12月8日午前10時50分
皇居宮殿焼跡
宮殿焼跡地に早朝から20代の男女がつめかけ、散乱している瓦や石の破片の後片付けに精を出していた
彼らは宮城県栗原郡の「みくに奉仕団」という青年団体で、男性55名、女性7名、記録係として参加していた早稲田大学教授木村毅の計63名
戦後皇居が荒れ果てていることを知り、自主的に掃除を申し出たのだ。交通手段も食料事情も悪い中、すべて自己負担で草刈り鎌、シャベル、箒を手に皇居まできた
話に聞いていた華麗な宮殿のあまりにも無惨な現実に、若者たちはしばし呆然としたが、すぐに気を取り直して作業が始まった
侍従次長の木下道雄から彼らのことを聞いた天皇は、ひとめ会ってみたいと思い宮殿跡地に向かう。そうとは知らない若者たちは作業を黙々と続けていた。ふと気づくと、目の前に数人のお付を従えた背広姿の天皇が立っていた
作業の手を休めて整列した彼らに、天皇は礼を言うと、天皇は矢継ぎ早に質問をする
「郷里の農作物の具合はどうか」
「地下足袋などは満足に手に入っているのか」
「肥料の配給は十分なのか」
「今の一番不足しているのは何か」
それに対して代表の青年は、自分の言葉で実情を正直に答えてゆく。戦前は事前にさまざまな事柄が決められていて、天皇といえども(天皇だからこそ)聞きたいことを質問できるわけではなかった。天皇は新鮮な気持ちで若者の話を聞いた
「国家再建のために、たゆまず努力してもらいたい」天皇はそう語りかけ、最敬礼する青年たちを後にして歩きだした。ところが、しばらく行きすぎたところで足はぴたりと止まった
青年たちが「君が代」を歌い出していた。小さな声が徐々に合わさり、次第に大きくなってゆく
当時「君が代」は禁止されていたわけではないが、国旗掲揚がGHQより事実上禁止されていたので、人前で歌いにくい雰囲気があった
天皇も側近も、終戦以来はじめて「君が代」を聞いた
若者たちは天皇が「君が代」を斉唱している間に還御すると思っていたので、天皇の足が止まってしまったことに驚く。君が代は二回繰り返すのが慣例となっていたが、おみあしをお止めしては畏れ多いと一瞬躊躇したものの、さりとて途中でやめるわけにもいかず、そのまま歌いつづけた
目の前には瓦礫に埋まった宮殿の焼跡、そして天皇陛下。万感極まった若者たちの声は涙で途絶えがちとなり、最後の方は消えゆくようだった
天皇は最後まで「君が代」に耳を傾けた。天皇の治世が永く続きますようにと願う平明な歌詞が、その場にいた全員の心を強く揺さぶる
宮城県栗原郡「みくに奉仕団」の話が新聞に紹介されると、全国から志願者が殺到し、宮内省は嬉しい悲鳴をあげた。その後、皇居勤労奉仕は絶えることなく現在に至っている