狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

擬宝珠(ギボウシ)その12。

2020年06月25日 23時49分58秒 | お花に関する日記
 本日6月25日は、フォントノワの戦いが行われた日で、アウクスブルク信仰告白が神聖ローマ皇帝カール5世に捧げられた日で、江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させた日で、マリア・テレジアがハンガリー王として戴冠した日で、長州藩が下関海峡に碇泊中の米商船に砲撃した日で、江戸幕府が英仏米蘭と改税約書を締結した日で、リトルビッグホーンの戦いでカスター将軍率いる騎兵隊が全滅した日で、三菱内燃機神戸工場の職工が団体交渉権などを求めストライキに突入した日で、大本営・政府連絡会議で仏印進駐などの「南方政策促進に関する件」が決定された日で、『アンネの日記』が出版された日で、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国に進攻して朝鮮戦争が勃発した日です。

 本日の倉敷は雨が降っていましたよ。
 最高気温は二十四度。最低気温は二十二度でありました。
 明日は予報では倉敷は曇りのち晴れとなっております。




 上の写真に写っているお花は、「擬宝珠(ギボウシ)」です。
 擬宝珠のお花に関しては、2019年5月30日の記事2018年6月2日の記事2017年6月2日の記事2016年6月13日の記事2015年5月22日の記事2014年6月16日の記事2013年6月4日の記事2012年6月17日の記事2011年6月16日の記事や2010年6月19日の記事2008年8月30日の記事もよろしかったらご覧くださいませ。
 2019年と2018年と2017年と2016年と2015年と2014年と2013年と2012年と2011年と2010年と2008年の擬宝珠のお花の記事です。

 擬宝珠のお花の花言葉は、「静寂」です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『巴里マカロンの謎』/米澤穂信

2020年06月25日 23時01分29秒 | 小説・本に関する日記
 昨日の夜は、米澤穂信の小説『巴里マカロンの謎』を読んでいました。

 小鳩常悟朗は中学までは望んで知識をひけらかして様々な事件の探偵役をしていたがそんな自分が嫌になって小市民を目指している。
 小佐内ゆきは中学までは復讐の為ならどんな手段も取る過激な性格と行動力だったがそんな自分が嫌になって小市民を目指している。
 周囲は二人は付き合っていると思っているが、小鳩君と小山内さんは小市民を目指す為にお互いを利用する関係。
 でも二人の前に様々な謎と問題が現れて謎解きをしなくてはいけなくなってしまう。
 二人は小市民の星を掴み取ることが出来るのか? 

 高校生達の日常の謎を扱ったコミカルなミステリで、4編の短編集です。
 肩ひじ張らずに気軽に読めるミステリですね。
 軽やかでちょっぴり毒あり。
 面白かったです。

 ギガ・スケールの人間を目指すのは大変だけど、小市民になるのも大変かも。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の中には、頑張ってもどうしようもないことが、確かにいっぱいある。でも、だからこそ、頑張れる時には、躊躇ったりしてはいけない。

2020年06月25日 17時07分41秒 | その他の日記
 以下の記事は、Books&Appsの高須賀氏の『医者の僕でも、コロナウイルスをナメていたが、間違っていた。』と題した記事の転載であります。



    医者の僕でも、コロナウイルスをナメていたが、間違っていた。

 2月当初は「インフルエンザとたいして変わらん」とみんなが軽く見ていた新型コロナウイルスで世の中はてんやわんやである。
 ニューヨーク市場のエブリデイ・サーキットブレイク、600兆円にも及ぶ量的緩和、そして世界同時鎖国、そして恐らくの東京オリンピック延期……。
 
 正直、書いてるだけで世紀末感がハンパない。
 仮に第三次世界大戦がおきても、ここまで悲壮なことにはならないんじゃないだろうか。
 それぐらいにはスケールが桁違いである。
 
 一年前にこんなことが起きるだなんて、誰一人として考えていなかった。
 ナシーム・ニコラス・タレブが言うように、まさしくブラック・スワンはあったのだ。
 私達がいま、間違いなく後世に語り継がれるであろう瞬間を生きているのは間違いない。
 
 正直いうと、ぼく個人としては性根では未だに新型コロナウイルスの事をそこまで恐ろしいものだと思っていない。
 いないのだが、じゃあその恐ろしくないものがカタストロフと言っても差し支えない事態を引き起こしているのも、また事実である。
 
 この認知の捻れが何によるものなのかをずっと考えていたのだが、これはデータと実態、マクロとミクロの認知のズレによるものなのだという事がわかったので、今日はそれについて書いてみようかと思う。
 
   データのコロナ、実際のコロナ
 新型コロナウイルスはミクロの目でみると80%の人には単なる風邪である。
 致死率も若くて健康な人なら1%以下と、そこまで高いわけではない。
 「99%大丈夫なのだから、そこまで恐れるものではない」
 これがミクロな目で見たデータ上のコロナウイルスに対する認知である。
 
 正直、多くの医療従業者はこの情報を聞いたときはナメていたはずだ。
 「武漢、閉鎖しちゃったってよ」
 「ハッハッハ、中国君はいっつも大げさだなぁ」
 と他人事だったに違いない。
 
 しかしひとたび新型コロナウイルスが日本で発生し、現場で対応する側に回されると、実情はデータと全く異なるものだという事を嫌というほど知らされた。
 
 いま少なくとも僕が関わる現場では、発熱かつレントゲンで肺炎と思われる像を呈した患者さんがやってきたら、PPEという完全防護服を着て、隔離された場所にて診療をおこなわなくてはならない。

 正直これは本当に面倒くさく、イチイチやりにくくてしょうがないのだが、医療者が二次感染してうつす側に回れるはずもなく、フル装備でやらざるを得ない。
 
 こうして1周遅れぐらいで医療従業者のほぼ全員が
 「ん?これなんか思ってたのより、かなり面倒くさいぞ」
 となるのだが、更に面倒なのはここからだ。
 
 先程もいったとおり、このウイルスは人にうつる。
 どんな感染症もひどくなると当然入院しなくてはならないのだが、肺炎で入院してきた患者さんが何の原因で肺炎になったのかは来た段階ではグレーである。
  細菌かもしれないし、インフルエンザかもしれない。
 ひょっとしたら新型コロナウイルスかもしれない。
 こんな感じで原因がわからないのだから、肺炎はほぼ全例新型コロナウイルス患者疑いとして扱わせざるをえない。 
 この新型コロナかもしれないグレーな患者さんを、まさか四人部屋のベッドに入れるわけにはいかない。
 だから当然、個室管理となるのだが、こんな事態を多くの病院は想定していないから、個室が肺炎患者で想定以上にパンパンになってくる。 
 新型コロナ感染でないとわかれば、個室から外にでる事ができるが、それがわからない限りは個室にずっといてもらうほか無い。
 いま全国の病院はいまだかつてないペースで個室がミチミチである。
 
 もし仮に新型コロナウイルスが院内でアウトブレイクでもしようものなら、病棟閉鎖などなど、とんでもない事になるから戦々恐々であり、現場は普段以上に疲弊している。
 
 こうしてデータの上では「99%大丈夫、たいしたことはない」と思っていたはずのものが、実態は意外とリソースを食いまくってくる事に2週遅れぐらいで気がつくのだが、この段階ですら僕はまだこれの真の問題点を見誤っていた。
 
   ミクロのコロナ、マクロのコロナ
 すごく大雑把にいうと、肺炎は細菌性とウイルス性の2パターンがある(他にもあるが割愛する)
 細菌性はかなり急激な経過をたどる事が多いのに対して、ウイルス性のはそこまで酷くなる事は稀だ。
 ごく一部の例外を除いては、人工呼吸器やECMO(人工心肺装置)なんて付ける事などはほぼない。
 
 それがこの新型コロナウイルス感染は、たまにこれらの装置が必要になるレベルで悪化するのである。
 そうなると個室のリソースだけではなく、人工呼吸器やECMO(人工心肺装置)のシェアが奪われてくるのだが、これも想定以上には余裕をもって設けられているものではない。
 
 イタリアやアメリカで新型コロナウイルス患者がアウトブレイクし、ICUが一気に満床になり医療崩壊寸前にまでいったという話を聞いた時、ようやく新型コロナウイルスはミクロでみるのではなく、マクロの目でみなくては事の本質を見誤る事に3周遅れで僕は気がついた。
 
 こいつらは個じゃなくて群で襲いかかってきた時、真にその凶悪さを発揮するのである。

 先程もいったけど、新型コロナウイルスは健康な人間99%にはほとんど意味をなさない。
 だから正直、経済的なコスパだけを考えれば徹底して放置するのもある意味では正しい。 
 けど、それはとても非人道的な事であるし、そんな病人や高齢者といった弱者にひどく厳しいディストピアな社会は私達には許容しがたい。
 そうした集合的無意識の行き着く先が、誰も想像しなかった世界同時鎖国なのである。
 
 データと実際、ミクロとマクロの目がどれだけ違うのかを僕は今回の一件で痛いほどによく理解した。
 またしても「病をみて人をみず」をやってしまったなぁと反省である。
 
   ゴブリンスレイヤーで読み解く新型コロナウイルス問題
 一個一個は大した事がないものでも、群れとなり軍隊を形成して襲いかかってくると、全然性質が変わってくる。
  これは蝸牛くも先生が書かれたゴブリンスレイヤーという物語にも通じてくる話である。
 この物語は、最下級モンスターとされるゴブリンのみを狩る冒険者・ゴブリンスレイヤーの活躍を描く作品である(アニメ版が非常に面白いのでオススメ)

 ゴブリン1~2匹であれば力自慢の村人でも倒せるほど弱いが、群れをなして残忍狡猾なやり口で人間の集落や冒険者たちを陥れる存在であり、油断すれば村を滅ぼすことすらある脅威となる。
 一般に弱いと認識されるゴブリンを殲滅しても名声は得られず、報酬も少ない。
 そのため、多くの冒険者はゴブリンなどには見向きもせず、一見するとカッコいいドラゴン討伐などをやりたがるのだが、そのような社会において、決して油断せず様々な技巧や知識を駆使し、ただ淡々とゴブリンのみを狩る存在として、ゴブリンスレイヤーが描かれている。
 
 このゴブリンスレイヤーの物語は福祉に携わる人のオマージュだと僕は理解している。
  医療を含めて、福祉は正直なことをいってあまりカッコいい仕事ではない。
 六本木ヒルズにある外資系企業で働くほうが社会的尊厳も圧倒的に高く、また給料もいい。
 福祉は構造上、お金を稼げる仕事ではないから、一般的にはかなり低賃金労働だし、また社会的尊厳もそこまで高いとは言い難いものがある。
 
   人は見た目がいいものを好む。
 年収3000万円でフェラーリを乗りまわしている人になりたい人は山ほどいるだろうが、ドヤ街で恵まれない人たちの為に活動する人になりたい人は、残念ながらそう多くないだろう。
 そういう意味では、ゴブリンという評価されない対象に対して情熱を燃やして対処するゴブリンスレイヤーの物語が流行ったことには、僕は日本の社会のある種の成熟を感じる。
 みんな本当は気がついているのである。
 ハリボテで塗り固められたキラキラしたものの嘘くささに。
 草の根で活動する人たちの尊さに。
 
 今回の新型コロナウイルス問題もそうである。
 この問題を解決するのは、わかりやすいヒーローや勇者のような英雄的存在ではない。
 全国の医療スタッフは当然として、わたしたちひとりひとりの草の根の民の努力が、こいつには1番効くのである。
 
 ひょっとしたら気がついてないかもしれないけど、私達はみな1人のコロナウイルススレイヤーである。
 しばらくは根拠のない不安に襲われるかもしれないが、世界はいままでも、そしてずっとこれからも今より良くなり続けている。
 
 がんばっていきましょう。

                                 転載終わり。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする