天津に於ける外國醫術
三井安川氏の事務室をぽいと飛び出し偖て白羽の矢は誰にしようと暫し小首を傾けたが夫れもほんの束の間で踵をぐるりと廻し靑々たる楊柳の巷を縫ふて顧問平賀精次郎氏の公館前に梶棒を降しボーイを捕へて一打聽を遣つたら在家了、刺を通し客廳に待つ程もなく主人出でられ種々有益なる話を拝聽したれば左に其一節を錄す
外國醫術の濫觴
天津に於ける外國醫術の輸入を見たのは彼之れ五六十年前にあるものゝ如し勿論其初めは英米佛等の宣教師に依つて傳へられた其徑路は香港方面より次第に北上し上海に來り之より更に各方面に廣り阿片戰爭を經て天津方面にも輸入されて來た、畢竟するに宣教師の足跡の及ぶ所則ち外國醫術の向ふ所にして影の形に從ふが如き有樣であつた、併しながら外國醫術に向つて當時の支那人が生命を托するだけの信用をなしたかドウだかは甚だ疑問であつて寧ろ信用して居なかつたソコで今ま尚天津に於ける外國醫術は混沌たる時代に属して居る、唯だ近數年來支那人間に外國醫術を信用する者が漸く現はれて來た樣な次第である
外國醫學研究機關の概況
▲北洋醫學堂 前陳の如く初めは微々たる宣教師が貧民に施療的に遣つた位で外國醫學を研究する所などは無論ないのである、所ろが今を去る二十四五年前時の直隷總督李鴻章が北洋艦隊を建造する際に當り各國兵制に倣ひ軍醫養成の必要を感じたれば英國の宣教師馬大夫に依賴し紫竹林海太路に北洋醫學堂なる者を設立した、初め二十名の生徒を募集し四ヶ年間教授し其生徒の卒業後、更に生徒を募集する樣な次第であれば今まで百名足らずの生徒を養成したるに過ぎんのである其後日淸戰爭、團匪事件等にて永らく休學の姿なりしも九年前より又た教授を初め現在生徒は七十名計りあるが、相變らず萎靡振はん、現總辨は屈永秋氏であるが教師には佛國の一等軍醫で現に天津衞生局の醫員をして居るソニーと稱する人が遣つて居る。
北洋醫學堂卒業生は如何なる方面に分配されたかを觀るに現に仲々樞要の地位に居る者が在る則ち招商局總辨麥信堅、天津衞生局兼北洋醫學堂總辨屈永秋、北洋軍醫学堂總辨徐華淸諸氏で、其他陸軍々醫官立病院長、開平礦務局事務員、京奉鐵道事務員等にして開業醫は僅かに上海に一人あるのみであるソコで同校卒業生で全く自己の修得せる醫術を以て現はれた者は誠に尠なく唯だ官界に遊泳して現に顯榮の地位に居る者が多い、之れは同校が英語を用ひて教授したので英語を利用して出世する方が其當時捷徑であつたからである而して其卒業生の大部分は皆廣東人である之れは支那全國中に於て廣東省が早く外國人と接觸した結果、外國語の素養ある者が多かつたからである。
▲北洋軍醫學堂 次に現はれたのが現に私が奉職せる北洋軍醫学堂である、之は明治三十五年十一月直隷總督袁世凱が北洋陸軍の軍醫を養成するため設立した者であつて其初め北洋醫學堂が現存するのに夫れに態々醫學堂を設くるのは二重になるとの譏りを免るゝため、軍醫養成なる名義にて上奏裁可を得た所が豈に圖らんや北洋醫學堂側からツヽいた者が佛國公使から突然抗議が現はれて來たが袁世凱は軍醫養成の必要あればとて斷然抗議をはね付けたので佛國公使も沈黙してしまつた、夫れから北洋軍醫學堂も北洋醫學堂の如く英語を主とせよとの議論もあつたが之れ又た斷々として退け能ふ丈け病名を漢字に現はし能はざる者だけを原語で教ゆることゝした、今まで卒業した生徒は百〇五名で陸軍部の測繪學堂、禁衞軍北京場外官醫院、保定軍官學堂、陸軍小學堂、北洋軍醫学堂助教、東三省、各鎭の軍醫等に分配されて居る
▲北洋女醫學堂 此の學堂は明治三十九年頃米國日本等に留學して居つた金と謂ふ婦人が創めた者で一口にへばマー看護婦養成所見た樣なもので大した者ではないが現に患者も相應にある樣である、此の外に戒烟局とて阿片禁烟のため設けた病院があるが之は唯だ阿片吸烟者にモルヒネを注射するか飲ませるかの外には何の仕事もない尚ほ北洋官醫院がある之は北洋軍醫学堂の附属の樣な者であつたが軍醫學堂が陸軍部の直轄になつてから全く分離したが軍醫學堂生徒は從前通り實習に出張して居る
マー外國醫術の養成機関と謂へばコンナものであるが各學堂卒業者の成績を見るに醫術を以て飽く迄、終始しよふと謂ふ者は餘り多くない樣で、大概の者は之を以て官吏になり澄まそうと謂ふ樣な傾きがある樣である
漢法醫との關係
漢法醫は天津のみならず支那では本家丈けあつて仲々太したものである、我國も維新頃迄は漢法が信用があつた今でこそ葛根湯などゝ馬鹿にするがソー馬鹿にしたものではない今ま天津で漢法醫の大家とも稱すべき者は大分ある樣である、漢法は不思議なことには醫藥分業で漢醫先生は處法箋を書いて與へるのみで藥は藥屋で求めて居る、所ろが從來の漢法醫と外國醫との關係は仲々面白い丁度我國に蘭法の傳はつた時の有樣と異る所はあるまいと思ふ、天津の漢醫も仲々負けては居ない色々な迫害を加へよふとする、天津に外國の醫術が這入つてから彼れ之れ五十年にもなるが今尚ほ混沌として支那人に左程信用がなく相變らず漢醫の信用があるのは從來の關係もあろふが、ツマリは最初外國醫術を傳へた外國人等の技量がなく漢法と左程の相違がなかつたからである、然るにだんゝ天津に於ける外國醫術が稍や進歩するに從ひ今度は漢法醫の法でたまらなくなつた、特に外國人とは意思の疎通が充分出來ず感情上のこともあつたらふが漢醫側から外國醫に對し匪言中傷する樣な傾になつた、之れは外國の信用が附けば漢醫の天地をせばめらるゝとでも思ふたからであろふ、併し難有いことには日本醫とは文字で意思が通ずるので歐米人に對する樣な惡感情は持たぬ樣である、マー漢醫と外醫との關係はざつと右の通りであるが近來漢醫先生夫れ自身も外科に就ては、とても及ばぬと自覺したらしい傾きがある
支那人の対醫術概念
天津市に四十萬人の住民ありとすれば其大半は賣藥に依賴しつゝあるが如し而して其次が漢醫に依り其次の幾分が外國醫術に依賴せる樣で、外國醫に持つて來る患者は大概賣藥を試み漢醫に行き尚ほ手の附けられぬ樣な患者が多い樣である、近數年來支那人間に外醫の信用が漸く現はれて來たのは誠に悦ぶ可きことである、官醫院等で施療する等の話を聞けば毎日五百人位は押し懸けて來るが料金を取ることにすればゴイと減少する樣な次第で醫術の信用如何よりも自己經濟の上より打算して來る者が多い樣だ
賣藥を使用する者を除き醫術の信用如何のみを觀れば矢張り漢醫が未だ信用を持つて居る現に陸軍各鎭の軍醫等には漢法で漸く信用の芽を吹き出した所である、目下北洋官醫院で治療する患者は一ヶ年に一萬餘人の統計であるが不思議にも其三分のニは天津を距る三百淸里内外の田舎者計りで一村一團体を組みて來るのである云々
上の文は、明治四十三年七月十五日発行 (非売品) の 『津門』 第六号 の ◉廻訪録 に 天津に於ける外國醫術(平賀顧問談) として掲載されたものである。