狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

枯れた噴水で落ち葉が舞うような、平坦な戦場で私達が生き延びる為に足掻く無様な様子を、直視すればよい。

2020年07月27日 12時25分26秒 | その他の日記
 以下の文は、アゴラ言論プラットフォームの岡本 裕明氏の『否が応でも増える企業倒産と自主廃業』と題した記事の転載であります。




否が応でも増える企業倒産と自主廃業
2020年07月21日 14:00
岡本 裕明



 夏を過ぎると企業倒産と自主廃業が一気に増える可能性が出てきます。
 コロナ倒産の特徴は業種に偏りがある点です。
 統計的に圧倒的に多いのがサービス業。
 例えば6月の倒産件数は780件ですがうちサービス業は35.6%の278件に上っています。
 サービス業でも多いのが旅館、飲食業となっています。
 また小売り業の倒産数は12.4%程度でしたが今後増えていくと思います。
 専門家の予想では今年の倒産件数は2013年以来の1万件を超えるとされますが、個人的にはリーマンショックの頃の15000件越えも視野に入ってくるとみています。

 秋に衝撃の倒産件数となる可能性は否定しません。
 理由は今回コロナ関連で苦しんでいる多くが資金的体力がない中小企業であり、夏までは頑張ろうと思っている会社が限界を迎えるとみているからです。
 上場会社はレナウン以外倒産していないのも今回の特徴です。
 しかもレナウンの倒産は厳密にはコロナ倒産とは言い難いものがあり、上場会社は今のところ耐え忍んでいるというふうに見えます。
 なぜ、倒産件数が飛躍的に伸びる可能性があると予想できるでしょうか?
 それは金利と金融機関のポジション、雇用を切りにくいこと、そして安易な経営拡大政策の反動の組み合わせです。

 多くの中小企業、しかも事業拡大政策をとってきた会社や個人事業主は経済が一定の巡航速度で展開し、成長できる前提で事業計画を練ったわけで一定の借金をして次のステージを目指してきました。
 ところがそれは3月に止まり、7月中旬を過ぎた今でも売り上げが戻らないという問題を抱えています。
 特に外国人が急増したことを受けて追加投資をした宿泊業や飲食業、関連サービス業の方々にとっては悲劇としか言いようがありません。
 あるいは若者向けブランド、セシル マクビーが店舗事業撤退を発表しましたが、同事業はそもそも時代の波に乗り遅れ、衰退期にあった中でコロナが背中を押した形となるなど企業の余力が明暗を分ける結果となりそうです。

 半沢直樹さんも同意すると思いますが、こんな時期、金融機関は雨が降っているので傘を貸しません。
 むしろ資金引き上げを進めています。
 借り入れをしている人は約定通り返済しないと差し押さえのリスクがありますが、銀行もそれを強要するとブーメランのように自分に跳ね返ってくるため新規融資はやらないけれど既存の事業ローンは個別対応でどうにか乗り切るつもりかもしれません。

 金利が長年、地を這うような状態だったことも実は災いしています。
 借入金利が異様に低いと新規事業の参入のハードルは下がります。
 事業収支を策定する上で金利負担額がごくわずかであれば事業の採算性はよく見えるのは当たり前です。

 また、投資家や資本家にしても預金ではなく事業者に投資をしようという意識が芽生えやすくなります。
 本来であれば景気の良い時には金利が5%ぐらいであるべきで、景気が悪くなれば利下げというクッションがあるのが金融政策の基本中の基本であり、それで経済を調整できたのです。
 残念ながら近年の日銀のポリシーは金利を下げるのりしろがないため、下げるのと同じ効果があるテクニカルな手法で金融市場を刺激しています。
 これは99%の中小企業にとってほとんど効果を実感できない別世界の技術論でしかないのです。

 つまり、日銀が本来進めるべく国民経済に寄り添い、企業経営と経済環境の温度調整という本来あるべき機能はもう10数年前に失ったままになっているのです。
 これは本質的な中小企業の経営的体力増強が図れなかったのみならず、安易な末端価格競争を増長し、ゾンビ企業を増やしました。

 では日銀がゼロ金利でも市中銀行が5%で貸せばいいだろうという話ですが、それでも貸しません。
 市中銀行の与信審査機能は不動産担保が十分であるか、過去にすでに十分な利益が生まれる事業に育っていない限り判断能力を失ったのです。
 よって行きつくところは「一流の大手」しか残っていないのです。
 マザーズやジャスダックではだめで東証一部ならジャンジャンお貸しします、というえげつなさなのです。

 ただ、外から見れば「なぜこんな事業が残っているのだろう」というものが多数あったのも事実。
 淘汰されることで経済と経営が正しい軌道に戻りやすくなるメリットもあります。
 特に経営者で高齢になり、後継者も十分に育っていないようなところには相当の逆風になることは確実でしょう。

 有名企業は倒産しないかもしれませんが、中小企業や個人事業主には相当冷たい秋風が吹きそうな予感がいたします。

 では今日はこのぐらいで。

                             転載終わり。


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要望と現実をすりかえてはならない。無いものはあくまで無いのだし、欠けているものはあくまで欠けているのだ。率直に先ずそれを凝視することから始めるべきだ。

2020年07月27日 11時24分54秒 | その他の日記
 以下の文は、JBpressの森 清勇氏の『展望のない野党と反日知識人は日本解体の厄病神』と題した記事の転載であります。



『展望のない野党と反日知識人は日本解体の厄病神』
7/26(日) 6:01配信


 新型コロナウイルス対処ほど自由民主主義国家・日本のジレンマを浮き彫りにしたものはない。
 国民の生死が懸かっているというのに、政府が強制力を発揮できず、すべてが「要請」や「協力」を依頼する外はなかった。
 本来は憲法に非常時対処条項があって、国家の存続が危惧され国民の生命が危険にさらされるような場合は、個人の自由が制限され民主的手法も凍結されるのが一般的である。
 しかし日本では憲法の欠陥(草案を創った米国の意図)から、国家よりも個人に重きが置かれている。 
 今回は国民一人ひとりが「自分の命(の危険)」に直面したために要請などでもことが進んだが、非常事態下の国家の対応という視点で政治が機能しなかったことは明瞭である。

■ 自由民主主義国家も強制隔離で罰金まで科した
 これは日本だけに特異なことで、米英独仏伊、スペイン、シンガポール、韓国、その他多くの自由民主主義を信条とする国家でも、堂々と隔離・禁足を強制し、罰金まで科した国もある。
 オーストラリアでは武漢からの帰国者を離島のクリスマス島に隔離し、2週間の禁足を命じ、違反者には80万円の罰金を科した。
 担当大臣はこうした施策が「公衆のためになり、また本人が早く自宅に帰れるようにもなる」と断固として語っている。
 フランスなども政府や地方自治体などの指示に従わない者には罰金を科している。
 中国はいち早く都市封鎖して感染症対処に成功したとしているが、成功しているのは言論封鎖だ。
 4月時点で、医療・衛生環境がはるかに優れた台湾やシンガポールなどの完治率は約2割(その後向上)に対し、中国の9割(中国系メディア報道)はプロパガンダでしかない。
 ちなみにここ数か月間の日本の治癒率(退院者/感染者)は60~75%台で推移している。
 自由主義諸国のコロナウィルス感染封鎖も成功していないが、非常時には「強制」できる法体系が構築されていることは明確になった。
 対して日本は、加藤勝信厚生労働相が「人権との兼ね合いで隔離するスキームにはなっておりません」と言ったように、強制隔離はできず、当初は自己判断に委ね、「症状を示す感染者は病院へ、そうでない人は自宅へお引き取りいただく」以外になく、保菌者が野放し状態であった。

 野党(日本維新の会を除く、以下同)が独裁者ででもあるかのように批判する安倍晋三首相にしても、感染の有無を調べる〝「検査」を拒否する者″に対しては「法的拘束力がないため、強制できない」と言わざるを得なかったのだ。
 知識人や野党は他方で首相のリーダーシップの欠如を批判してやまないが、安保法制をはじめ非常時対応に最も熱心なのは安倍内閣で、野党は悉く妨害・阻止してきたのではないか。

 短い期間ながらも政権を担当し、その間に東日本大震災という未曽有の経験もした多くの現野党議員たちは、非常時対応の法制、特に包括・恒久的な緊急事態法の欠落を知っているはずだ。
 何かあれば、日本は〝特措法″の制定や法律の「改正」で済ましてきたが、想定外に迅速に対応できる緊急事態法がないことをこそ野党は教訓として提案しなければならない。
 というのも、政府・与党が提案しようにも、野党は国益意識がなく党利党略で拒否することが明らかであるからだ。

■ 「腐った魚」は野党だった
 新型コロナウイルスの情報は昨年末から聞こえ始め、中国・武漢での惨状は通常国会の早い段階、1月中旬には知れ渡ってきた。
 しかし、倒閣意図しかない野党は「桜を見る会」ばかりを問題にし、「タイは頭から腐る」と罵詈雑言を吐き、しばしば国会審議を停滞させた。
 終盤に至っても「桜」追及に血道を上げ、150日以上も無駄な議論に終始した。
 そして国会閉会の数日前になると、審議が尽くされていないとして国会の延長を言い出す支離滅裂であった。
 老練なジャーナリストの堤堯・久保紘之氏が「新型肺炎 安倍政権の初期対応 歯がゆい限りだ」(『Hanada』2020年4月号「蒟蒻問答」)という通りであるが、憲法の自由や人権が平時における保証であるにもかかわらず、非常時においても国家(国民)の安全よりも上にあるかのように金科玉条とみなしているところに問題がある。
 評論家の八幡和郎氏が「野党はもはや『腐った魚』だ」(同上誌)と言い、政治ジャーナリストの石橋文登氏が「バカのクラスターを一掃せよ〈枝野、蓮舫、福山らどうしようもない野党幹部〉」(同誌6月号所収)というのも頷ける。
 「無責任な立民とか国民とか共産とか、そういう野党の皆さんは言う資格がない。・・・1月2月のコロナ危機が迫るなかで、彼らは桜と森友の話ばっかりやってたわけですからね。・・・選挙目当てのパフォーマンスしてる人たちはもう出て来ないで」と、松井一郎・日本維新の会代表に言わしめている。

 今はどうか。政府・与党は第2次コロナ感染者増大の兆しと経済活動再開の節調に苦悶しているが、野党はコロナなどどこ吹く風の体で合流・再編の話ばかりだ。
 国際情勢が日々激変している状況にあって、世界に目を開いて「日本の安全」のために政府や与党を叱咤しない野党は無益どころか、足を引っ張る邪悪な存在でしかない。

 民主党に始まって、党名を変えながら、分裂や合流を繰り返し、「国家の存続」も「国民の安全」も頭にない。
 信念も勇気もなく、議席確保に汲々としている烏合の衆は国家の損失である。
 民主党政権の樹立にかかわった人士、就中、当時の幹部たち、そしてまともな質問もできない議員たちは消えて、信念を持った若い世代にバトンタッチしてほしいものだ。

 それにしても、なぜこうも、視野狭窄症の日本、特に野党議員たちが増えたのだろうか。

■ GSSで腑抜けの日本? 
 戦後の日本、いや、戦後も戦争体験者である明治、大正、昭和初期生まれが健在していた時代は、是非善悪はともかくとして「国家」という意識と、「国家」に対する思いが温存されていた。
 しかし、戦後生まれの国民が中心的存在になってくると、核家族の出現で家庭崩壊が始まり、その子供たちが学校に行きだすと学級崩壊につながっていく。
 家庭で国旗を掲げるところは少なくなり、学校では国旗掲揚も国歌斉唱もほとんどなくなり、卒業式などの特定日に掲揚・斉唱することにさえ反対する混乱が起きるようになった。

 前出の堤堯・久保紘之両氏の「蒟蒻問答」は歴史を鑑として焦点になっている問題を取り上げるので含蓄がある。
 昨夏は高校野球、ラグビー、オリンピック前年などが話題を盛り上げていたが、今年は新型コロナウイルスの蔓延で様変わりである。
 久保氏が米国は「3S(スポーツ・スクリーン・セックス)で日本人を腑抜けに・・・いまはGSS(グルメ・スポーツ・スマートフォン)」というと、堤氏が「パンとサーカスで骨抜きにされちゃった」と応じる阿吽の呼吸が見事である。

 アテネでは市民の観劇費(テオリコン)を税金で賄っていたが、マケドニアが軍事的脅威になると政治家デモステネスが観劇費を防衛費に充当せよと提案する。 
 そこでアテネ市民は民会を開き「テオリコンを削ろうとするものは死刑に処す」と決定し、デモステネスを追放する(久保氏)。
 ここで、アテネ市民を野党や国会デモ参加者に、テオリコンをGSSに、マケドニアを中国や北朝鮮に、デモステネスを安倍(首相)に置き換えるとそっくり日本の状況だという。

 安保法制から始まって特定秘密保護法などは、日本の安全保障を確かなものにする一里塚で、最終的には憲法改正で自衛隊を「国を守る」組織として憲法で位置付ける算段であるが、野党や憲法学者らとその走狗となる国会デモ参加者は、「安倍嫌い」で反対する本末転倒である。

■ 職責をかけて発言した栗栖弘臣氏
 戦後の平和ボケを最も強く感じ、職責をかけて闘ったのは自衛官の最上位にいた栗栖弘臣・統合幕僚会議議長であった。
 氏は今の法体系では有事に自衛隊は動けない。国と国民を守るためには超法規的に行動せざるを得ないという趣旨の発言を週刊誌上で行い、文民統制に違反したとして防衛庁長官から罷免された。
 統幕議長としての発言であったが、その裏には法律の専門家という自負があったことも確かである。

 氏は東京帝国大学法学部を卒業すると、高等文官試験行政科に首席で合格し内務省に入省する。
 時は大東亜戦争中のため、帝国海軍士官を志望し、海軍将校として南方戦線に従軍する。
 戦後は現地に残って戦犯の特別弁護人を務め、帰国後は弁護士となる法律の専門家でもあった。
 氏の発言から25年後の2003年に有事法制として一部整備されたが、有事に真に国や国民を救える法体系にはいまだ至っていない。
 遺言ともいうべき『日本国防軍を創設せよ』で、氏は「法令は平時の社会秩序を維持しようとするものであり、平穏が乱れた際にもその法令を墨守しようとするのは、目的を無視し法文のみに固執する法匪である」と弾劾している。
 また著名なドイツ法学者の「もし憲法が非常事態克服の配慮をしていない場合は、責任ある国家機関は決定的瞬間において憲法を無視する外はない」を引用して警告した。 

■ 平和の毒・病で重病の日本
 日本の安全はすでに1990年代から軍事力を増強する周辺国によって危機に直面しているが、憲法で平和に徹するとした日本を攻める外国などあるはずがないとか、いざとなればアメリカが助けてくれるなど、現実に目を向けようとしなかった。

 筆者が自衛隊入隊した昭和33年頃は、東京の中心、神宮の杜で総理大臣を観閲官に迎えて自衛隊記念行事が行われ、絵画館前の周回道路でパレードを行っていた。
 今日の国民の多くは「災害派遣」で役立ってくれる自衛隊という認識を強くもっているが、轟音を轟かせて市中を走る戦車や自走砲を見ていた当時の国民は「国を守る」自衛隊の認識を持っていたし、「国防」意識が国民の頭にあった。
 また、陸、海、空の各自衛隊がそれぞれ毎年観閲式を挙行して、国の守りは万全であると国民に雄姿を披歴していたが、美濃部亮吉氏が東京都知事(1967~79年)となり革新都政が始まると都心では観閲式ができなくなり、郊外の自衛隊駐屯地でおこなわれるようになる。
 さらに予算の確保が難しくなってくると、陸海空自衛隊による毎年開催から持ち回り開催となり、国民への披露の機会もどんどん制限され、国民の間では国防の自衛隊から災害派遣の自衛隊へ転換され、国際情勢が反映されず、相対的に弱体化される自衛隊になっていく。

 軍隊は外国対処が目的で、(戦時)国際法を適用され、迅速な移動や想定外の行動に対応しなければならないことなどから、基本的に国内法の適用を受けない。
 イタリアのアッピア街道、ドイツのアウトバーンが軍用道路として整備されたように、日本の主要な道路も当初は師団司令部を結ぶように整備されていった。
 今日の高速道路が有事においては軍の活用(専用道路、緊急滑走路、ヘリ発着場、物資集積場など)に供するように建設されていることは言うまでもない。
 ところが、軍隊でない自衛隊の日本は、有事を前提にしていないため、東日本大震災などが起きた場合にも、高速道路を滑走路やヘリ発着場などに使えず、自衛隊車両は信号灯を順守し、警察官の先導に従わなければならなかった。
 国民は「平和の毒」(石原慎太郎著書名)に侵され、「平和という病」(樋口恒晴著書名)にかかっている。
 したがって、日本を取り巻く国際情勢がどんなに変わっても、小手先で法律の字句を1、2修正し、予算を心持かさ上げするだけで、自衛隊の能力アップにも現状打破にもつながらない。

■ おわりに:ふさわしい党名は「野合党」「絶望党」
 立憲民主党と国民民主党の合併問題が再燃(いや再々燃? )している。
 政党であるならば理念が先にあるべきであろうが、自民党に勝つためには合併以外にないという「数」の論理で協議が行われている。
 理念も国民も忘れた、ただ選挙で多数を獲得するという目的だけのために多大の時間を費やす両党にはあきれてさじを投げこそすれ、期待することはできないに違いない。

 米国がウイグル人の人権、台湾の安全、香港の自由(一国二制度)など、対中関係で次々に対応策を打ち出している。
 しかし、その米国は建国の理念から、いざとなれば不干渉政策に帰ることもできる。
 最も影響を受けるのは日本である。
 古来日本は中国の影響を受けてきたが、今後予想される影響は放置すれば選択の余地を許さない強権的な甚大な影響かもしれない。
 そうであるならば、今の段階で国際情勢、中でも近隣諸国の推移を議論し、日本的関与で少しでも日本の自主性発揮ができる余地を確保しなければならない。
 政府は当面の課題であるコロナ問題と経済活動再開に忙殺されているが、明日を見定めた施策を提示して、政府・与党を議論に乗せる野党を目指すのでなければ、「野合党」か「絶望党」にしかなりえないのではないだろうか。

                                転載終わり。



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