絵葉書下には、赤字で「長谷川恭〔長谷川泰〕先生銅像除幕式記念」とある。表面には、「東京今川橋 青雲堂印行」とある。横14センチ。
写真は、右上が晩年の長谷川泰で、左の写真は、大正五年〔一九一六年:像銘文は三月〕四月に湯島公園に建設された「長谷川恭〔長谷川泰〕先生銅像」〔長谷川先生坐像〕である〔現存せず〕。
なお、『柳塘遺影』には、銅像と銅像除幕式の写真がある。下は、後者の解説である。
湯島公園に於ける銅像除幕式
刀圭界は勿論一般の人々よりも先生の徳を慕ふて醵金せらるゝもの合せて壹千余名其の金額二万五千余円に達し発起せられし方々も実に愉快なる結果なりとて喜ばれし事なりき。
この日大正五年四月二十日晩春の陽光暖く会するもの五百余名頗る盛会を極めたり。
右壇上に立てるはこの建設を喜ぶ旨の演説をせらるゝ石黒忠悳子爵なり。
なお、下は、銅像建設の関連資料である。
拝啓 黄梅天気益御健勝敬賀仕候陳者旧済生学舎舎長故長谷川泰先生銅像建設仕度昨年以来我東京同窓会ニ於テ協議仕候処御案内ノ通リ本事業ニ就テハ大方同窓諸賢ノ御賛助ニ依ラザレバ銅像ノ大小ニ論ナク到底建設シ得ヘカラザル事ニ御座候間甚ダ唐突ニ候得共貴下ニ於テ御賛成ハ勿論発起人トシテ御尽力被成下度左ニ概要申上候
一 故長谷川先生ハ独リ吾人同窓者ノ恩師タルノミナラス実ニ我邦医界ノ恩人タルハ今更ニ喋々ヲ要セサル事ニシテ吾人同窓者ハ其英風ヲ鋳テ百世ニ伝フヘキ義務アルモノト信シ申候
一 元来建設ノ主意書及ヒ其設計細目ヲ具体シテ御賛成ヲ求ムヘキ筈ニ御座候得共想フニ吾人同窓者ハ一致協力竣成ヲ旨トシ徒ニ他人ヲ強ヘ且ツ漫ニ発表シテ万一不結果ニ終リ候事アラハ却テ故先生ノ名誉ヲ毀傷シ世人ノ胡蘆ト相成候ヲ以テ予メ貴下及ヒ諸君ノ同意ヲ得テ充分成算相立候上更ニ公々然発表シテ世上有志ノ賛成ヲ求ムル事ニ致度候
一 建設地ハ東京市本郷区ニ於テ撰定シ其竣成ハ可相成大正三年三月故先生ノ大祥日ヲ期シ度ヲ以テ来ル八月末日頃マテニ御快諾書ヲ希望仕候
一 建設金額ハ御賛成諸君ノ御醵金額ニ因テ定マルモノナレトモ目下ノ概算ハ全国三千人(所在不明)ト見積リ一人ノ出金ハ貮円以上トシ全額壹万円以内ニ於テ竣成ノ見込ト御承知被下度候
一 同窓者所在ニ就テハ当同窓会ニ於テ種々ナル方面ヨリ探求候モ未タ其十一ヲ得ル能ハザルニ苦ミ申候間何卒貴下ニ於テ精々御知己御勧誘被下且ツ芳名御通知ニ預リ度事ニ御座候
一 尚横浜市、京都市、大阪市、長野県、栃木茨城群馬三県連合、高崎市、佐賀県、鹿児島県等既ニ同窓会ヲ設立セラレシ御地方ハ幹事諸氏ニ於テ会員諸君ヘ御勧誘ノ上御報告ヲ煩ハシ度併セテ願上候
以上倉卒得貴意候モノニシテ其意ヲ罄サヽル所アリ御下問次第重テ可申上候 匆々敬具
大正二年七月
東京済生学舎同窓会
幹事
石井萬次郎
飯塚養
中村致道
大石榮三
宮田哲雄
木村助三郎
拝具
殿
追テ右御賛成ノ上ハ御出金額御記入御報知願上候
故長谷川先生 銅像建設準備会 事務所
○○○○
東京市日本橋区本銀町三ノ十四
電話本局二四六四番
上の写真は『柳塘遺影』にある銅像の写真で、下がその解説である。
銅像
鋳型原型は武石弘三郎氏、台座の設計は故岡田信一郎氏に依つて成され、両巨匠が会心の作として他の多くの銅像とは其の趣を異にし、彼の著名なる独逸国フランクフルト市に建てられある文豪ゲーテの坐像にも比敵すべき芸術的作品と称せらる。
為めに美術家の方面よりは異常なる賞讃を博し竣工の当時参観者踵を接して一大センセーションを捲き起したるは先生の銅像なるが故に意義深く感ぜらる。
茲に先生の容姿は其のゆかりの地湯島台上緑深きほとりに芸術的にも誇り得る銅像として永久に遺されたり。
更にこの建設の発起者、賛成者の先生に対する追慕の念も亦この銅像と共に永久に記念せらるゝに至れり。
絵葉書右下には、赤字で「長谷川恭〔長谷川泰〕先生銅像除幕式記念」とある。表面には、「東京今川橋 青雲堂印行」とある。横14センチ。
写真は、左上が像の正面下のもので、「長谷川泰先生座像」の銘である。下の3枚は側面・裏面のもので、「長谷川先生銅像銘」で始まり「大正五年 三月 海軍軍医総監従四位勲三等 石黒宇宙治撰〕」で終わる。
なお、昭和三年 十月に、二六新報社より発行された銅像写真集『偉人の俤』には、次の銅像写真・説明文・偉人伝がある。
長谷川泰銅像
〔所在地〕 東京市本郷区梅園町二番地湯島公園
〔建設年月〕 大正五年三月
〔原型作者〕 武石弘三郎
〔鋳造者〕 久野留之介
〔建設者〕 石黒宇宙治、井上千蔵、小此木信六郎、佐々木東海、外三千二百十八人
〔銘記〕
長谷川先生銅像銘
先生諱泰字子寧号蘇門又柳塘長谷川氏越後人世為長岡藩医員考諱宗済妣原山氏先生長子就佐藤尚中松本良順修医学任大学医学校長並東京府病院長昇衛生局長叙従四位勲三等選為代議士斉三明治四十五年三月十一日卒壽七十一先生天資豪邁博学淹通無書不読而志常在報国嘗創済生学舎教育医生前後三十季及門下三万余人其成業者名者甚衆頃日友人門生胥謀建銅像於湯島以伝不朽
銘日
非相即医 X人医X 猗歟先生 博学達識 在野養材
立朝尽職 高明之資 済以柔克 帝城之北 銅像維嶷
仰止千秋 永表遺徳
大正五年三月
海軍々医総監
従四位勲三等 石黒宇宙治 撰
長谷川泰
一
顕微鏡下に一種の細菌を発見して博士號を獲得するのも、医者としての天職を完うしたものと云ひ得る。だが、気軽に患家を見廻る町医者を多く養成することも亦医者として学位に匹敵する程の名誉であると云ひ得やう。いや、一般人の生活実態から推して論ずるならば後者の方がより以上親しみと尊敬とを感ずるに相違ない。
済生学舎の創始者長谷川泰先生は寧ろ此後者の尊敬に価する日本医界の恩人である。
奇行があつたのでよく交遊間の話材を賑はしてゐた先生は、天保十三年六月越後の医者長谷川宗齋の子として生れた。幼より卓犖不羈と伝記筆者は云つてゐるが尠くとも不羈の性質であつたことは窺はれる。最早や漢法医の時代ではない、西洋医術を学ばなければ時世遅れだと先見の明を働かせて疾くから江戸へ出ると坪井芳洲の門に入つた。熱心な先生はそれ丈では満足出来ないと見えかのシーボルトの直弟子で当時蘭医中の鏘々たる佐藤尚中を慕つて下総の佐倉に行き親しく教へを乞うた。その頃、秀才振りを互に競つた塾生の中に佐藤進博士もゐた。学と術とが全く成ると大学東校い職を奉じて総長石黒忠悳の下に彼は次長を拝命した。然るに狷介な先生は石黒総長とは反 そり が合はぬと云つて職を弊履の如く捨てゝ去り、自個独得の教育方法で東郷に済生学舎を明治九年に創設した。この下駄穿きでどかゝ上る風変りの学校が、他日、全国的に医者の開業網を張らうとは誰が想像し得たであらうか。
二
変つてゐると云へば恐らくこれ位変つた学校も珍しかつた。入学試験もなければ卒業試験もない。学生は高履きを鳴して帽子の儘教室に這入つたり、時には教師の講義に拍手喝采するといふ放任主義で先生の性格その儘を具象化したものであつた。併し締め括りは丁燃 ちやん とつけて学生の実力に重点を置いてゐたから頭脳 あたま のいゝ者は期せずして雲集した。従つて卒業生の文部省検定試験に及第する者前後六千名に達し校名から喧伝せられたのである。
一方、内務省の衛生局に勤めて局長を補佐し衛生行政の基礎を確立したが次で局長に昇任し、又、市会議員、衆議院議員等の政治的手敏をも発揮するなど多角な才能の所有者であつた。
然るに明治三十五年に専門学校令は布かるゝに方つて先生は該学舎の大学待遇を申請力説したけれども容れられなかつたので、然らば廃校に如かずとなし、憤然校門を鎖して了つた。奇に出発した医学校は遂に寄に終つたのである。先生の奇癖はこの校門閉鎖のみではなかつた。
三
一体、物事に無頓着な先生は日頃の言語挙動から既に頗る粗野だつた。お役人であり学校の校長でありながら市井を徘徊する勇肌な兄哥達の如き口吻だつたので、何時とはなしに「ドクトル・ベランメー」の渾名を奉られてゐた。廃校以来、官を辞し公職を避けてすつかり読書に没頭し書斎人と化し了つたが、漢、独、英、蘭の諸書を亘つて読み耽り晩年には佛経を渉獵して読破一萬巻に至るとは又奇人の名を辱かしめぬものである。嘗て政府当路者彼に学位を授けんと人を遣はして内意を伝へたところ、余は博士號などに用なしとて恬然受けつけなかつたといふ。其他人を驚倒せしめる幾多の奇行を残して明治四十五年三月一日病没した。時に七十有一歳。
表紙には、「柳塘遺影」とあり、内表紙には、さらに「長谷川保定撮影」とある。奥付には、「昭和九年十月二十日発行 定価金拾円 撮影者 長谷川保定 著作兼発行者 山口梧郎 発行所 長谷川泰遺稿集刊行会」などとある。25.3センチ。
序文‥‥編者
題辞‥‥子爵 石黒忠悳先生
長谷川家系譜
先生の御履歴
済生学舎の事歴
一、明治九年四月九日本郷区元町一丁目十番地ニ創立
ニ、同十五年一月同区湯島四丁目八番地ニ移転拡張
三、同三十六年八月三十日廃校
四、卒業生徒延総数約二万五千人内東京ニ於テ受験医術開業試験ニ及第シタルモノ九千六百二十八人地方ニ於テ受験及第シタルモノ約四千人。
写真目次
先生五十歳の肖像
壮年時代の石黒子爵
先生明治十三年の写真
青年時代の長井長義博士
先生四十二歳の写真
最後の真影
夫人柳子刀自
済生学舎開校願書
先生の遺墨
夫人の遺墨
済生学舎職員
卒業生
コツホ博士歓迎会
同其ニ
葬列聖堂前を過ぐ
葬列谷中斎場に着す
塋域
銅像除幕式
銅像
追悼会
下は、「序文」〔「昭和甲戌新秋 保定識」とある。甲戌は、昭和九年。〕の最初。
父は性来写真嫌いなりし故其の肖像の少なきは遺憾なれども旧知の方々より贈られたる珍貴なる御写真や記念すべきものを蒐めて一部の写真帖となしたり。
なお、紙質が違い内容は同じもので、翌年〔昭和十年七月二十日〕発行の『柳塘遺影』もある〔下は、その表紙〕。