悠翠徒然

画像中心

狂草

2017-04-29 09:24:13 | Weblog
草書をさらに崩した書体と説明するのがわかりやすいと思います。

これは唐時代に活躍した草書を得意とした、懐素の作品です。



喜怒哀楽の激しい書ですね!

漢字ではありませんが、トランプ大統領のサインも『狂草』のように思えますね(笑)



『心電図のようだ!』と言われているそうです。

こちらはもっとひどい(笑)



上が『まるで試し書き!』と言われた、ルー元米財務長官のサインです。

下のサインは、その指摘を受けて修正したものなのだそうです、、、、

上のサインはまだマシ、的な感じですね(笑)


懐素は酒を飲んでは草書をどこにでも書いたと言われています。

またそのスタイルが当時流行ったのだとか。

YouTubeで懐素の狂草を書いている映像がいくつかあります。

形臨はじっくりと形をとって書くので、筆速は遅く筆勢も懐素とは程遠いものですが、それが意臨となると、筆が紙の上をスケートリンク上を自由自在に気持ちよく滑るスケーターのようになります。

そして背臨となると、激しい感情が筆先に溢れ、その熱に映像を見ているだけでも火傷しそうな気持ちになってしまいます!

喜怒哀楽を表現することに長けている当時の漢民族に広く受け入れられたであろう事が理解できるパフォーマンスです。

そう、このパフォーマンスが狂草にとってとても大切な事だと思います。

『書く事で魅せる』

そのためには酒に酔ってでも、パフォーマンスレベルをあげる!

まさに死力を尽くしたパフォーマンスですね。

しかし、懐素は本当に酔ってこんな線が書けたのでしょうか?

トランプ大統領はサインするとき酔っていませんよね?(笑)

お酒に強かった、そしてお酒が大好きだった。

酔って書いてみたら意外な面白さが出ていて面白かった。

そしてそれを求められるので、のめり込んでしまった、というところでしょうか(笑)

『アゴ付き』に『お車代』ぐらいはついてくるのですからね〜

良寛さんとは対極にある感じがしますね(笑)

どちらが良いとか悪いとかの話ではありません。

どちらもとても素晴らしい能書家であり、書です。

どちらがそれぞれの民族に受け入れ易かったかという事です。

そこにそれぞれの民族性を見る事が出来るのです。

漢民族とアングロサクソンの共通点を、狂草とサインから感じ取る事は、少しお遊び的ではありますが、今の世界情勢の緊張感と照らし合わせると、なんとなく合致しているように思えてならないのです。

これと

これに

これで

渡り合おうっていうんですから、
面白いじゃありませんか。

懐素と良寛さんに西洋花札と一緒にするな!
と叱られますね。

失礼いたしました。
















天丼屋さんの店名文字

2017-04-29 00:07:39 | Weblog
一発で気に入っていただけた様です!

わかっていただけてとても嬉しいですね〜

ギャラは前回お話しした通り、天丼一杯(笑)

すでにオープン2日目にして満員御礼なのだとか!

しかし店名のロゴ決まってないままにオープンするなんて、中々肝っ玉のあるオーナーさんなのかれませんね(笑)

私が30年以上前にスタジオをオープンさせると決めた時、スタジオ名を決めたらそのロゴも同時に決めたものですけどね。

私の場合は、スタジオ名はプロにいくつか選んでもらってから選び、そのロゴもプロにいくつか作ってもらってから選びました。

もちろん天丼30杯分ぐらいはかけましたけどね(笑)

起業してその会社を30年以上継続できる確率はとて低いそうです。

それは誠実さと運がなければ実現できません。

私は誠実な仕事を目指してきただけです。

あとは運、、、、。

真面目に仕事に取り組んでいれば、あとは『運』さえあれば仕事はずっと上手くいくのです。

その『運』に見放されずにやって来られた私が、『商売繁昌』の気を込めて書いた文字であることは間違いないのです。

先日納品した茶室の扁額も、『社中の幸せと発展』を文字に込めて書きました。

今日たまたま茶室の前を車で通りがかったのですが、私の書いた文字を彫った扁額が、すんなりと茶室の外側に飾ってありました。

この『すんなり』こそ、私が求めた茶室の扁額の佇まいそのものです。

目立ちすぎず、争わず、威張らず、ただそこにある佇まい、、、。

きっと、茶室の歴史を末長く見守ってくれることでしょう。


私が書の作品に込める気は、組織というシステムを作る中で得てきた物です。

松下幸之助でも本田宗一郎でも、田中角栄でもありません(笑)

それでも、私が数十年かけて作り上げてきたシステムで暮らしている人達がいる。

そして、そのシステムを使って自分の夢に近づこうとしている若者達が大勢いる。

こんな歓びって中々得られない物だと思います。

幸運です。

小さいシステムだけれど、それこそ次の世代に遺したい社会資本にも似た私の宝物です。

その宝物を作る過程で得てきた物を、文字に込めているのです。

隋や唐時代の書家は、ほとんどが政治家か僧侶です。

専門職として書家が成立していたわけではありません。

能書家と言われる人たちです。

詩を読み、絵を描き、書も嗜む、知識階級の政治家だったのです。

『芸術家でございます』ではなく『芸術を嗜む偉人』だったのです。

自分の感性の特殊さだけをことさら持ち上げている自称芸術家もどきがいますが、それはただ生まれ持ったほんの少しの特異性を自慢しているだけにすぎません。

彼らは常に社会から離れたところにいて、自分の周りの大切な社会を大きな力から守る戦いを放棄した卑怯者です。

そんな芸術家の作り出した物が、誰に影響を与えるというのでしょうか?

あ、ちょっと熱くなりすぎましたね(笑)

ま、テキトーに本気、がよさそうです。

今日はおしまい。

もう寝ます〜