狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

ドクダミその12。

2020年06月29日 23時44分52秒 | お花に関する日記
 本日6月29日は、平忠常の乱が起こった日で、長篠設楽ヶ原の戦いがあった日で、コノトプの戦いが終結した日で、松尾芭蕉がおくのほそ道の旅で平泉の奥州藤原氏3代の跡を訪ねた日で、ナポレオン・ボナパルトがチザルピーナ共和国を建国した日で、北海道の十勝岳で水蒸気爆発を起こした日で、ビートルズが初来日した日で、セーシェルがイギリスから独立した日で、中国共産党第11期6中総会で文化大革命を全面否定する「歴史決議」が採択された日で、礼宮文仁親王殿下が川嶋紀子様と結婚して秋篠宮家を創設した日で、黄海上で北朝鮮と韓国の艦艇による銃撃戦が行われた日です。

 本日の倉敷は曇りでありましたよ。
 最高気温は二十八度。最低気温は二十度でありました。
 明日も予報では倉敷は雨が降ったりやんだりするとなっております。お出かけの際はお気を付けくださいませ。




 上の写真に写っているお花は、「ドクダミ」です。
 ドクダミのお花に関しては、2019年6月2日の記事2018年6月10日の記事2017年6月4日の記事2016年6月6日の記事2015年5月26日の記事2014年6月23日の記事2013年6月14日の記事2012年6月7日の記事2011年6月9日の記事2010年6月13日の記事2009年6月4日の記事もよろしかったらご覧くださいませ。
 2019年と2018年と2017年と2016年と2015年と2014年と2013年と2012年と2011年と2010年と2009年のドクダミのお花の記事です。


 ドクダミのお花の花言葉は、「白い追憶」です。



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この世の中に共産主義ほど犯罪的で恐ろしいものはありません。共産主義思想を取り入れた国は途端に貧乏になって駄目になる。共産主義は人間を人間扱いしなくなります。

2020年06月29日 22時40分45秒 | その他の日記
 立憲主義を掲げるのならば、憲法を改正するか自衛隊を解散させるかのどちらかとなります。
 違憲状態ではあるけれどもそれを容認するというのならば、立憲主義ではありません。
 日本共産党の志位委員長は、「日本共産党は自衛隊が違憲であるという立場は変わっていないか?」という質問に対して、「変わってない。(しかし)今すぐは無くせない。日本を取り巻く環境が平和になって、9条完全実施しても大丈夫だとなったら着手できる。それまでは共存する関係である」と述べています。
 自衛隊という組織が違憲であるという認識であるならば、日本共産党は違憲状態を容認するということになり、憲法無視であり立憲主義に反しています。


 そもそも日本共産党は憲法を全面改憲することを目指している政党です。
 護憲政党ではありません。
 日本憲法が成立した時に憲法9条に大反対したのが日本共産党です。
 そして日本共産党の綱領を実現しようとするならば、日本共産党の理念と日本国憲法の多くの文言に反します。
 日本共産党の綱領を実現しようとするならば、日本国憲法を全面的に改憲するか日本国憲法を無視するか、どちらかとなります。
 日本共産党が日本共産党の理念を実現しようとするならば、今の日本の社会を根本から変えることになります。
 日本共産党の理念は日本国憲法の理念と真っ向から対立します。
 日本共産党が護憲政党を名乗るのは欺瞞です。

 そして日本共産党は戦後も多くの人を殺し多くのものを奪い多くの人を脅してきました。
 日本共産党はその反省をしたことはないし謝罪をしたこともありません。
 犯罪を犯しておいて反省も謝罪もしたことがない政党が平和を追求すると述べたところで私は信用できません。

 日本共産党は話し合いをしません。
 日本共産党の主張を一方的に相手に押し付けようとするだけです。
 日本共産党の主張を相手が受け入れなければ、その相手を悪と認定し非難して攻撃する。
 このような独善的な政党は民主主義とは考え方がかけ離れています。

 日本共産党は立憲主義ではありませんし護憲政党でもありません。
 日本共産党が立憲主義を掲げるのは欺瞞です。
 日本共産党が護憲政党を名乗るのは欺瞞です。
 そのような行為は選挙民を騙す行為です。
 欺瞞で選挙民を騙す行為は民主主義を破壊する行為です。
 選挙民が正しい情報に基づいて投票ができないならば民主主義が成り立ちません。

 日本共産党は選挙民を騙す行為を直ちにやめてください。
 お願いします。


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『瞳ちゃんは人見知り』第3巻/夏海ちょりすけ

2020年06月29日 22時30分42秒 | 漫画・ゲームに関する日記
 昨日の夜は、夏海ちょりすけの漫画『瞳ちゃんは人見知り』の第3巻を読んでいました。

 高校2年生の宇佐見君がある日出会ったのは、目つきが悪くて色々と大きくて迫力のある怖そうな後輩の女の子の瞳ちゃん。
 宇佐見君は、怒っているように見える瞳ちゃんを怖がっていたのだけれども、見た目とは違う彼女の一面を見て……。
 ハートフルな日常コメディであります。




 ……。
 うん。まあね。視線一つで吠えている犬を黙らせることが出来る人は猫には嫌われるよね。orz。
 何故か人から「怒ってる?」と不安そうに尋ねられることはあるよね。orz。
 何故かお子様に怖がられることってあるよね。orz。
 笑顔を練習しなければならない人っているよね。orz。




 面白かったですよ。
 続きが楽しみです。


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「革命」とは何か? 自分達の旗に記した自分勝手な主義の名の下に、権力を把握しようとする暴徒のことある。

2020年06月29日 17時58分46秒 | その他の日記
 以下の文は、アゴラ言論プラットフォームの高山 貴男氏の『立憲主義は守らなくてよい ~ 安保法制施行4年に考える』と題した記事の転載であります。



      『立憲主義は守らなくてよい ~ 安保法制施行4年に考える』

   誰も何も困っていない
 きょう3月29日(日)で集団的自衛権の限定行使を容認した、いわゆる「安保法制」が施行されて4年になる。
 安保法制反対派から言わせれば「立憲主義に反する」状態が4年を経過したわけだが、この4年間に「立憲主義に反する」ことが原因で日本社会に何か不利益があっただろうか。
 筆者は何も思い浮かばない。
 本当に全く浮かばない。
 安保法制反対派からも特には聞こえない。
 例えば「立憲主義に反する」として安保法制に反対した旧民主党の左派とも言える立憲民主党の支持率が頭打ちなのも別に「立憲主義に反する」ことが原因ではないだろう。
 筆者は立憲主義を守ることが個人の自由と平和に資するというならいくらでも「立憲主義を守れ!」と主張する。
 しかし、巷の立憲主義者の発言・行動を見ると立憲主義を守ると個人の自由と平和が害される危険性しか感じない。
 本当に立憲主義を守る必要性はあるのだろうか。

   国家権力を制限して平和になるのか?
 立憲主義者は「立憲主義とは国家権力を制限することだ」と主張し安保法制を否定する。
 彼(女)らの発言を聞くと国家権力を制限すれば論理必然的に個人の自由と平和が確保されるといわんばかりだ。
 もちろん、ことはそう単純ではない。
 個人は単体で自らを守れるとは限らないから国家を必要とする。
 「国家の役割とは何か?」とはそれ自体、深く重いテーマであるが、そこに「個人を保護する役割」は間違いなく含まれている。
 国家には個人(国民)を保護する義務があり、その義務を履行するためにも個人は然るべき権限・資源を国家に付与しなくてはならない。
 立憲主義の名の下、やみくもに国家権力を制限し国家の個人保護機能が害されるのなら本末転倒である。
 立憲主義を守ると個人の自由と平和が害されるなど実におかしな話である。
 安保法制反対派が主張する立憲主義論は「個人は立憲主義のために犠牲になるべきだ」と主張しているのに等しい。


   立憲主義を「最高の価値」とする神経
 立憲主義の問題は国家権力への姿勢に限られない。
 その排他性も問題である。
 例えば立憲民主党は結党当初、党綱領において立憲主義を「最高の価値」と規定しようとした。
 結局、これは見送られたが今でも立憲民主党関係者の各種発言から立憲主義を「最高の価値」と認識する姿勢は窺える。
 例えば立憲民主党の枝野代表は立憲主義を「当たり前」とか「当然の前提」と表現する。
 この枝野代表の立憲主義観については既に記した。
 立憲民主党関係者は直接的な表現こそ使用していないが、立憲主義を「最高の価値」と認識していると判断しても決して過剰な解釈ではあるまい。
 そしてこの前提に立った場合、立憲主義を守る必要性はなくなる。
 なぜならおよそ「最高の価値」ほど自由社会と相性の悪いものはないからだ。
 「最高の価値」は強力な引力、磁場を持ち各種権力を収斂させ「独裁」への道を切り開く危険性がある。
 独裁者とは常に「最高の価値」を標榜する。
 ヒトラーは国家社会主義運動の優越性を、スターリンは共産主義運動の優越性を唱え自らの「独裁」の正当性を唱えた。
 「独裁」に反対し自由社会の発展を望む者ならば「最高の価値」に警戒するはずだし、この警戒こそが立憲主義ではないのか。
 やや昔の話で「案」の段階とはいえ党綱領に「最高の価値」を規定しようとしたこと自体、立憲民主党が個人の自由と平和に無関心であることを示しているし、管見の限り立憲主義者を自称する者でこの立憲民主党の姿勢・行動を批判する者をみたことがないから日本では立憲主義者とは個人の自由と平和に無関心な者が名乗る立場なのだろう。

   立憲主義は守らなくてよい
 立憲民主党的立憲主義をこの日本で完全に実施した場合、間違いなく防衛力は弱体化するから常に独裁国家の恫喝、干渉はもちろん物理的侵略の危険に怯えなくてはならないし、立憲主義の絶対性を主張する者の顔も常に窺わなくてはならなくなる。
 要するに「立憲主義を守る」と全方位から個人の自由と平和は脅かされ、最終的になくなり、立憲主義が否定しようとした社会になるのである。
 今の日本で個人の自由と平和を根底から破壊する危険性があるものは自民党改憲草案ではなくヘイトスピーチでもない。
 それは立憲主義である。
 安保法制施行から4年を経過した今「立憲主義は守らなくて良い」と強く主張して筆をおきたい。


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