蔵書目録

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「伊澤修二先生」 田村虎藏 (1926.12)

2021年03月19日 | 音楽学校、音楽教育家

我國敎育音樂の創設者としての
   伊澤修二先生
           田村虎藏

 我國敎育音樂としての濫觴は、去る明治五年、我文部省が學制を頒布せられた際、普通教育の教科目中に、唱歌と云ふ學科を加へられたのにあります。が勿論これは單に、當局者の立案になったものであって、これが實施は何處にも見られなかったのであります。
 こゝに信州上伊那の産で、伊澤修二と云ふ天才的大偉人が顯はれたのであります。氏は頭惱明晰ー精力絶倫、特に創設の才に富み、一心徹底的のお方でありました。ですから、明治七年の三月、年僅に二十四歳で、時の官立師範學校の一つである、愛知師範学校長になられたのでありましたが、その際、この師範學校の附屬事業として、今日の幼稚園樣のものを作り、こゝに始めて唱歌を試みられたのであります。このことは、餘り世間に知られてゐない珍談でありますが、現今吾々の唱謠しつゝある「蝶々」の唱歌、即ち「蝶々ゝ菜の葉にとまれ‥‥‥云々」は、實にこの明治七年に於て、名古屋で生れ出たものであるとのことであります。
 それから明治八年の八月、伊澤先生は我文部省から、師範學科取調の命を受けられ、米國に派遣されたのでありますが、先生は米國着後、直ちにマサチューセッツ州立のブリッヂウォーター師範學校に入學して、總ての學科を修められたのでありましたが、音樂と英語だけは、如何に勵んでも上達しなかったさうであります。併し乍ら、先生は人一倍に勝氣の方でありますから一科でもニ科でも除外例によって卒業する事は、如何にも殘念のことであり、又師範學科取調の重大なる趣意にも叶はないと云ふ所から、どうにかして米國人と同樣にやって退けたいと苦慮されたさうであります。處が、丁度直ぐ近くなるボーストン市に、當時米國でも敎育音樂家として有名なメーソン氏の居られることを聞込まれ、早速このメーソン氏の門を敲いて、その來意を告げ、遂に氏に師事して大に音樂に勵み、全科相當の成績を得て卒業されたのであります。伊澤先生の音樂に趣味を持たれ、かつ作曲までなされる樣に至ったのは、實に此のメーソン氏の敎養によもるのであるとは、私共も先生から常に聞かされてゐる所であります。
 先生は更は、ハーバート大學の理科に入學せられ、苦刻勉學中、郷里なる嚴父危篤の飛電に接せられ、在學半ばにして明治十一年の秋歸朝されましたが、間もなく嚴父はお亡くなりになりました。併し、當時の新歸朝者として名聲高く、かつ秀才で活動力に富む先生は、此年の十月には体操傳習所の主幹を命ぜられて、我國學校体操の創設をも成し遂げられたのであります。そして翌十二年の三月には、東京師範學校長となられました。
 さて米國在學中にも、我文部省に向ひまして、我國學校敎育に、音樂教育の必要なることを建議せられ、又御歸朝後も熱心に之を主張されたのであります。けれども、當時の我世の中には、先生の此主張し意見に耳を藉すものすらなかったさうであります併し乍ら、勉めて倦まず、所信は斷行し、疑義は抱く迄も研究する、所謂一心徹底的の先生のこと、その力説は遂に我文部當局を動かすに至り、明治十二年の十月、とうゝ文部省内に音樂取調掛が設置さるゝに至りまして、先生は其の御用掛を命ぜられたのであります。於是先生は、自己主張の實現を見るに至ったのであるから、強大なる責任觀念もあり、實に紛骨碎身ー奮勉努力ー刻苦研讃をなされたのであります。當時先生が、如何に是等調査研究に盡碎せられたかは、其の最始より明治十七年に亘事情及經過を、時の文部郷大木伯に報告せられた
   音樂取調成績申報要略
を一見すると、よく判明するのであります。私共は此申報要略を一讀する度に、常に先生に対して敬服の感を惹起せざるを得ないのであります。
 かくて翌十三年の三月、さきに先生が敎育を受けられた、彼の米國ボーストン市の有名な音樂敎育家メーソン氏を招聘することになり、これより漸く唱歌敎材の編纂に着手し、唱歌敎授の実施を見るに至ったのでありますが、これが實施の最初は、時の東京師範學校附屬小學校及女子師範學校附屬幼稚園でありました。そして、メーソン氏自身が、ヴァイオリンで、この幼稚園兒童に敎授されたのでありますが、今や我國樂界の元老たる幸田延子女史は、この幼稚園で學ばれたのでありまして、早くもメーソン氏に其の樂才を認められたとのことであります。
 そこで伊澤先生、洋樂に通じたメーソン氏、及邦樂に明るい樂士と共に、内外音樂の長所短所を研究し、而して其の比較研究を試み、音樂上の樂語を創始し、各國々歌の由來及其の譯歌を作り、又神津專三郎氏をして外國音樂の譯書を出さしめ、以て樂理の研究に資せらるゝなど、大に努力されたのであります。而して是等音樂の研究と共に、其の實施を圖り、其の普及發達を期せんとして、
 第一に唱歌敎材を作成して,世に之を提供しようとせられたのであった。即ち先生は、メーソン氏を始め、他の職員と共に熱血をそゝいで、遂に小學唱歌集初編、二編、三編を編纂されました。これは實に我國敎育音樂に於ける唱歌敎材の寶典でありまして、今尚我師範學校では、之を唯一の敎科書として採用して居る次第であります。
 第二には音樂を敎授する先生を養成することでありました。於是先生は、音樂傳習生廿二人を募集し、六個月間の敎養を施して世に供給せられましたが、これ實に明治十三年十月のことであります。是等の傳習生は、卒業の上各府縣に歸り、琴、胡弓、ヴァイオリン等で唱歌を敎授したものであります。
 第三には樂器の製作であります。先生は此點にも深く頭を惱まされるのでありましたが、ふとした事から靜岡縣人の山葉寅楠氏を見出され大に氏を指導督勵なされた結果、現今我國唯一の樂器會社である日本樂器なるものが、此山葉氏によって創設されるに至ったものであります。
 斯くの如くにして、伊澤先生は、あらゆる方面に向って、我國敎育音楽の創設、普及、發達に最善の努力を拂はれた大恩人なのであります。
 其の後右の音樂取調掛は明治十八年に音樂取調所となり、後更に又取調係と復し、更に同二十年十月四日、この音樂取調掛が東京音樂學校と改稱せられ、二十一年一月、伊澤先生は文部省編輯局長兼東京音樂學校長となられ、同ニ十四年六月まで在職せられたのでした。これより幾多の校長を經、種々の變遷移によって、現今音樂の隆盛を極むるに至ったのでありますが、昨年は東京音樂學校創設五十年の祝賀會が擧行せられ、數多の卒業生竝有志者の據金によって、伊澤先生の立派な銅像が建設されることになって居ります。私も伊澤先生の知遇を忝うした一人でありますので、聊か先生の御事業の一端を述べた次第であります。

 上の文は、昭和五年二月一日発行の雑誌 『月刊樂譜』 二月號 「教育音樂」特輯號 第十九卷 第二號 山野樂器店 に掲載されたものである。



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