ルシヤン・バレヱと妾の生立
アンナ・パヴロワ゛
ルシャのバレーに就いては、今では世界的に問題の藝術として色々と評判もされてゐるし紹介されてゐますが、ルシヤンバレーと云へば今でこそ、外國人に踏襲をゆるさない獨特の舞踊藝術となってゐますが元をたゞせば決してルシやで生れたものでないと申しましたら、驚かされる方もあると思はれます。
バレーは元は東洋から伊太利、佛蘭西、獨逸と順々に移入して來たもので、妾 わたし の國ではこの藝術が外國人に見せてもはづかしくはない位ゐに發達したのは、伊太利で初めて現はれた時から大凡 おほよ そ二百年後の事であります。
けれども一旦ルシャで芽をふき出すと、夫れは〱恐ろしい勢 いきほひ で發達しました、これは皆さんも御承知の帝室舞踊學院、卽ち普通、マリンスキー藝術院、と呼ばれてゐる學校で、他國に例のない、組織と敎練法を講じたからであります。この學院は内部の組織に於ては普通の學校に比較して變ったところはありませんが、只規則丈けは隨分嚴格なものです。舞踊學院と云っても、決して舞踊のお稽古ばかりするのでなく普通の學校と同じく、若い男女の授からねばならぬ、敎授科目は悉く賦課されてゐますから生徒は何不自由なく愉快に勉強が出來ます。この學院は御存じの通り皇室のお金で經營されてゐるのでありますから、初めて入院する時の嚴しい試驗に合格さへすれば生徒の一身すべての費用は學院の方で負擔します。それから生徒が一定の年限内は首尾よく業を卒 を へて、いよ〱皇室附屬の舞踊團に編入されるやうになれば、相當の給料を與へられるし、義務の年限に達すると一生の補助料で生活が保證されます。
バレーが初めてルシャに移し植ゑられたのは千六百七十年、時の皇帝、アレキセイ、ミカイロヴィッチが、他國ではバレーは一種の宗敎の典式の一部に使用されてゐると聞き及んで、わざ〱、伊太利から呼び寄せたのにはじまる、その後、更に佛國からデイデロウと云ふ有名な先生を呼び寄せて、廿五年間熱心に敎授してくれたので、初めて現今のルシヤン・バレーの形式が確實に出來上ったのですけれど、其後アレキサンダーの一世、同二世の頃までは純粹のルシヤッ子からは大した腕のすぐれた踊り手は出ませんでした。夫れも其筈です、その頃は、世界的に有名な伊太利のマリヤ、タグノリとか、獨逸のエルツブレルなどと云ふ舞踊者がルシャの舞臺で、一人天下をきめてゐたのですからー
越えてアレキサンダ三世の時になって、初めてカルセッテ、クスチェンピンスキー、キャクスト、ペティバなど云ふ名舞踊家が續けざまに現はれて初めてルシャ人のルシャンバレーとなりました。
妾は八才の時に一度入院の手續をしましたが年が足りないと云ってはねつけられて、二年後の十才の時に漸く入院する事が出來ました。なにしろ、希望者の多い割に年々十八人位ゐ外採用しないのですから試驗の嚴しいことつたらお話になりません。首尾よく入院が出來たので一年間はまるで、規則の嚴しい仕事の烈しい尼寺に生活してゐるやうな日を送り迎へ、漸く一年經つと、今度こそ本當の試驗です、夫れは將來果して舞踊家としてたつ資格があるかないかと云ふ妾の運命の決する試驗でしたが運よくこれにも合格したのですこの試驗に合格すると、今度はいよ〱、舞踊家養成の本規則に依って以前より一層嚴しい修業を三年間させられます。三年の修業が終ると又も試驗があります、今度の試驗は各生徒の成績に依って地位を定めるのですから大變です。
先づ、一番成績の落ちた方が、コリフヒーと云ひ其次がセコンドスゼット、次がプリミイヤスゼット、最後がプリミイヤーダンサーで、それから後は自分の勉強次第で、最後のプリマ、バレリナ、アブソルタの榮冠をかつ事になります。私は年も若かったし、人一倍苦勞もしましたが、第二第三の試驗でも運よく、首席で合格して、最後に夢見にもわすれられなかった、プリマバレリナアブソルタを三年彼 ねんご に妾の名前の上に飾る事が出來ました。
妾が今日こうして皆樣から法外の御贔屓にあづかるやうになったのは、一つには神の授けた天分の道を踏んで來たからだとお抑 しや る方もありますが、それにしては妾は、今は跡かたもなく、多くのお方々のお行衞 ゆくへ さえ、分らない、ルシャの皇室の御恩は決してわすれる事は出來ません。妾は今、何かの事情で、全く舞踊をすてねばならなくなっても帝室學院で授かった、課程を利用さえすれば、樂に暮す事が出來ます。
〔蔵書目録注〕
上の文と写真は、大正十一年十月一日発行の雑誌 『オペラ』 第四卷 拾月號 露西亞舞踊號 に掲載されたものである。上の中の写真は、口絵の「アンナ・パヴロバ夫人のルシヤンダンス」である。