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「アンナ・パヴロアの舞踊を見て」 寺川信 (1922.10)

2020年07月05日 | バレエ 1 アンナ・パヴロワ 
 

 アンナ・パヴロアの舞踊を見て
             寺川信

堀兄
 〔前略〕最後には久しく待あぐんだ、アンナ・パヴロアの舞踊を觀るのが目的なのでした。
堀兄
 十四日夜は第二回目の曲目が變る日なのでしたから、慌しい間に、ボックスの一つを買ふことに致しました。
 來る來ると随分永い間待たされてゐた、アンナ・パヴロア、何と云つても世界第一流の舞踊家の神技を目のあたりに見ることが出來る、といふことは少年の日の戀のやうな思を湧かせました。
 蜻蛉の如な姿に高く伸ばした右手に長い羽をからみつかせ、左手を斜め後にしなやかに伸ばせ、右手に爪先立つて左手を浮かせて、莞爾やかに笑む優雅な舞姿ーそれは恐らく君も英吉利か亞米利加か或は佛蘭西の雑誌で見たことがあるでせう。あの「ドラゴンフライ」のソロダンスが今宵の舞踊小品 ヂヴヨルテイシユアン の一つに書き記されたゐるのでして、其他にポリニインの「弓の踊」も私の久しい前から幾度となく物の本によつて憧憬れさゝれてゐるものなのでした。
 帝劇は晝間は女優劇があつて夜八時からが、パヴロア夫人の舞踊が開演されることになつてゐました。帝劇のガレリイでは、斯うした催ものゝ時は何日のことですか、「ヤア」「ヤア」と久濶を舒する、知つた顔に幾人出會つたか知れませなんだ。初秋の夜風を冷やかに受けながら、露臺に立つて、眼下の車寄せに、ひつきりなしに馳せ着ける自動車や其内から、花瓣の溢れるやうに現れる人々を想ひ描きながら、親しい友人と放談すると、昨日迄の幾年間ずうつと在京生活をつゞけてゐたやうな気持にもなるのでした、舞踊劇「コツペリア」といふに最初のカーテンは掲げられました。パアクスト・ブノア・ピカソあたりの背景 デザイン や扮装だけでも獨立した藝術と云ひ得るダイアギリウ團の純正パレー・ルスとは思はない迄も、最少し纏りのあるものと歎かれました、無論これにはパヴロアは出場せなかつたですが、舞踊手にはさすがこの一派所屬の人々だけに技巧の冴へは見せてゐますが、バレーそのものが物足りなさ極りないものなのでした。
 伴奏のオーケストラの貧弱なことはモスコートリオとは聞てゐても日本人が大部分で可成に酷いものでした。
 次にはチヤイコフスキー曲の「六つの花」(スノーフレークス)が開きました、脚光は全然使はずに照明燈を舞臺端に置きならべ、ライムを斜左右上方から浴せて、淡靑の照明に包み、大森林のノヱールの夜を偲ばせました、十六人ばかりの男女の雪の精の舞踊がガヴツトの急調になると、光さし來るか如にパヴロアとポリニイが舞つて出るのでした。
 パヴロアの爪先 トオ の美しさ!
 大方の舞踊家はトオで立つ場合、重い感じを與へ、運動に美觀といふよりも、不具感を觀衆に起させるのが常でありますが、彼女の場合は、いかにも輕く、羽毛のやうに、雛芥子の花のやうにも、宙に浮ぶかと見られるのです、ピロヱツトも美しいものです。
 この「六つの花」も舞踊劇としては飽足りないものゝ一つですが、パヴロアの爪先 トオ だけ見てゐれば何等云ふことを忘れささゝれます。
 その次は當夜の眼目として、そればかりに、プロレタリアの私共には身分不相應に近い高價な入場料を拂つて來たといつていゝものなのですから、オペラグラスレンズを幾度か拭ひなほして、重い帷の上るのを待ちつゞけてゐるのでした。
 黑布の背景は先づ気に入りました、最初には六人で、何とかいふ「希臘舞踊」が演ぜられました、希臘の古甕の繪やバアレクーフの舞姫達が、此處に現出せるかと愕かされ、魅了されました、「バラゴンフライ」はパヴロア夫人の一人踊りで彼女の技巧的方面の局限の美を示してゐるものと申せば、後は云はないでもいゝでせう、ヴオリニインの「弓と矢」も彼のソロ・ダンスで男性美を肉の躍動、生の昂揚を迫るやうに味せてくれるものでした。其後は「パストラル」や「アイドール」「田園小品」など、一座の人々の小さく美しい舞踊がありましたが、次の二つを見れば今夜の見物は十分としなければならないと思はれました。
 「瀕死の白鳥」や「酒神祭」が前回に出されてしまつてゐたことは、どんなに惜しかつたか知れません、これは大阪へか名古屋へか改めて見物に參るつもりでゐます。
堀兄
 パヴロアの舞踊に就いては「瀕死の白鳥」以外は藝術の域に入らない技巧の妙と冴へに過ぎないと見る説や、十年前或は二十年前に外遊されて巴里倫敦で彼女の演技を見られた人々は、神に入る彼女のトオにも衰へが見へて來たと云はれてゐます、「バッカナル」の踊りは見物席に飛込まんずの勢があつたものだが、今度はそれ程にもなかつたと惜まれもしてゐます。
 其の何れもは事實でありませう。だが今日初めて見る私共には、從來久しく讀んだり聞く以外には觀へなかつた、兎も角世界の舞臺に花と匂ふ舞踊家の實技を見ては、驚異に値せないとは申されません。私はスミルノワの舞踊、ヱリアナ・パヴロアの其れ、嘗て此の國を訪ふた舞踊家の舞踊は遁がさず見てゐますが、無論比較にも秤量にもなりません、また吾國人の手で見せられたダンストオのそれは考へて見るだけでも滑稽に感じさゝれます。パヴロアアーテイストでなくてアーテイザンであつてもいゝ、せめて彼女に比較し得るだけの舞踊家の一人でも持ちたいものと思ひました。
 パヴロアは日本舞踊の「道成寺」の末段を福助に就いて習つてゐるさうですし、其の弟子達も幸四郎に手を執つてもらつてゐると聞き、またその稽古の寫眞を見て、一度彼女とその門下達の意見を叩きたいものと思つてゐたのに其機會を失してしまつたのは殘念でした、殊に三島章道子邸のパヴロア觀迎會には案内までされてゐながら時間をとりまちがつた爲に「それは殘念でしたね」を繰返して遠來を犒はるゝ、三島氏の挨拶を受けて、殘念とも何とも云ひやうのない程でした、辭する時に「帝劇の稽古場でお會ひになつたらいゝでせう」と紹介状迄書いてもらつたのに其翌日は書肆天偷社で午前の時間を消して有効使用に出來なかつたことは最近の取返しのつかない、口惜さを感じさゝれました。

 上の文は、大正十一年十月一日発行の雑誌 『歌劇』 歌劇発行所(宝塚) 第參拾壹號 に掲載されたものである。


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