蔵書目録

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『アンナ・パヴロワ』 (山田耕作、齋藤佳三)(1922.10)

2020年02月11日 | バレエ 1 アンナ・パヴロワ 



アンナ・パヴロワ

 〔口絵〕

 
  Dying,Swan  瀕死の白鳥

       

  ・アンナ・パヴロワ夫人 〔上左から:1枚目の写真〕
  ・Lo Peri 仙女 〔同:2枚目の写真〕 
  ・Orpheus オルフォイス 〔同:3枚目の写真〕 
  ・The Dragon Fly 蜻蛉 〔同:4枚目の写真〕  

 〔本文〕

  ・唯一の美しい花 
      それがアンナ・パヴロワ夫人の舞踊なのです  
                            山田耕作

 私がパヴロワを最初に見たのは独逸に留学中の事で、恰度パヴロワが世間に謂ふ所の露西亜舞踊から独立して、自分の一座を引き率れて巡業に廻った最初の時であった。 
 当時欧洲に蜂起してゐたいろいろの舞踊団のそれ等を一切超越して、パヴロワ夫人の一団は毎興行素晴らしい好評をうけてゐた。
 パヴロワの技術、殊にその足の技術(トゥ・ダンス)は超人間的なむしろ妖精的と云った方がいヽほどのものであって、決して普通の模倣 イミテート でない、たとへばお伽話の国の踊りと云ったやうな夢幻的なものである。
 繊細な、きやしやすぎる彼女の姿 ポーズ と技術は、大きな舞踊団中の一人としてよりも「瀕死の白鳥」のやうな、いみじいものがいヽ。
 パヴロワの叙情的といふ事は詩的といふ意味とは少し違ってゐるが、非常に魅惑的である。
 イサドラ、ダンカンが舞踊をして「魂の言葉」の表現といふに対してアンナ・パヴロワは「胸の言葉」を現はさうとしてゐるのであらう。それだけにパヴロワは恰も美しい花のやうに理窟ぬきの美を非常に練磨された、その技巧の流れに漂はせて何人をも魅了し去らずには措かぬ妖精の化身である。私自身凭うしてパヴロワの事を各方面から考へて見ると、かうした事が考へられるのであるけれども、実際パヴロワの演技の前に座ってゐる間は恐らく私は一語も発せずして、たゞ夢心地の快感を貪ってゐるに違ひない。たしかにパヴロワはパヴロワの前にも亦後にも比べる事の出来ない程、技術の奥の奥を究めた「舞踊の女王 レエヌ、ド、ラ、ダンス 」であるのだ。
 パヴロワを見られる人々に私の感じたことから御注意申したいのは、パヴロワからロシアン、バレーの真相を掴みたいと望まれるよりも、唯一の美しく咲き出た花として愛玩すればそれでいヽのである。
 夢心地にまで引き入れるパヴロワの舞踊の境地は絶対のものなのであるから。(談)
 
  ・時間的の彫刻  
      真のルネサンスであり「浮世絵」の舞踊
                            齋藤佳三

 舞踊を論ずる者にとって其観賞が日本では決して自由な機会を與へられて居ない。今度のパヴロワの来朝は此意味に於いて日本人には絶好の機会でなければならぬ、最近西洋音楽の観賞力はかねて文部省の方針として音楽の教養を普通教育に布いた處に根を持って、その発達が逐次西洋音楽の最高な精神に副はんとする傾向の生じだ事は、当然な訳であるがその観賞に最も多く貢献したものは蓄音器である。それから大戦中の経済的膨張が世界的一流の楽人を招き得たとは云ひながら、実は文部省の音楽的教育に対してその根底を西洋音楽に基いた事と蓄音器の貢献が其一流音楽者を招き得る観賞力を植付けた為であると云っても宜い。舞踊に関しては例令一流の舞踊家の伝記があり写真があり絵画があるとしても、蓄音器同様に之を紹介すべき筈の活動写真が一般的でもなく手軽でもない、(吾々の能く活動写真を見て居る間に舞踊の場合を見る事があるが、いつも余りに短尺な為めに遺憾であると思って居る)又一流舞踊家の活動写真としては殆ど皆無と云っても宜い位に僅少である。為めに本邦の舞踊愛好家にとっては研究並に観賞が甚だ不便な訳である。
 夫と、よし活動写真に現はれて蓄音器の如き生産があるにしても舞踊にはその内容を物語る音楽が時間的に非常に厳格でなければならぬ。故にキネトフォンが尚一層の進歩を来たさなければ完全なる舞踊紹介の役には立たないものである。斯くの如き考慮をめぐらして迄舞踊の観賞を心配しなければならない状況に置かれてある日本にとって今囘パヴロワの出演は全く稀有といはなければならぬ。
 私がパヴロワの芸術に接したのは一千九百十三年の正月で伯林のノイエス・オペラ劇場(俗称クロルオペラ)である、彼女の得意なる『瀕死の白鳥』もその時に見た訳であるが今日迄その夜の印象として頭を去らぬのはヴアライチーのヴォルユーションである。短い小唄のテーマーがあの様に多驚類のヴォルユーションとして、音楽に現はるヽのも驚異であるが、之れを人体の有する運動のみを以て全然音楽の世界と等しくテーマーはテーマーで演出し、第一のヴォルユーションは第一のヴォルユーションとして演出し第二第三も等しくヴォルユーションの内容を完全に踊り分けるのを見て、パヴロワの踊りは音楽である詩であると思はない訳にはいかなかった。その意味は演奏者がそのヴォルユーションを演奏するのではなく亦朗詠家が詩を吟ずるのではなく、音楽そのもの‥‥詩其ものであるが如き境地を出現させたからである。畢竟パヴロワは音楽を踊るのではなくて音楽そのものを時間的に彫刻化したと見ても宜い。或は音楽家が楽器を以て一つの音楽を演奏して一つの芸術を出現せしめる如く、パヴロワは自己の肉体を演奏して一つの芸術を出現せしめると云っても宜い。以上の印象が今日猶ほ私の記憶に残って居るのである。パヴロワの芸術はゴレックの芸術ではない。亦今日芸術的新境地を開拓したる處の表現派の芸術でもない。其威厳品位に於いては本邦の土佐派でもなければ狩野派でもない。彼女の芸術の生命は真のルネサンスである。真のインプレショニズムである。優艶極まりなくうらぶる心の『浮世絵』に似た芸術である。(談)
 
  ・舞踏の女王 
       尊きまでに白く秀でた象牙彫のやうな彼女の足

 アンナ・パヴロワ夫人が、露西亜を見棄てゝ、いよゝ外国への旅興行に上らうとする時、彼女は自分を見送りにきてくれた多くの人達の中にひときわ老いた某老将軍に対つて、別れの言葉を云つた「では将軍よ左様ならこれからの一番善良なもの全てがあなたのものになることを望みます」。するとその老将軍は銀糸のやうな長髯を撫ぜて「否 いや 、一番善良なものは今この国を去らうとしてゐるではないか、そしてそれは永久にこの国へは戻らないと云つてゐるではないか……」と、悲壮な語調で云つた。
 世に名高い「瀕死の白鳥」は、実に彼女によつて創作された舞踊なのです。原作曲者サンサン氏は自分の作品「スワン」がパヴロワ夫人によつてメトロポリタンのきらびやかな、ひろい舞台に上せられたとき、幕が下りぬ先から廊下の入口に彼女を待つて、彼女が舞台姿のまゝの白い細々しい身に犇 ひし と抱きついたまゝ、感激のあまりしばらくはものが云へず、やがてサンサン氏は泣き出した。そしてかすかに「ありがとう」と一言云つたきりであつたさうです。
 彼女の舞踊ーのそれは、しかし決して理論づくめのものではないのです。夢、たゞ美しい桃色の夢心地にまで彼女の手や足は、われゝを魅惑します。
 天下無双 インコムペラブル の名は、パヴロワ夫人の別名のごとく欧米の舞踊界に喧伝されたのも既に久しいことです。舞踊の女王 レエヌ、ド、ラ、ダンス と云はれてからでも年月はかなり経ました。彼女の王冠は永久に何人も近づき得ないでせう。
 アンナ・パヴロワ夫人の舞踊を一度見たゞけでは、それがあまりに夢幻的である故に、よくはわからず二度、三度と愛賞するにしたがつて、いよゝその技術の天下無双であり、女王であることに肯定し得ると云ひます。
 殊に、そのトーダンスは、おそらくはパヴロワ夫人を最後として再びは欧米の舞踊界からトーダンスの跡は絶えるとまで云はれてゐるだけあつて、実に見事なものです。
 それに、いつたいが露西亜の舞踊家はみなそうですが、なかんづくパヴロワ夫人の舞踊は、静から動へ、動から静へうつるときの型が実際筆紙を超越した美しさを持つてゐます。たとへどんなときでも彫刻的であることを忘れないところに、永年の教養と苦心とが窺はれます。
  
  ・アンナ・パヴロワ夫人招聘に就て
                            松竹合名会社 白井松次郎
 
 去る五月、楽聖エフレム・ヂンバリスト氏を招いてその妙技を御紹介するにあたり、我社は斯うした興行に対する従来の因習的慣例を全然破り、芸術の「社会奉仕」を完全に実現いたしました次第で、幸ひ諸賢の御諒察によって物質的には実に莫大の損失をしましたが、しかしそれを償ふて余りある御感激を與へ得たのでございます。
 さて茲に世界舞踊界の女王とまで讃仰されつヽあるアンナ・パヴロワ夫人を招聘するにあたりましても、我社はことの始めより収支等の計算を全く度外視して、たゞ只管に諸賢につくす微衷あるのみなのですから、今回もヂムバリスト氏の如く、否それよりも多大の御声援を望む次第でございます。
 斯様にして囘一囘文化貢献の実を挙げて行きますれば、従って続々と欧米の諸名家を招聘するに、彼我ともに何等の危険 リスク を感ずるやうなことがなくなるのですから、この遠来の舞踊を御観賞下さる方々に於いてもその御心持で多大の御声援をお希ひ致します。

  

    アンナ・パヴロワ夫人が横浜に上ったとき

 薔薇色に明けた九月四日の海はもうすつかり初秋の気を漲らしてゐました。宮殿のやうなエンプレス・オブ・カナダ号はつきました。
 黒い羽二重の薄絹に蠟のやうな滑かな肌を包んだ清楚な姿をした彼女の、人を魅する瞳には旅のつかれも見えぬ晴々しいものがありました。
 するうち、船がつくともうそれはゝ混雑です。いちばん年若で美しいブース嬢が桃色の目を冴えるやうな姿で片山安子さんと話をしてゐる。するとそのとき破れる様な拍手が起つたのです。それは市川男女藏君が英語でパヴロワ夫人に挨拶をしたのでした。
 花束が山のやうにパヴロワ夫人に渡されてゐます。その贈り主の名前が呼ばれるごとに拍手です。
 朝日は、それらの人々に照りかゞやいて、さも祝福してゐるやうでした。尾上菊五郎君とパヴロワ夫人とが握手をしてゐるところをカメラがいつせいい向けられる。拍手の音とカメラのシャッターを締める音とが競争してゐます。
 今日迄のうちで、パヴロワ夫人ほど花やかな出迎はありませんでした。

   

 ・パヴロワ夫人大舞踊劇団一座
 ・アンナ・パヴロワ夫人大舞踊関西公演日割
                    大正十一年十月 

 アンナ・パヴロワ夫人と御園化粧品

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 大正十一年九月廿七日印刷 
 大正十一年十月一日発行



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