そんなドキュメンタリー映画をケーブルテレビで見ました。
テーマは『右対左』
東大900番教室で繰り広げられた、三島由紀夫一人対全共闘千人のシンポジウムの記録映像を中心とした映画。
一人を守ろうとする『楯の会』のメンバーも隠れて参加していたとあるし、このシンポジウムを潰しにかかろうとしていた『民生』のメンバーもいただろうし、多分公安もいただろう、緊迫の討論会です。
三島由紀夫の『吊し上げ』になるかも、と思われたようでしたが、当時の全共闘きっての論客家と言われた芥と三島の理論武装された破綻無い対立したり近づいたりするやり取りから、破綻した理論の個人的理由まで吐露した、三島由紀夫の真摯な言葉に感心しました。
結果、三島由紀夫も全共闘も、『敵』としているのは同一であって、共に戦う事もできる可能性まで示して900番教室のシンポジウムは終わるのですが、私にとって興味深かったのは、敗退した全共闘のその後と、三島由紀夫にとっての『天皇』の存在でした。
『嗚呼、そうだったのか、、、』
私は、約半世紀かかって、三島由紀夫の言葉に腑に落ちることができたのです。
全共闘の運動は国家権力によって潰されますが、参加した多くの学生やその思想は広く日本の社会に入り込み、今日の日本社会に深く関わっているのだとおもいます。
社会の一員を自覚しながらも、自分で考え自分で行動する姿勢は、多分そこから来ているのです。
だから昨年の緊急事態宣言と今回の緊急事態宣言とでは、多くの人々の考え方も行動も違うのです。
法治国家として国民を押さえつける法律が無く手をこまねいている国家権力に任せられないのだから、
『権力を恐れる事なく都度都度毎に正義を考えそれを規範に動くよ』と言う、
一人一国家宣言みたいなもんです。
でもそれらの根幹はもっと深いところにあると、三島は言っている、、、。
恐ろしくも、明確で、腑に落ちる文化論の一言に、私の青春時代からこれまでの人生の必然性が一気に甦り、今、納得できた気になっています、、、
『浅いんだよ君は』と三島由紀夫に言われるんだろうなぁ〰(⌒▽⌒)