スキー發祥當時の思ひ出
-レルヒ少佐に親しく指導を受けた頃ー
陸軍大佐 鶴見宣信
今を去る二十餘年前、墺國杉村公使の盡力が因となり、高田第十三師團は墺國參謀フォン・レルヒ少佐(現少將)を敎官として迎へ、日本スキー史に輝く第一頁を踏み出したことは人も知るところ、當時同師團に在り、レルヒ少佐に直接指導を受けられた鶴見閣下に請ふて、スキーの驚異を日本人として最初に満喫された當時の模樣に就き、具に物語つて戴きました。
(記者)
◇
◇レルヒ少佐大汗となる
最初、レルヒ少佐にスキーの指導を受ける將校は十人だけといふことであつたが、十二個中隊ある中で一師團から一人づゝ選抜してゐると、二個中隊が餘ることになるので、苦情が出たから十二將校となり、また騎兵、砲兵、輜重兵からも三人、それに聯隊長堀内大佐も加はられたので、意外の大勢となつた。困つたのはスキー具で、前に十臺程、陸軍砲兵工廠に注文したのは到着してゐたが、それでは足りなくなつた。レルヒ少佐に話をすると自分のが四、五臺有るといふのでそれを借りても未だ足りない。ーそこで慌てゝ當地の大工に賴んで作らせたやうな次第であつた。‥‥
さて其の第一日、明治四十四年一月十日の午前八時半に、レルヒ少佐は一分の違ひもなく、時間キツチリに、營庭に整列して待つ日本將校達の前に姿を現した。
三、四尺の雪が、營庭を眞つ白に埋めてゐる。
そこで一場の挨拶をレルヒ少佐がやつて、愈々實習となるのだった。通譯は取敢ず現子爵の山口參謀が受持つことゝなつた
ー先づ一同にスキーを持たせ一列に立たせた。そして、
「メテレスキー」といふ。‥‥山口參謀は難しい顔をしてもじもじ遣 や つてをつたが、軈 やが て「スキーを附け!」と言つた。山口參謀は佛語が解るとはいへ、スキーテクニックは耳慣れてをらぬので、大分面喰つたらしかつた。
ところで、「スキーを附け!」だが、その號令が掛つても、一同はたゞ困つた顔附をしてマゴマゴしてゐる。それも無理はない一體何 ど うしてスキーを附けてよいものか、それが第一の疑問であつたのだから。
「オイ山口君、解らんぢやないか、穿き方を説明して貰はんことには‥‥」
「成程左樣だナ」といふことで、それからレルヒ少佐に實演して貰ふ。左足を金具に通し、後で締 し める、其前に踵 かかと の 邊 あたり に金具があるが、其の高い所へ足をもつて行つて、コンコンコンと靴をニ、三度叩いてから靴を突込むといふわけ。此のコンコンコンは何の爲かと大分不思議であつた。
それを眞似 まね て皆がスキーを穿くとレルヒ少佐は一人一人を丹念に點檢して廻つて正しく改める。漸くそれが出來る樣になると、少佐は列の前に立つて、
「オテレスキー」と言ふ。ハヽア、これはスキーを脱げといふことだナと、今度は通譯されぬ前にも容易に想像された。
それが濟むと、亦もや號令が掛つてスキーを穿く、脱ぐー其の同じ動作を七、八度も繰返したであらうかー日本人は一度敎へてみて工合が良ければそれで止めるが、外人の物事に徹底せねんば止まぬ氣質の現れで、如何にも念入りな敎へ方であつた。終りには此方 こつち も可笑しくなつた位で、然もレルヒ少佐は汗だくとなつてしまつた。第一日の午前中はそれだけで終り、午後は雪の上を歩くに就 つい ての説明がある。‥
一本の長いステツキ(アルペンスキーは兩杖ではない)を横に寢せて、それを押しながら歩くので、それを先づレルヒが試みてみせて一同にやらせた。皆一列となり營庭を歩いて廻る。
兵舎の窓といふ窓は、見物の兵士達の頭で眞つ黑に埋 うづま つてゐる。
營庭の中央に小さな溝があつた。堀内聯隊長が先頭に立つて其の溝にかゝると、物の見事に引つ繰り返つてしまつた。するとレルヒ少佐は笑つて、
「聯隊長殿、轉 ころ んでは不可ません」
其のあと、また誰も誰も其地點に掛ると尻持 しりもち を突く。「尻を落しては不可 いけ ません」で、またまた大笑ひ。
◇一同閉口のこと
第二日目。
此の日も午前八時半に一同は營庭に集つた。そして漸く我々は、スキーの金具にコンコンと靴を當てゝ叩く意味が解つた。靴に附着してゐる雪を拂ふ爲めであつたのだ
廣い練兵場のたゞなかで、前日の復習をやる。靴が埋まらずに、新雪の上を歩くのは初めてのこととて、兎に角驚異と興味とを覺えるのであつた。さういふ風に練兵場を歩き廻ると、レルヒ少佐は「今日は山に登ることゝしよう」と言ふ。それから少佐は私に向つて、
「君と山口大尉と何方が古參だ?」と訊く。で、私は
「僕の方が一年ばかり古參だ。」と答へる
「それならば、君と山口大尉と通譯を交替せよ、新參の方で古參の將校に号令を掛けることは、軍規上宜しくないから」と少佐は力説するのであつた。然し僕は、
「それは少しも構はぬ。何も山口君が僕に號令を掛けてゐるものとは思つてゐないのだから‥‥‥」といふのだが訊かない。
此の事を山口大尉に話すと「それは尤もだ。早速君と代らう」と言ふ。「イヤさうしなくともよい」と私は固辞したが「實は通譯の役は苦しくて閉口してをるのだ、代つてくれ」と拜むやうに言ふ。「それなら」といふわけで、私は山口大尉に代つて、通譯の任に當ることゝなつたのである。レルヒ少佐は、英、佛、獨語を自由に操り得る人であつたので、私の知つてゐる英語を話して貰ふことゝなつた。
さてそれより亦一列になつて練兵場を過ぎ、陸軍墓地の裏の山へさしかゝつた。するとレルヒ少佐は言ふ。
「今は山が左だ、ステツキを左の方に持て!」
それを聞いた一同はキヨトンとした顔附をして、腹の中では、山が左だなんて變なことを言ふものだと思つてゐる。
レルヒ少佐は先頭に立つて雪の上を登つて行く。それから今度は「山は右だ!」でステツキを右に持ち變へ、卽ちキツク・ターンで電光形に登つて行つた。僅か百五十米位の山だが、一同はもう汗だくだくとなつて少佐の後から漸くの思ひでついて行つた頂上に着くと、レルヒ少佐は至極洒々とした容子で、自分の着てゐた毛皮附の暖かさうな外套を脱ぎ、堀内大佐の肩に掛けてやつたものである。
然るに堀内大佐は大汗で、頭からぽツぽと湯毛を出してゐる位なので、慌てゝ脱がうとするとレルヒ少佐は遠慮と感違ひをし「オー、オー」と言つてそれを押し止める。
其の大きな少佐の外套を羽織つた堀内大佐の姿は、恰で子供が親爺の上着を借りてゐるやうで、奇抜な漫畵的光景であつた。
それから山を滑つて降る説明に移る。
「眞つ直に降りるには右足からでも左足からでも良い。今、左足から説明する、初めは一歩踏出し、右足を輕く出して兩足を揃へ、上體を心持前に掛ける、重心は後に七分、前に三分おく。解つたか?」
‥‥で先づ其の手本を示す可く、見るも鮮やかに滑つて見せた。
「巧 うま いもんだなア」
我々は思はず放つた感嘆の聲と共に吸はれたやうに見惚れてゐた。
レルヒ少佐は百米ばかりの下でグルツと横に廻つてぴたりと止つた。そして其處で「解つたか?解つたなら降りて来い。」といふ。然し之を聞いて誰も我から進んで滑らうとするものはない。遂に少佐の指名に依つて、第一に高橋中尉が滑ることゝなつた。だが僅か三尺ばかりも行つたと思ふと引つ繰り返つてしまつた。次は小暮少尉だつたかと思ふがこれも無論轉 ころ んでしまふ。それから堀内大佐が行くと某少尉の身體の上に打つ突かる。叉それに高橋中尉が大佐の頭の上に乗るといふわけで、
「止せ、ひでえひでえひでえ」と、お互 たがひ に言合ひながら、皆してごろんごろんとごろんごろん廻りで降りて行つた。それから叉元に歸つた
レルヒ少佐に「轉 ころ ばぬ樣に降りろ」と叱られながら再び滑ることゝなる。-前に一同の轉んだ大穴が空いてゐて危險だから、今度は一人づゝ滑つた。叉しても、皆してこゝをせんどと轉んだものだが、何しろ一番猛烈であつたのは松本中尉で、雪の中に完全に頭を沒し、足を二本、ニヨツキリと空中に出してしまつた。漸くのことで匍ひ上つたが帽子を雪の中に置いて來た。「何處だ何處だ」といふわけで皆してステツキで突つくもので「有つた有つた」と寶物でも掘當てたやうに拾ひ上げてみると、ステツキの先端に着いてゐるカネの爲に穴だらけとなつてゐる。レルヒ少佐も大笑ひをした
其日は其麽具合で暮れた。
翌くる日になると、少々一同は閉口垂 へこた れ氣味となつてゐる。
ーもう少し何とか樂に敎へて貰ふ譯には行かぬものであらうか。
と、泣言を言ひ出す者さへある。
ーバカな事を言ふナ、敎へる先生は外國人であるのに、我々日本人の身で意氣地なくも弱音を吹くといふことは國辱だ。足腰の立つ間は遣れ!
といふ事に歸着して、一同は勇氣を奮ひ起した。
其朝、練兵場を眞直ぐに出ると前日とは反對に射撃場に向つて左に行き、現今は松林が在るが、其脇の廣場の緩斜面で、滑走の要領を丁寧に敎へられる。基本的に姿勢を正し、手を執り足を執つて指導を受けたので、十米、十五米と滑走が出來る樣になつた。もう餘りひどくは轉ばぬ。
「今日はどうにか滑れさうになつたので有難いが、昨日のやうなのは困る」と私はレルヒ少佐に言つてみると、彼は笑つて、
「初めて、スキーの練習をする人には、第二日目は誰でも高い山へ連れて行くのだ。私の國でも必ず遣るのだ。竟 つま りスキーヤーの度胸試しなのだ」と言つた。
次いで、四、五、六日目と、練習は順序立てゝ着々と行はれた。まる四週間、規則正しくそれは續けられた。たゞ日曜日は課外散歩だから八釜しくなく、愉快に遊んだ。斯くしてアルペンスキー術も一通り卒業だ
最後に卒業試驗が行はれた。
難波山に登る途中の山で、其の頂上から射撃場の邊までレースを遣れといふことになつた。其時、最初に加わつてゐた騎兵、砲兵、輜重兵は旣に落伍してゐた。我々歩兵將校は矢張り足が強い爲めか一人も落伍者は無かつた。
此處で轉んだり引つ繰り返つたりしては卒業出來ないのだから、我々十三人は一生懸命であつた。其の途中「七曲りの險」といつて、一歩誤れば谷底に墜落するといふ樣な險處もある。
レルヒ少佐に私は「一番後から滑つて来て轉んだ人間を見て來い」と命ぜられた。
スタートが切られる。レルヒ少佐も一緒になつて滑つた。私も一同の後について滑つた。流石に誰一人轉ぶ者もない。
斯うしたことが未だ昨日の出來事の樣に私の腦裡にはまざまざと殘つて居るのに、私の當時の知己達が一人去り二人去りして、今はまことに尠くなつた。些か寂寞の感に堪へない。‥‥(談)
ー文責在記者ー
〔蔵書目録注〕
上の文は、昭和九年二月一日発行の雑誌 『旅』 二月號 第十一卷 第二號 通卷一一九號 日本旅行協會 に掲載されたものである。