか?」と。
 この問題は現代でも「カルネアデスの舟板」として広く知られる思考実験である。
 この問題はカルネアデスの逸話だけでなく、類似のバリエーションがさまざまに存在しており、敷衍して実社会における倫理的・道徳的判断を広く問うものとして長らく議論されてきたテーマのひとつである。
 世の倫理学者や政治哲学者たちが侃々諤々と議論を続け、あるいはインターネットではインテリたちが「トロッコのレバーを真ん中にすればトロッコが脱線して全員助かる」などと大喜利をしているなか、意図せずして岩国の保護者と学校教員たちのやりとりが、トロッコ問題の「答え」を導き出してしまった。
 ほんの数名の「不安の表明」によって謝罪させられる教員たちから得るべきトロッコ問題の答えとは「現場から立ち去る」ことだ。

    「ただしいこと」の追求より「リスクの回避」
 トロッコのレバーに触れる行為は、たとえ5人を救った英雄になれる決断であったとしても、必ずひとりの遺族には終生恨まれることになるものだ。
 「どうしてレバーを倒したのか」と。
 だが、レバーに触らなければ、さらに言えば一切関与せずにその場を立ち去れば「無関係な人」になれる。
 無関係な立場であれば、けっして英雄にはなれないかもしれないが、殺人者として恨まれるようなこともない。
 明日もきっと、いつもと変わらぬ穏やかな日々が待っていることだろう。
 今回の事例でいえば「トロッコ問題」などという思考実験を授業中に提起さえしなければ、「問題」や「クレーム」が発生することもなかった。
 「物事の当事者になる」という選択肢を回避しさえすれば「責任」が問われるようなこともなかったのだ。
 たとえ大勢にとって有意義な学びの機会が提供できたとしても、ごく少数者が(「不安」を覚えて)犠牲になるのであれば、当然ながらその代償は発生する。
 場合によっては犠牲を出したことの責めを負うことになる。
 たとえ動機がどのようなものであれ「ただしいこと」を追求するのではなく、だれかから「ただしくない」と論難・非難されるリスクを回避することに全精力を投入せよ――それが「トロッコ問題」から考えるべき答えだ。

     少しでもケチがつくなら、最初から挑戦しない
 岩国の学校教員の方々は、残念ながら「授業でトロッコ問題を扱う」という決断をした時点でトロッコのレバーに触れてしまったことになる。
 多くの子供たちには「人間社会における倫理的判断の難しさと社会正義の複雑な構造を学ぶ機会」を提供できたかもしれない。
 しかし同時に、少数の子供やその親からは「子供たちへ不安やストレスをいたずらに与える加害者」という誹りを免れ得なくなった。
 この社会では多くの善なることを成したとしても、ひとつでも汚点があればそれらの功績は帳消しにされてしまう。
 「よかれと思って」などという動機はほとんど斟酌されない。
 レバーには触れるな。なにもせずその場から立ち去れ。当事者になるな。「無関係な人」になれ――それが紀元前から繰り返されてきた問題に対して、現代社会が用意した解答だ。
 この件――名付けるのであれば「岩国トロッコ問題」とでもいうべきだろうか――は、この社会でなぜ停滞が起き、技術的革新がことごとく反対・規制され、才能ある若者が続々と海外へと流出するのかをメタ的かつ端的に示した思考実験のようである。
 「少しでもケチがつくのであれば、チャレンジしてはならない」というメッセージが伝わってくる。

    「不安なもの」の排除は社会の停滞を招く
 「トロッコ問題」に限らず、多くの人びとにとって、新奇性や画期性のあるものは「気持ち悪い」ものである。
 不安感や不快感を惹起するものである。
 子供たちにとってはなおさらだ。
 それでもあえて、子供たちには未知なる問いを立てていく意義がある。
 しかしながら、教える側が「加害者」にされてしまうくらいであれば、現場レベルでは「毒にも薬にもならないこと」だけを淡々と伝えていくことのインセンティブが最大化されるだろう。
 一方で自分にとってなじみのないもの、異様に見えるものと接触したときに生じる生理的な不安感や不快感は、人間をひとつの動物として捉えたときには合理的な側面を持つ。
 個としては非力であり、集団生活を営まなければならなかった人間にとって、集団の同質性が維持されることには一定の合理性があった。
 人間の集団内における「異質性」とか「新奇性」を恐れ、排除することによって自分たちのグループの安定性が担保され、生存の可能性が高まると期待されたからだ。
 「トロッコのレバーに触れないことが推奨される社会」は、不安感や不快感を誘発しない快適なものばかりが目に入るし、身の危険を感じさせない穏やかな暮らしが続くだろう。
 生きていくにはおおよそ不自由のない社会かもしれない。
 だがそれは最新の知見や技術を拒否し、社会が停滞する可能性と表裏一体でもある。
 緩やかにだが着実に、社会から活力や創造性が失われていく。

                               転載終わり。


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