るるの日記

なんでも書きます

心は内臓と、五感による感覚作用が動かす

2021-04-24 17:27:33 | 日記
■鈴木大拙・霊性
私たちは、物と心、物質と精神など、二元的に二つに分ける考え方をやっていますが

しばしば、物の中に心が浸透しているとか、逆に心の中に物の影が浸透しているとか、物を見ているのか、心の動きを見ているのかわからない場面もあります

その場合、単に精神が動いているというよりも、霊性が働いていると考えた方がいいです

霊性とは、悟りや、無意識です
つまり、二元的に分けない考えの中に無意識に自分で入ったりする、そうゆう心の状態が霊性です

■1 心は内臓が動かす
※ストレスでいろんな身体状態に
※集中するとき無意識に息を止めて、肺の働きを停止して、集中する

2 五感が自分以外に触れて感覚作用が反応し、心を動かす

3 つまり感覚作用と内臓の二つが、一つの心を動かします。その二つが区別できない状態が鈴木大拙がいう霊性に1番近いと考えます
るるはいつも区別できない状態だが、普通はみなさん区別できているのかな🤔


娑婆の縁がつきたとき、ひとりでにあの世へいけばいい

2021-04-24 16:13:50 | 日記
親鸞・死についての考え方

「娑婆の縁がつきたとき、ひとりでにあの世へいけばいい。別にそれ以上のことはない」

これは、ふつうに、皆がそうゆうふうにしていること。信心を持とうが、持っていまいが、一人で病気になって、一人で死ぬときは死んでいく。みんな

でもこれは、もっとも偉大な死についての考え方だ。源信から始まって死に価値を重く置くようになり、この人は病的だとしか思えないような(一遍のような)死の専門家たちの言説を見てきて、親鸞まできて、やっと普通の人が普通にやっている死に方の結論に到達している

一遍は浄土宗の信仰を大衆化したが、一遍の考え方は大衆的ではない。やはり死の専門家の専門的、病気に近い考え方です



日々報道される問題には緊急課題と裏に永遠課題を持つ。一緒に問題提起し解かねば明るい未来はない

2021-04-24 15:43:45 | 日記
■起こってくる問題には全部
永遠の課題
緊急の課題
がある

■緊急課題には永遠課題が、
永遠課題には緊急課題が
含まれている
一緒に問題提起し、一緒に解かなければ、十分に解いたとはいえない

■死につつある人にとって
緊急課題は、目前の死
永遠課題は、浄土へ行くか。輪廻に還るか、さ迷うか
というように、重なってでてくる

■死に直面したら誰にとっても緊急課題であり、同時に永遠課題である
浄土教の始祖たちはその緊急かつ永遠の課題を、【死は生の高次元に高次化したもの。次元の高くなった生。生の延長戦上なんだ】と考えて、そうゆう考え方が可能なためにはどうしたらよいかを一生懸命考えて、固有の解決の仕方にたどりついた【念仏、極楽往生】

■目の前に展開される、あるいは日々報道されるさまざまな問題は、全部、緊急課題と裏に永遠課題を持つ。それを両方の面から解いていかないと、現在から未来に向けての幸福は成り立たない。またどんな試練があろうと現在から未来に耐えていける考え方は成り立たない
★新型コロナ問題
★眞子さま、小室圭さん問題



死はよくわからないから、つきつめていく

2021-04-24 15:01:32 | 日記
身体の死
人間の身体は、一ヶ所だけで「はい、死にました」とはならない。死はある瞬間に死んだとはならない
時間の幅がある
一部は死んでも他のところはまだ死んでない、というかたちをとりながら、幅でもって死んでいく
死というのはなかなかうまく確定できない

医者は医学的に蘇生不可能だというところで「はい、死にました」と言うけれど、その時でも体のどこかの細胞は生きてる

ほんとの死の瞬間は、境界線があるわけではない。死ぬ瞬間はいっぺんには来ない

肉体の死でさえそうなので
精神、心の死とは、どうゆうことか
わからない

そのわからないところを、とことんつきつめた方がいい。そのことで常識的に生と死の境界線だと考えていたその境界線を、どんどん壊すことにつながる

死の方向へ往って
また生の方向へ還っていく
ということを自在にできるように
生と死の境界線を自在に越えられるところまで、死とは何かをつきつめていきたい

そして
死の方から還ってくる視線で、現在の自分の生き方が、自分の死の方から照らし出されて見えるまで、死はつきつめることができる


生きながら死ねばいい

2021-04-24 14:29:53 | 日記
■一遍は
「生きながら死ねばそれが浄土じゃないか。家も妻子も執着も持たない。ただ放浪し遊行し念仏を称えて歩け。そうなったならば、生きながらそうやっていること自体が死になり、その場その場が浄土になる」
と言う

これは、はたからどう言っても、それを信じてるのだからしょうがないわけで、どんどんつきつめていきます

■「生きながら死ねばいい
早く死ぬほど早く浄土へ行ける
これは悦ばしいことだ
こちら側には何もない
悟りも救いも何もない
ただ、南無阿弥陀仏という名号
その名号自体に救済がある
こちら側には何もない」

そして逆説を言う

■「妻子を持ち、家も持ち
たくさんの所有物も持ち
普通に生活して、そして名号に帰依することで浄土へ行く。それが一番いい生き方なんだ

一番ダメな生き方は
無一物になって、妻子は持たない、家も持たない、自分のような奴だ
自分のような奴は、何か持っていたらそれへの執着のために、臨終の時に執着が起こって苦しんだり、心配があってしょうがない
だから俺は妻子も、家も、所有物は何一つない
死ぬのが悦ばしいと自分が言うのは、自分がいちばん駄目だからだ。駄目な自分は死ぬのが悦ばしいのだ」

■生粋に、自分を純化して、純化して、純化していく。「もう、早く死にたくてしょうがないんだ」と一直線につっこんでしまう。徹底的で過激な衝撃力

しかし、その徹底的・過激な思想の底に、浄土系統の思想の逆説を言っている自然さが一遍の中にある。それがなかったら、何でもありになってしまう