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ちひろBLUESこと熊谷千尋のブログです。

十日町シネマパラダイスで、河瀨直美監督の『光』を観て来ました!

2018-01-31 23:14:02 | Weblog
一つ前の記事に書いた十日町観光の続きです!
初の十日町シネマパラダイス!そして突然の十日町観光へ!





と言う訳で、『あん』の河瀨直美監督の最新作『光』、新潟県内では十日町シネマパラダイスのみでの上映ということで、観に行って来ました。
ちょうど、十日町シネマパラダイスが3月で上映が終了してしまうというタイミングだったので、その前にずっと気になっていたシネマパラダイスに初めて行くことが出来て良かったです。



と言う訳で、『光』の感想を書いていこうと思います。
ひとまず予告編はこんな感じです。





『光』はどんな映画かと言うと、この映画の主人公・美佐子は、視覚障害者の方のために映画に状況説明の音声ガイドを作る仕事をしている女性です。
最近では音声ガイド付きの上映も珍しくはなくなってきた現代ですが、こういう仕事をしている人にスポットを当てた作品を見たのは初めてでした。

また、主人公が作った音声ガイドを実際に視覚障害者の方に聞いてもらって、内容を判断してもらい修正していくという様子が作中で描かれるのですが、こういう過程を経て音声ガイドが作られていたということも、この映画を観て初めて知りました。
今思えば、同じ川瀬直美監督の前作『あん』は、ハンセン病の患者の方にスポットを当てた映画だったので、こういう世の中であまり知られていない世界にスポットを当てるのは、川瀬直美監督の作風なのかも知れません。



さて、そんな主人公は、ある日、映画の音声ガイドを仕事として聞いてもらった一人の男性から、「あなたの音声ガイドはあなたの主観で決め付けて書いている」みたいな批判を受けます。
ほどなくして、彼女はその男性・雅哉が、実は弱視のカメラマンであることを知り、彼の写真集を見た彼女は、一枚の夕日の写真に惹かれていきます。

その後、ふとしたことがきっかけで再会した二人の間には交流が生まれて行くのですが、やがて美佐子は雅哉の言葉では言い表せないような深い気持ちに触れることになります。
美佐子を水崎綾女さん、雅哉を『あん』でも主演を果たした永瀬正敏さんが演じ、この二人を中心として物語が進んでいきます。



僕がこの映画で一番感動したのは、何と言っても弱視のカメラマン・雅哉を演じる永瀬正敏さんの演技です。
弱視のため常に壁などに触りながら移動するリアリティや、弱視にも関わらずカメラを大切に手放さずに貪欲に写真を求め続ける姿は、まるで微かな光を探し求めるようで、その迫真の演技は胸に迫るものがありました。

どうしてそうまでして彼は写真にこだわるのか、それは映画の中では言葉では語られませんが、あくまで演技によって彼の尋常ならざる写真への、もっと言えば光への強い思い入れがあることが伝わり、やっぱり永瀬正敏さんは本当にすごい俳優だなあと思いました。
そして、そんな彼の姿こそ、見えないものを必死に見ようとすること、届かないものに必死に手を伸ばそうとすることであり、これこそが、この映画の大きなテーマなのではないだろうかと、僕は思いました。



例えば、主人公の美佐子は、音声ガイドの仕事をしていますが、本人は決して目が見えないわけではないので、視覚障害者という立場の人の気持ちを本当の意味で理解することの難しさに直面します。
しかし、それでも必死に理解しようともがきながら、何度も何度も試行錯誤を繰り返しながら、音声ガイドの言葉を書き直します。

他にも、美佐子には認知症になった母がいるのですが、徘徊して行方不明になった母を探し求める姿もまた、もう分かり合えないかも知れない母ともう一度出会いたい、分かり合いたいという必死に願う姿そのものだったのではないでしょうか。
やっと母と再会できた美佐子が、そこで母と二人で夕日を眺めるシーンも登場するのですが、美佐子の母は認知症とは言え、昔一緒に見た夕日の思い出は覚えていて、そしてまた二人で同じ夕日を見ることが出来るというあのシーンからは、やはり、きっと人は分かり合えるのではないか、そんな希望を感じました。



そこまで彼女を変えたものこそが、雅哉との出会いだったのではないでしょうか。
見えなくなりそうな光を必死に見ようとする雅哉に出会い、彼女も雅哉の気持ちを知りたい、近付きたいと願うようになり、そのことが彼女の中の何かを決定的に変えたのではないかと思うのです。

弱視の雅哉が必死に撮影した美しい写真、また、そうまでして必死に写真を撮ろうとする雅哉の姿こそ、美佐子にとっては「光」だったのかも知れません。
また、雅哉にとっても美佐子との出会いは、人間と人間の触れ合いの大切さに気付かされる、「光」のような出来事だったのかも知れません。



しかし、そんな風に少しずつ希望が見えてくるような物語の後半で、詳しくは書きませんが、雅哉が自分にとっての希望をすべて投げ捨ててしまうような驚きの展開を迎えます。
そこで一気に絶望に物語は向かうのかと思いきや、そこで美佐子がとったある行動こそ、そんな絶望に向かいそうな雅哉を必死に引き留める行動そのものだったように思います。

人間は一人きりでは絶望に陥ってしまうけれど、誰かと出会うこと、触れ合うことによって救われることもある。
そして、そんな誰かを必死に求める行為は、微かな光に手を伸ばす行為に似ており、人間とはそうやって微かな希望を求めながら生きて行く存在である…そんなことをこの映画から言われたような気がしました。



映画のラストは、美佐子が音声ガイドを作った映画を、雅哉が観に行くというシーンです。
そこで美佐子が映画の冒頭で雅哉に批判されてずっと言葉に迷っていたシーンが登場し、美佐子が作った音声ガイド、言い換えれば美佐子の出した答えが明らかになったところでこの映画は終わります。

そのシーンを見た時、何て言うか、「なるほど!」とこの映画が描いてきたそれまでの全てが一つに繋がるような感動がありました。
また、同時に美佐子の言葉が映画を通して間接的に雅哉の心を動かしたような感動もあり、しかもそれを映画で観ることによって、映画というものは色々な人の気持ちを伝えることの出来るものなんだなあ…という感動もありました。



と言う訳で、「光」、観ることが出来て本当に良かったです!
いやー、十日町シネマパラダイスまで観に行った甲斐があったぜ!
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