蔵書目録

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「パヴロワの印象」 (三島、久能、渡、山村) (1922.10)

2022年05月19日 | バレエ 1 アンナ・パヴロワ 

 

  パヴロワの印象
            三島 章道
パヴロワとヴォリニンの舞踊は實際巧いものである。一つの驚異だ。天才と努力によって完成された藝術である。その次にはピアノスキーに感じた。この人はバレー・マスターなので普通は踊らなかったが、『アマリナ』で一寸出た。いかにもやはらかいかろやかな舞ひ手だ。『アマリナ』なんてものは、バレーとしては、もう過去のものだ。所謂バレ・リュスでなない。しかし、パヴロワとヴォリニンの踊りを見てゐると流石に恍惚としてくる。舞臺に一ぱいとなって飛躍する、旋轉する。それが、音樂とピッタリあって一糸みだれない。如何なるポーズも少しも形がくづれず、その瞬間々々は偉大なる彫刻美のリズムがきざまれる。パヴロワは實際、羽みたいなんだ。パヴロワのこんどの舞踊について、色々惡口を云ふ人があるが、外國でバレ・リュス等をみて來た人ならとにかく、始めての人が、その標準も知らないでかれこれ云ふのは餘程の天才的舞踊批判家か、又は嘘を云ってゐるのだ。初めての人で一寸驚ろかない人はまあ少なくてあたりまへだらうと思ふ。實際、何度みても、この二人のバレー名手はバレー名手としては立派なものであると思ふ。
            久能 龍太郎
一つの彫刻が、美そのものゝ極致にまで動くーもちろん、詩のこゝろなくしては觀ることはできない。ある人の批評には「つまらないものだ」とか「たいしたものでない」とかいふ投げやりの言葉を聽いたがーおそらく、その人は藝術そのものに對して、なんの理解も持ってゐない哀れな貧しい人々である。いろ〱の方面から考察すると、それには多少の缼陥もあるではあらう。然し、とにかく、今日の日本の舞臺藝術として、あれだけのリズムの美化は斷じて表現されたことがない。その點だけでも、そんな大それた言葉はでないはずである。わたしは「瀕死の白鳥」に驚異と感激の泪のうちに幕の下りてゆくことを永久に忘れないであらう。 
            渡 平民
クレイグなぞの舞臺美術家が、舞臺美術の基調として、リズミカルと云ふことを尊重するが、その尊重さを、パヴロワの舞踊を觀てつく〲感じさせられた。美しい型ではない、美しい姿ではない、彫刻的なそして繪畫的な姿態の連續、その連續を一貫して流れる魂の飛躍だ。リズムだ。そこには少しの澱みもない、拵へものゝ不自然さもない。生々しい生命の輝だ。なにしろすばらしい。
            永田 龍雄  
幕切の十四人の姿、あのうちの二人の男性舞踊者の息のきれかたを見よ絲と靑の風光にくるしげなる息づかひを見よーボリーニン一人の勇壯なる幕明と同じき呼吸に意をとめて見よーパヴロワ一人の息づかひを見よほかの女性舞踊者の乳のあたりのくるしげなる息づかひを見よ。
      (ショピニアナ)
            山村 魏
アンナ・パヴロワ。ー天使の群れの中を自由自在に飛翔する唯一人の天使長のやうだ。吾々があこがれる天國の歡樂を、吾々の胸に展開させないではおかない。勿論他の多くの踊手達も美しいが、パヴロワはずばぬけて素的だ。彼女の藝術は人間に表現し得られる美の極致だと思ふ。彼女の姿態それ自身がリズムの源泉のやうに感じられる。
「瀕死の白鳥」はとりわけ素晴らしいものだった。美の恐ろしい魔力をしみじみ感ぜずにはゐられない。この美の前には、いかなる讃辭も驚嘆も影が薄いと思はれるほどだ。
天才と間斷なき努力との結んだ實の偉大さを今更乍ら考へさせられる。パヴロワは、興行最中にすらも毎日稽古を怠らず、 絕えず藝を勵んでゐるそうだが、ドストエフスキーが「自分は藝術のギアレー・スレーヴだ」と言ってゐたといふことを思ひ出す、そして、忽ちわれとわが身をふりかへらずにはゐられない。
◎アンナ・パヴロワのルシアン・バレーー帝劇で開かれてゐるルシアン・バレーを、自分は今日で二度見に行った。仕事の上での時間が許したら、もう一、二度は、見物しに行きたいと思ってゐる。親しめば親しむほどその美に魅せられる舞踊であると思ふ。自分が見たい範圍では、何といつも「瀕死の白鳥」と「秋の木の葉」とが、恐ろしくズバ抜けていゝ。殊に「秋の木の葉」はパヴロワの自作だといふことだが、實に感じの出てゐるのには驚かざるを得ない。最後のパヴロワの「菊」か、沈みゆく日光の下に落葉の下で徐々に萎みゆくところなどはたまらなくいゝ。「魔笛」も隨分面白かった。美しい舞踊劇だ。自分は公爵が出てくるあたりを見てゐて、ゴヤのカルケチュアを思ひ浮べた。ヴォリニンが出てくると、(パヴロワが現はれるときもさうだが、)舞臺が妙にピンと緊張してくる。リースに裝したブッオーヅも、まだ若いに似ず、仲々よく踊った。ヴォリニンは男性的な、パヴロワは女性的な言ふに言はれないすぐれて美しい舞踊特有の素直な、麗らかな線は、この二人の代表者が、遺憾なく極致を表現してゐると思ふ。誰かの言ではないが、「本能の糸のくり出されるがまゝに織りなしてゐる」やうだ。それがとりも直さず彼らの舞踊だ。パヴロワの彫刻の如き磨きあげた姿態を演ずるときの美しさは、全く言語を 絕してゐる。幸ひ自分は二度とも平場で見たが、二階になると、只ポーズのみで完全に舞踏の微妙な點は見られないような氣がする。實際のところ、あゝいふ舞踏になると、一線一劃も見のがすのが堪らなく惜しい氣がする。慾には限りがないが、照明と、音樂師とが、諸外國に於ての公演の如き完備さであったら、と、それのみが殘念に思れた。(廿日夜一時半)
 
〔蔵書目録注〕 
   
 上の文と写真は、大正十一年十月一日発行の雑誌 『舞臺藝術』 十月第十二號 の 六號雜記 に掲載されたものである。上の右の写真は、口絵の「露西亜舞踊『六の花』の舞臺面」である。
 また、六號雜記 には、 「靑い鳥」上演の後に 遠山靜雄 の一文もあり、その文の後に、次の記載が加えられている。
  
 帝劇のパヴロワは隨分熱心に見た。同じものでも何度も見てゐるとだんだんよくなってくる。矢張り偉いと思った。然し女史の偉大さはその技藝のうまさであって、創作の力はあまり見られない樣に感じた。丁度精巧な機械が極めてたくみに生産をなすのを見る樣である。愉快である。けれどもその機械をつくり出した發明に對する感激はない。私は「秋の木の葉」にあまり感心することが出來なかった。私はこの題目に就てはもっと靜寂な、深い味のあるものを感じる。(尤もそこには日本人と西洋人との一般的な心持の相違があるかも知れない)ソロに於ては私の氣持にしっくりした嬉しいものがあった。「カリフォルニアの罌粟」は今度の出し物のうち一番すきであった。何度でも見たい「瀕死の白鳥」では光の色が不適當ではなかったらうか。もっとほんとうの意味の白に近い方がどれだけ踊りをよくしたかと思ふ。非常に強烈な、生な色の、多種な光線を使った「魔の湖」は或意味で大變興味を引いた。



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