るるの日記

なんでも書きます

現在、親鸞・道元・日蓮の根本的思想を受け継ぐ宗派はない

2021-04-20 18:55:06 | 日記
■親鸞における【罪と罰】は親鸞思想に繋留されていたテーマだが、そのテーマが根元から無視されてきた

鎌倉時代を宗教改革の時代と捉え法然、親鸞、道元、日蓮の宗教運動が宗教改革を告げるのろしであったとする定説。その定説がわれわれの血流に先入し、歴史を眺める目、宗教を見る目を狂わせてしまっている。だから彼らの思想の根元を見誤る

■親鸞、道元、日蓮の考えが、個の立場による宗教運動であったという見方が

親鸞の念仏
道元の座禅
日蓮の題目

と、個人によって担われた信仰であったという定説ができあがった
鎌倉時代の宗教家に非ざれば、宗教家に非ず」という常識を教えられ、叩きこまれた

■彼らは【民衆のための宗教の開祖】と称された。しかし彼らのものの考え方や信仰のあり方は、最終的に民衆に受け入れられることはなかった。その思想の持つ意味、その信仰にこめられた普遍的な力は理解されず、鎌倉時代のものとして、後に継承されることがなかった

■後に大教団として発展したがそれは、けっして開祖たちの思想そのものを機動力にして発展したものではない❗️❗️彼らの信仰の灯を唯一の導きとして拡大していてったのではない❗️❗️先祖供養を中心とする土着の民衆宗教がそれを支えたのである
葬式仏教の形成が仏教の大衆化を可能にしたのであーる
そして、こんにちにおいても葬式仏教は衰えない
親鸞、道元、日蓮の思想のバックボーンはすでに消滅してしまった
😭


親鸞の悪人成仏は、甘くない

2021-04-20 18:07:53 | 日記
■アジャセは王権の争奪という理性の命ずる正当性の論理を持ち出すことで、父王を殺した。父王は排除されるべき衰耗の老王と考えてその抹殺をはかったのである

しかし犯行後のアジャセの眼前にあらわれてきたものは、思いもよらなかった慚愧の感情だった。身を削るような自責の意識。。

■このアジャセの苦悩を正面から受け止め、その重いテーマを主題としたのが親鸞だった。【教行信証】には巻頭から巻末までアジャセに体現される【悪人成仏】のテーマが響き渡っている

ただ、アジャセという悪人は、決して無条件の【往生】を手にしたのではない。彼が救われるためには【血を流すような懺悔】が必要であった
と、親鸞は強烈なくさびを打ち込む。この打ち込まれた、くさびの存在を忘却するとき、親鸞の【悪人成仏】論は骨抜きになる
懺悔という劇薬で、悪人往生への唯一の回路が開かれたのだ

■しかし親鸞の意図は無視され、闇の中へ埋没していった。そしてアジャセ殺害物語を捨て、美しく彩る言葉の【歎異抄】の【悪人成仏ストーリー】を自意識のドラマとして読もうとする方法が誕生する。自我拡大の物語として読むのである。あらゆる悪の可能性をはらむ人間の自意識物語だ
「善人なをもて往生す、いはんや悪人をや」の悪人は、あくまでもこの可能性をはらむ段階の悪人を指し、アジャセのように現実に父親を殺してしまった戦慄はない。そうでなくて、父親を殺すかもしれない不安におののく恐怖である。誰もが共有することのできるような自意識の恐怖なんだろう

それに対して、実際父親を殺してしまった根元的な憎悪と恐怖は、心安らかに共有することは誰にもできないはずだ。悪から発せられる闇のメッセージに耳を傾けるには至難である。想像力に頼るしかないだろう。それを親鸞は孤独の中でやっていったのだ

親鸞・悪人成仏の成仏除外規定は転換できる

2021-04-20 16:14:24 | 日記
■親鸞は【無量寿経】の除外規定(親殺しは救われない、阿弥陀如来による救い網の目から漏れる)をどのように受けとったのか?

■親鸞はそれを変更の余地ない命令とは受け取らなかった。(だから困難な問題はそから初めて生ずることにもなる)

■もう一つテキストがある
【観無量寿経】においては、父親殺しのアジャセは釈迦の導きによって懺悔し救済される

親鸞は無量寿経の除外規定を前提にしつつ、観無量寿経によって除外規定を転換させようとした。それが親鸞の教行信証の根本的主題であった

■親鸞がやろうとしていることは、悪の認識についての自己の告白ではない。父親殺しという悪そのものにひそむ不可避の戦慄を問題にしているのであり、そこから生じる運命的な恐怖の意味を追及しようとしていた

■それが歎異抄においては消し去られている。悪を犯す可能性という枠組みの中に封じ込められている。そのように歎異抄を解釈するとき、われわれは安心して悪の領域に我を滑り込ませることができ、自意識の中で自己の悪人性について反省、反芻することができる

■このような大きな誤解が歎異抄の理解に居座っていた
人々は、悪人成仏の除外規定を、このときとばかりオウム真理教死刑囚に適用しようとする思考法が、そのことを明瞭に示している



死刑囚という悪人は救われるのか

2021-04-20 15:46:12 | 日記
■日本での親鸞人気は
歎異抄により、われわれ人間はすべて、殺人を犯す可能性があるがゆえに悪人である、という認識や

殺人にかぎらず、愛欲、虚言、盗み等々、一切の反社会的行動の数々を、父親殺しの罪におきかえ、そのような【罪を犯す可能性のある存在】だとする自己認識させたこと

■しかし、教行信証に語られる父親殺しは、すでに殺人を犯してしまった人間の悪を問題にしている

だから親鸞が追及しようとしている悪人成仏は、罪を犯す可能性をもつ悪人の救いではない。現実態の中の悪人の救済、、死刑囚のような現実の悪人救済をめぐる問題であった

この悪をめぐるテーマは、仏教発生以来決着のつく事柄ではなかった。

父親殺しの罪を犯したアジャセを、自己と同一化した親鸞

2021-04-20 15:29:34 | 日記
日本で、仏教での悪の問題を正面から取り上げて論じたのが、13世紀の親鸞であった

親鸞主著【教行信証】には、父親殺しと悪人成仏のテーマが集中的に論じられている
ここで親鸞が考えようとしているのは、父親殺しを犯してしまった人間の救いである。それが父親を殺したアジャセの根本問題であった

それは父親を殺す可能性のある人間の悪や罪でなく、気がついたとき、すでに人を殺してしまった人間の、罪におののく姿が第一の対象になっている。そのような悪に手を染め罪を犯してしまった不安と怖れ。それは、、、同時に親鸞のものでもあった。親鸞は自己とアジャセと同一化した

■歎異抄
歎異抄においては悪人成仏において、アジャセ父親殺しのテーマは欠落している

【善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや】にはアジャセの父親殺しは射していない。少なくとも限りなく曖昧にされている

歎異抄は父親殺しというリアリティーを失った悪人成仏論である