クラシック音楽コンクールの審査では、取り上げた作曲家に対するリスペクト度合いが大きな基準になっているといいます。
本人の演奏録音が残っている作家も、近代であれば存在しますが、ほとんどは譜面だけです。
つまり耳コピはできないわけです。
譜面から作家の演奏家に対する要求を、全て読み取る作業は至難の技でしょう。
書道の古典臨書においても、同じような事が言えます。
まず、当たり前のことですが、書いている時の姿勢、執筆法、運筆法などは、動画があるわけではありません。
文章が残っている場合もありますが、どうもよく分からない文言もあったりするようで、多くの人が多くの時間をかけて解き明かしてきたようです。
現代人である我々はそのエッセンスをいただいて、現代の演奏家と同様、時間を無駄にすることなく書に向き合えると云うわけです。
それが無駄かどうかは分かりませんが、、、。
臨書には、
⚫︎形臨
⚫︎意臨
⚫︎背臨
の三段階の進化過程があり、その先に創作があると言われています。
クラシック音楽コンクールでは、意臨のレベルが求められるのではないでしょうか。
今回書いたのは、欧陽詢が七十歳を大きく超えた時に書かれたとされる『九成宮醴泉銘』
楷書の完成形とされ、後に多くの者が楷書の手本とした碑石の拓本の中から、お気に入りの一文字を選んで、リスペクトしながら背臨したものです。
欧陽詢とその書を敬いながらも、私なら『こう書きたいです』『どうですか?』と、欧陽詢に尋ねる気持ちで書いてみたわけです。
これは面白い中心の取り方を意識して、バランスよく書いてみました。
欧陽詢の楷書の特徴をざっくり言えば、右肩上がりと、風通しの良さ、そして特徴的なポイントを一つ作るところではないでしょうか。
右肩にあげることで文字に生命力を与え、その角度を統一することで、一定の規則性を文字に与えて暴走をさせないコントロールを目指していると言えます。
中には角度の違うものもありますが
一画目二画目三画目の横画は角度が違っていますが(二画目と三画目の緊張感あふれる空間がポイントです)、その延長線を伸ばすと一点で結ばれます。
しかしこの手法は、旁に横画がない場合でしか使えない様に思えます。
これを『觀』のどこかで使ったとしたら。上手くバランス取れる自信ありません。
やれるとしたら『見』の中の横画の下の方を少し角度違えてアクセントつけるぐらいでしょうね。
『觀』は角度もさることながら、風通しの良さを意識して書きました。
スッカスカではないけれど、空気がどこかで淀まない様にしたのです。
『九成宮醴泉銘』は楷書の基礎ですが、ごまかしがきかないのでとても難しいお手本です。
『九成宮に始まり、九成宮に終わる』
と言えるのかも知れませんね。