友人の與那覇が新潟に遊びに来た時に、與那覇が家の中でも外でもはっちゃけまくっていたのが私は面白すぎて、一緒になってはっちゃけまくっていたら、ついつい調子に乗りすぎてしまっていたようだ。
前日の夜に、友人のさくらもみぢからメールが来ていたのだが、その返信をすっかり忘れてしまっていたのだ。
もみぢのメールのことを思い出したのは、そのさらに翌日、與那覇が帰っていった後であった。
しかし、だからと言って、すぐに「やっちまった!」と焦ることはなかった。メールの返信を忘れる、そんなことは我々にとって日常茶飯事である。
もみぢとは長い付き合いだし、言わなくても分かり合えることもあるくらい仲がいいのかもしれないが、実はそれはお互いに気を遣い過ぎないし、期待し過ぎない、という微妙な距離の取り方があってこそのことである。
メールの返信がなかったくらいでは、「まあ何か事情があったんだろ」くらいに考えてそこに苛立ったりしたりしないし、万が一相手が完全に忘れていたとしても「まあこいつそういう奴だし」程度にしか考えないという、要するにお互いのことが適度にどうでもいいのである。
だからこの時も、私は大して悪びれもせず、「悪い悪い忘れてた」などと何事もなかったかのように返信しようとした。
が、その途端、私の頭の中に、もみぢの心境がありありと思い描かれてしまったのであった。返信しようとタブレットを持った私の指がふと止まる。
確かに私ともみぢは、お互い大したことは気にしない仲である。それまで私は、もみぢとは互いをあまり気にしないという適度な距離を保つことで、良好な関係を築いてきた。
その関係が崩れたことはない。しかし、私ともみぢは親密になり過ぎたあまり、その関係があくまでも表面上のことに過ぎないということにさえ、二人とも気付き始めてしまっているのである。
私ももみぢも人間である。お互いをそこまで気にしないとは言え、そこそこは気にするのであるのである。穏やかな心にわずかなさざ波が立つくらいのことはある。
そのことに、二人とも気付き始めてしまっているのである。お互いの気持ちが分かるほどの信頼関係はそれは素晴らしいことだが、それ故に、相手の気持ちが見えすぎてしまうこともあるのだ。
だからこそ、親しき仲にも礼儀あり、なのである。
つまり何が言いたいかって言うと、いくら大したことではないと言ってもメールの返信くらいはちゃんとするに越したことないわけなのだ。
相手に止むに止まれぬ事情があったのならば、腹を立てる理由もないだろう。しかし、今回の自分はどうだっただろうか。メールの返信を忘れていたこの二日間を振り返る。
些細な日常を振り返る、私の場合、その最も手っ取り早い手段はTwitterである。何しろ私はツイ廃なのだ。日常生活の大半をTwitterに投稿し全世界に公開している。
この二日間の私の生活はTwitterを振り返るまでもなかった。初めて新潟の地を訪れた旧友、與那覇と遊び呆けていたのである。
言うまでもなく、私は彼の面白い言動や写真をTwitterに投稿し続けていた。返信を忘れていた理由もあまりに明白である。もみぢがそのことに気付いていないはずはなかった。
新潟を初めて訪れた旧友、與那覇との再会であれば、もみぢはそれを受け入れるだろう。與那覇に対してはもみぢも好印象を持っているだろう。
私にとって與那覇との再会がいかに重要な意味を持つかを、私のよき理解者であるもみぢならば、考えるまでもないだろう。
とは言え、私がもみぢとの返信を完全に忘れてしまうほど與那覇との再会を楽しんでいたと言えば、彼女はどう思うだろうか。
そしてこの微妙な心境で、もみぢにどう返信すればよいのだろうか。
結局、私は返信でいつものようにもみぢに軽く謝り、いつものように何気なく取り付けた約束で、後日あらためて会うことになった。
そして、その翌日、私はもみぢの家に向かった。
会って早々、私は「この前はメール忘れててごめん」と謝った。
案の定、もみぢは言った。「いいよいいよ、気にしないから」と。
しかし、私は気付いている。今は気にしていない言っているもみぢが、昨日私からの返信を見るまでは、それなりに気にしていたに違いないことに。
そして、きっともみぢも気付いている。そのことに私が気付いてしまっていることに。そして、それ故に、私がこれまでのもみぢとの距離の取り方を図りかねていることにも。
良好な関係を気付いてきたと信じて疑わなかった私達は、この先どうなっていくのであろうか。
それは私達にも分からない。今はただ、言葉を交わしていくだけなのだ…
ちひろ「・・・っていう夢を見たんだよね」
もみぢ「リアルすぎるだろ!!!!!!!」
11月24日、深夜、もみぢ宅での会話である。
前日の夜に、友人のさくらもみぢからメールが来ていたのだが、その返信をすっかり忘れてしまっていたのだ。
もみぢのメールのことを思い出したのは、そのさらに翌日、與那覇が帰っていった後であった。
しかし、だからと言って、すぐに「やっちまった!」と焦ることはなかった。メールの返信を忘れる、そんなことは我々にとって日常茶飯事である。
もみぢとは長い付き合いだし、言わなくても分かり合えることもあるくらい仲がいいのかもしれないが、実はそれはお互いに気を遣い過ぎないし、期待し過ぎない、という微妙な距離の取り方があってこそのことである。
メールの返信がなかったくらいでは、「まあ何か事情があったんだろ」くらいに考えてそこに苛立ったりしたりしないし、万が一相手が完全に忘れていたとしても「まあこいつそういう奴だし」程度にしか考えないという、要するにお互いのことが適度にどうでもいいのである。
だからこの時も、私は大して悪びれもせず、「悪い悪い忘れてた」などと何事もなかったかのように返信しようとした。
が、その途端、私の頭の中に、もみぢの心境がありありと思い描かれてしまったのであった。返信しようとタブレットを持った私の指がふと止まる。
確かに私ともみぢは、お互い大したことは気にしない仲である。それまで私は、もみぢとは互いをあまり気にしないという適度な距離を保つことで、良好な関係を築いてきた。
その関係が崩れたことはない。しかし、私ともみぢは親密になり過ぎたあまり、その関係があくまでも表面上のことに過ぎないということにさえ、二人とも気付き始めてしまっているのである。
私ももみぢも人間である。お互いをそこまで気にしないとは言え、そこそこは気にするのであるのである。穏やかな心にわずかなさざ波が立つくらいのことはある。
そのことに、二人とも気付き始めてしまっているのである。お互いの気持ちが分かるほどの信頼関係はそれは素晴らしいことだが、それ故に、相手の気持ちが見えすぎてしまうこともあるのだ。
だからこそ、親しき仲にも礼儀あり、なのである。
つまり何が言いたいかって言うと、いくら大したことではないと言ってもメールの返信くらいはちゃんとするに越したことないわけなのだ。
相手に止むに止まれぬ事情があったのならば、腹を立てる理由もないだろう。しかし、今回の自分はどうだっただろうか。メールの返信を忘れていたこの二日間を振り返る。
些細な日常を振り返る、私の場合、その最も手っ取り早い手段はTwitterである。何しろ私はツイ廃なのだ。日常生活の大半をTwitterに投稿し全世界に公開している。
この二日間の私の生活はTwitterを振り返るまでもなかった。初めて新潟の地を訪れた旧友、與那覇と遊び呆けていたのである。
言うまでもなく、私は彼の面白い言動や写真をTwitterに投稿し続けていた。返信を忘れていた理由もあまりに明白である。もみぢがそのことに気付いていないはずはなかった。
新潟を初めて訪れた旧友、與那覇との再会であれば、もみぢはそれを受け入れるだろう。與那覇に対してはもみぢも好印象を持っているだろう。
私にとって與那覇との再会がいかに重要な意味を持つかを、私のよき理解者であるもみぢならば、考えるまでもないだろう。
とは言え、私がもみぢとの返信を完全に忘れてしまうほど與那覇との再会を楽しんでいたと言えば、彼女はどう思うだろうか。
そしてこの微妙な心境で、もみぢにどう返信すればよいのだろうか。
結局、私は返信でいつものようにもみぢに軽く謝り、いつものように何気なく取り付けた約束で、後日あらためて会うことになった。
そして、その翌日、私はもみぢの家に向かった。
会って早々、私は「この前はメール忘れててごめん」と謝った。
案の定、もみぢは言った。「いいよいいよ、気にしないから」と。
しかし、私は気付いている。今は気にしていない言っているもみぢが、昨日私からの返信を見るまでは、それなりに気にしていたに違いないことに。
そして、きっともみぢも気付いている。そのことに私が気付いてしまっていることに。そして、それ故に、私がこれまでのもみぢとの距離の取り方を図りかねていることにも。
良好な関係を気付いてきたと信じて疑わなかった私達は、この先どうなっていくのであろうか。
それは私達にも分からない。今はただ、言葉を交わしていくだけなのだ…
ちひろ「・・・っていう夢を見たんだよね」
もみぢ「リアルすぎるだろ!!!!!!!」
11月24日、深夜、もみぢ宅での会話である。