るるの日記

なんでも書きます

昭和天皇・終戦以来はじめて宮城県栗原郡【みくに奉仕団】の歌う「君が代」を聞く天皇陛下

2021-04-01 19:19:57 | 日記
12月8日午前10時50分
皇居宮殿焼跡

宮殿焼跡地に早朝から20代の男女がつめかけ、散乱している瓦や石の破片の後片付けに精を出していた

彼らは宮城県栗原郡の「みくに奉仕団」という青年団体で、男性55名、女性7名、記録係として参加していた早稲田大学教授木村毅の計63名

戦後皇居が荒れ果てていることを知り、自主的に掃除を申し出たのだ。交通手段も食料事情も悪い中、すべて自己負担で草刈り鎌、シャベル、箒を手に皇居まできた

話に聞いていた華麗な宮殿のあまりにも無惨な現実に、若者たちはしばし呆然としたが、すぐに気を取り直して作業が始まった

侍従次長の木下道雄から彼らのことを聞いた天皇は、ひとめ会ってみたいと思い宮殿跡地に向かう。そうとは知らない若者たちは作業を黙々と続けていた。ふと気づくと、目の前に数人のお付を従えた背広姿の天皇が立っていた

作業の手を休めて整列した彼らに、天皇は礼を言うと、天皇は矢継ぎ早に質問をする
「郷里の農作物の具合はどうか」
「地下足袋などは満足に手に入っているのか」
「肥料の配給は十分なのか」
「今の一番不足しているのは何か」

それに対して代表の青年は、自分の言葉で実情を正直に答えてゆく。戦前は事前にさまざまな事柄が決められていて、天皇といえども(天皇だからこそ)聞きたいことを質問できるわけではなかった。天皇は新鮮な気持ちで若者の話を聞いた

「国家再建のために、たゆまず努力してもらいたい」天皇はそう語りかけ、最敬礼する青年たちを後にして歩きだした。ところが、しばらく行きすぎたところで足はぴたりと止まった

青年たちが「君が代」を歌い出していた。小さな声が徐々に合わさり、次第に大きくなってゆく
当時「君が代」は禁止されていたわけではないが、国旗掲揚がGHQより事実上禁止されていたので、人前で歌いにくい雰囲気があった

天皇も側近も、終戦以来はじめて「君が代」を聞いた

若者たちは天皇が「君が代」を斉唱している間に還御すると思っていたので、天皇の足が止まってしまったことに驚く。君が代は二回繰り返すのが慣例となっていたが、おみあしをお止めしては畏れ多いと一瞬躊躇したものの、さりとて途中でやめるわけにもいかず、そのまま歌いつづけた

目の前には瓦礫に埋まった宮殿の焼跡、そして天皇陛下。万感極まった若者たちの声は涙で途絶えがちとなり、最後の方は消えゆくようだった

天皇は最後まで「君が代」に耳を傾けた。天皇の治世が永く続きますようにと願う平明な歌詞が、その場にいた全員の心を強く揺さぶる

宮城県栗原郡「みくに奉仕団」の話が新聞に紹介されると、全国から志願者が殺到し、宮内省は嬉しい悲鳴をあげた。その後、皇居勤労奉仕は絶えることなく現在に至っている

昭和天皇・伊勢神宮行幸・「日本人だなぁ、理屈じゃ割りきれない」

2021-04-01 18:22:40 | 日記
13日 伊勢神宮参拝
以前の参拝ならば、あらかじめ決められたマニュアルに従い、道筋に学生たちが整然と並び天皇を迎えた

今回はどこへも動員をかけていないので、長い沿道が閑散としているだろうと予測していた。しかし実際は違った

だれも動員も指導していないのに、沿道は全部人でふさがり、極めて和やかに天皇をお迎えしていた。それはやはり日本人だと。理屈では割りきれない日本人の血なんだと。。

天皇が姿を見せると、人々は自然と頭を垂れる。多くの人がひしめきあっているのに、伊勢神宮の沿道は驚くほど静かだった

陽気なGHQ関係者も、無礼な米国の記者も、厳粛な雰囲気にのまれて思わず沈黙する

天皇の身の行く末を、連合国の意向に委ね、GHQの指導を仰がねば何も決められない立場の日本。しかしいかなる境遇にあろうと、日本国民にとって天皇は天皇だった。天皇は日本国民を満たしてくださる

引き締まった空気のなか、天皇一行の踏む玉砂利の音だけが響いた

14日 連合国最高司令部より皇室財産の取引停止を命じられ、皇室の財産はGHQの許可がないと処分ができないことになった。要するに皇室はGHQに財布を取り上げられてしまった



昭和天皇・伊勢神宮行幸と剣璽

2021-04-01 17:55:38 | 日記
剣璽は天皇の一泊以上の行幸の際には必ず御動座し、剣と璽が天皇の前後を挟む形で進む。御料車には剣璽を奉安する特別車両があり、宿泊先には屏風を立てて剣璽の間が設けられるしきたりだったが、進駐軍滞在期間は、剣璽を一括して風呂敷に包み侍従が持って天皇のすぐ後ろを進む方式に変更された

昭和天皇・戦争終息奉告白 のため伊勢神宮へ・米国流を取り入れ始めた日本人新聞記者に手をやいた

2021-04-01 17:36:58 | 日記
天皇が伊勢神宮へ参拝したいと言い出したのは10月半ばだった。11月12日から15日まで三重・奈良・京都へ行幸する

GHQ側は『神風特攻隊』や『玉砕』など、欧米人には理解し難い日本人の死生観について、国家神道の強制により生じたものと考えていたので内大臣である木戸は不安だった。恐る恐るGHQへ連絡すると、案外あっさり許可が下り、伊勢神宮への行幸が実現する。しかしそれからが大変だった

戦後初の本格的な行幸だというのに、今までとは全く勝手が違う。まず列車ダイヤさえGHQにお伺いを立てなければいけない。皇室専用車両も取り上げられていたので、こちらもGHQにお願いしないといけない。さらに面倒なのは新聞記者の扱いだった。米国流を取り入れ始めた日本人記者には手を焼いた

天皇一行を乗せた列車は、被災地域に入ると徐行する。この地獄のような光景がどこまで続くのか。。。
天皇は窓の外を食い入るように見つめていた

午後5時10分。伊勢神宮のある宇治山田駅に到着した。日の暮れた沿道には多くの人が天皇を出迎えた





昭和天皇・GHQへの接待・会話の段取り

2021-04-01 16:20:49 | 日記
春になり鴨がいなくなると、下総の御料牧場、夏は長良川の鮎漁と接待攻勢は続く。高松宮邸でも少人数の晩餐会が繰り返し開催された

高松宮妃によれば
「彼らは天皇の弟に招待された、ということが余程嬉しかったらしく、目を輝かせてお出でになりました。。
会食しながら宮さまが陛下について、いろいろな逸話を交えてパーソナリティーを紹介する。それに松平さんや加瀬さんが、『陛下は一貫して平和を探求していらっしゃる』と付け加える。そうゆう段取りで食事を進めていったのですが、彼らはそれを熱心に聞いて、みんな陛下の支持者になっていったようです」

王室を持たない米国人は、それゆえに天皇や皇族への憧れがあり、無邪気な彼らはそれを隠そうとはしない。皇室にゆかりのある方々とお目にかかれる機会があれば誰もが素直に喜んで出席した。地味な接待作戦は皇室への理解を深めてゆき、GHQ内に皇室ファンを増やしていった

複雑な感情を封印して、にこやかに振る舞い、連合国軍側の出方や思惑を知り、こちらの真意をさりげなく伝える接待作戦。万事耐え難きを耐え忍び難きを忍び、歩んでいかねばならない