るるの日記

なんでも書きます

水戸藩・なんか楽しそう、、【城中の大評定】

2021-04-05 17:16:12 | 日記
勅書返納の幕府の最後通牒を受けて、慶篤は水戸の斉昭に急使を飛ばした。勅書返納の勅命がある以上、返納は前提である。だが朝廷と幕府のどちらに返納すべきか指示がない。安政6年年末議論は沸騰した。家老らが夜を徹して議論した、、が、決まらない

20日、元家老の大場、岡田、武田を含めて、番頭、弘道館教員までを集めて衆議を尽くして決定しようとした。これは3~4日続き、この間は少年の書生どもも数十人参集して要人たちに意見を吹っ掛けて回った。まさに危機に臨んで言論沸騰というところだろう

結論が出た。幕府ではなく、【朝廷直納】が多数意見だった

激派はこれに同意のはずはない。だが激派リーダーは謹慎させられ議論には参加できない。それに彼らは藩を見限って井伊大老暗殺計画に専念するようになっていた

水戸藩・勅書を返納しては天皇に済まないと、返さない斉昭

2021-04-05 16:00:26 | 日記
幕府の方針としては、水戸へ下された勅書そのものを抹殺したい。それには幕府に返納するよう、朝廷から水戸藩に命じてもらうのが早道だ。すでに2月に、老中・間部詮勝が画策して返納を命じる勅書を得ていた

ところがその勅書には「幕府もいずれ鎖国に復すと考えていることが判明したので、朝廷の疑念も氷解した」とあり、井伊の意に沿うものではない。だから水戸にも伝えず内密のままにしておいた。そこで井伊は長野主膳を派遣して、さらに工作させ11月19日改めて次の勅書を得た

12月15日登城した慶篤に井伊が勅書返納の朝命を得たことを伝え、3日以内に幕府に返還するように最後通牒を発した。翌日は安藤が藩邸に来て返納命令に違反すれば水戸藩が違勅の罪で処罰されると威嚇

ここから水戸藩の藩論は紛糾・分裂して、藩政が動かない状態に陥る。観念は時に法外な力を振るい、本人たちを追い込んで困憊させるということが起こる

すでに10月に勅書は江戸藩邸からはなくなっていた。水戸に蟄居の斉昭が勅書を内密に水戸に運ばせたのだ

斉昭手記に言う「勅書を下されたことは当家の冥加なのだから、諸藩回達のことは幕府の指示どおり差止めにするが、返納しては天朝に済まない。また当家にも代々にたいして済まないことだ。よって返納は御免願う」

斉昭は勅書を懐に抱えて幕府と相渉るしかない立場に自らを追い込んでしまった。これが事態を余計に紛糾させることになる



水戸藩・勅書の存在意義は、神器のようなものか

2021-04-05 15:24:35 | 日記
安政5年8月に天下ってきた水戸藩への勅書。今や諸藩への回達など到底望めない。代わって勅書の返納について、朝廷か幕府か、これが幕府と水戸藩の最大の焦点となる

今やただの紙切れに過ぎない。だが水戸藩にしてみればこれに「尊王」の一事が懸けられている。懸けられているから、尊王が観念化して先鋭化する。尊王攘夷が染み込んだ水戸藩士にしてみれば、今や【御一品】と呼ばれ、勅書の存在することが目的となる。そこに幕府が付け入ってきた

水戸藩・水戸の大獄クライマックス

2021-04-05 15:10:37 | 日記
■水戸の大獄は安政6年8月27日をもってクライマックスに達した

★斉昭
前年7月の処罰に加えて国許永蟄居
処分理由は表面的には幕府を差し置いての京都工作。その背景に「後ろ暗い方策あり」と断罪

要は水府陰謀への幕府の反撃だった
しかも5月から衰えない領民の蜂起

勅書を受けとったことは罪状ではなかったが、勅書伝達断固阻止の意思表示ではある

★慶篤
差し控え

★慶喜
隠居謹慎

★家老・安島帯刀
切腹
尊王攘夷派の行動隊長格

一橋慶喜の将軍継承を芽根伊予之介と共に鵜飼父子に伝えて入説させた

昨年7月薩摩藩士・日下部三次上京時に、鵜飼と申しあわせて、容易ならざる義を堂上に入説させた

京都で奸計(悪だくみ)を廻らし公武確執に及んだ

★芽根伊予之介
死罪

★鵜飼吉左衛門
死罪

★鮎沢国維
遠島

■幕府でも既に1年前、激派に同情的な、江戸家老3人が隠居を命じられ、人事一新されていた

■8月28日、井伊側近・安藤信睦(のぶゆき)が水戸藩取締役に命じられ、9月8日に小石川藩邸にやって来て、小金から八幡へ繰り出した士民の解散を命じた。以降しょっちゅう顔を出す
10月には小金勢解散
慶篤の差控え処分も解除された
安藤は江戸の水戸藩の取り込みに成功したのである

■以降、慶篤は幕府の意向に沿うようになる。その現れが【激派の処分】である
高橋、金子、野村らが水戸へ返され、さらに蟄居などの処罰が下された。さらに水戸の叛乱を煽動したとして高橋らは藩政から追放された。彼らは以降密行して、薩摩藩士などと井伊直弼誅殺の某議を余儀なくされた

士分百姓にいたるまで、無許可出府厳禁された




水戸藩・会沢文書・藩の改革よりも斉昭への忠告だった

2021-04-05 14:17:44 | 日記
【威義二公以来の、我が藩の忠孝のもとに団結せよ】と呼びかけるよりも、【我が藩滅びても苦しからず】というように、今の我が藩自体が危機を持ち、それを改めて改革させねばならない、という視点がない

政治体を誰がどう変えていくか、会沢文書が向かうのは、やはり終始【斉昭】なのである

水戸の叛乱はもう鶴の一声では、左右できない段階にあるのに。。
激派の軽挙妄動には、一片のリアルがあるはずなのに。。
会沢は文書の焦点を斉昭の方に移してしまう

斉昭の名によるリアルは党派的な意味を帯びてしまい、会沢の冷徹な情報認識のリアルを転覆してしまいかねないが。。

政治体の内部分裂が初めから党派闘争であっていいはずはない。会沢は会沢派頭領でなく、だから政治文書が政治集団に結び付かない。党派が自己権力を打ち立てることを通じて藩を変える、という片鱗も見えない