しばらく時間が経ってから写したので、シワシワになっちゃいました〰
重くて深い内容をど正面から受け止めて、大上段からスッと振り下ろした感じで仕上げたかったのですが、所々に暑っ苦しいところが残ってしまいました。
反省点1
『太』の二画目の起筆はやり過ぎ感が、、、。
太い線を出さずに、『太さ』や『大きさ』『大切さ』を出したかったばかりに、ここに気合いが入り過ぎたかもしれません。
反省点2
『有』の一画目は少し存在感あり過ぎたかな。
少々重いです。
反省点3
『有』の『月』部分は、背勢にこだわるあまり、右側の縦画が太くなり過ぎました。
背勢により既にどっしり感が出ているにもかかわらず、太さで一、二画目の上部を支える下部にしようとしたのが失敗だったかな。
全ては一画目の重さに原因があるように思います。
反省点4
『立』の一画目、並ぶ『太』の二画目と被らないように書いたのですが、それが少しあざといかもしれません。
『太』二画目のやりすぎ感が、影響しているのです。
反省点5
『徳』行にんべんの縦画のトメが、『有』三画目のトメと被らないように書いたのですが、真横の『心』の一画目と被った感が出てしまいました。
遠くを気にするあまり、隣に気遣えなかったなんて、、、、
灯台下暗し、とはこのことです(^○^)
反省点6
全体的に横画の『トメ』部分を、微妙に変えてみたのですが、本当に微妙すぎて(^○^)ぱっと見よく分かりません、、、、
もちろん、分かりやすく無く、鑑賞時間が長ければ長いほど、後からじんわりと内容に対する書き手の解釈が伝わってくる書を求めているのですが、微妙に変えることで、あざとさが出てしまう事があるのです。
それは全ての線や点画を、コントロール下に置こうとする書き手のエゴイズムが出てしまうからだと思うのです。
楷書作品は特にそうなりがちです。
かと言って、ジャズのインプロビゼーションのような感覚がないわけではないのです。
あるのですが、それを完全に掌握したかのような感じが、書技からにじみ出てしまうとかダメなのです。
そこへ行くと、行書や草書は自分でコントロールしきれていない部分があって、それが表現されやすい。
コントロールしにくい柔らかい毛の長鋒を使って書く人が多いのは、コントロールしきれないものをコントロールしようとする葛藤から生まれる緊張感を作品のベースにしようとしているかだと思うのです。
でも私は楷書を柔らかい長鋒で書きたくはありません。
楷書作品は完全に自分の掌握下に置きたいのです。
そのエゴさが出てしまっているところが、大きな問題なのです。
他のことはどうでもいいのに(^○^)、楷書とドラムのレコーディングだけは完全に掌握したものを残したいのですから、そこは少々厄介、、、
完全主義と言っても良い高橋鵞翠の作品には、そのような問題点はありません。
高い技術よりも、まず心を感じられるのです。
それは、墨色よるところが大きいかもしれません。
負け惜しみ(苦笑)
滲んだ朱墨じゃ、ダメなことは事実です〰
今回アップしたものは習作なので、反省点の良き教材となれば嬉しいです。
漢字にはそれぞれ意味があり、文章になればさらに奥深い意味になります。
それを書き手がどう理解して、線や点画に気持ちを込めて、作品に魂を入れようしたのかを、鑑賞者のレベルに関係なく伝えられるものでなければまだいけません。
発表しないしない事を前提とした日記は、ありがたくも古今東西に例外はありますが、本来文学にはなり得ないのです。
評価されることを前提としていないからです。
教科書に描いた漫画などのいたずら書きも同様です。
その無心さを、鑑賞者に評価されることがあっても、失ってはいけないのです。
第三者の鑑賞者を意識したのち、深く自分の中に入り込んで、ドロドロしたものや、キラキラしたもの、サラッとしたものが混在して溜まっている池に筆をつけ、一気に書き上げる事が肝要です。
その流れだと、やっぱり楷書は書きづらい(^○^)
自然な感じで楷書を書く事が出来ればなぁ〰
やっばり行き着くところは良寛さんなのかなぁと。
しかし、あえて挑戦し続けたいのです。
でも、頑張ってもあと20年ぐらいで、自分が理想とする楷書の線は書けなくなるでしょう。
その時精神が崩壊して行くのか、新たな道を探しだせるのか、先生に聞いておけばよかった、、、
聞けるわけないか、、、、
今私の部屋には鵞翠先生晩年のカナ作品を飾っています。
鵞翠先生の流麗なかな作品とは全く趣の違う、ゴツゴツした存在感ある作品です。
鵞翠先生がたどり着いたところだったのかもしれませんね。
毎日眺めて勉強します。