るるの日記

なんでも書きます

時代による命の価値

2021-04-17 18:41:48 | 日記
戦国時代は命をたいへんに粗末にしている。腹切、首をとる、焼き討ち、仇討、、

太平洋戦争も、命を粗末にしている。特攻隊は行きの燃料しか飛行機に入ってなく玉砕が使命。(特攻を命令してる奴は会議室。悠々自適だが、、)

しかし、これらは命を粗末じゃなくて
「命をかけて行う」なんだが
だけど、上からの命令

上からの命令で仕方なく命をかけてとなると哀しいから、洗脳された「お国のため」という忠誠心を死の意味とした。死の尊厳とした。みんなニコニコしていた。。健在意識では納得できていた

、、現在は「命の尊厳」とか言って、命の価値が高まり過ぎていて、命がけで何かに取り組む情熱がわかないぎみ。感染して死んだら大変だと右往左往する。。そろそろ命の尊厳だけでなく、戦国時代や太平洋戦争時代のような「死の尊厳」も教えてほしい。なぜならば死なない人間なんて一人もいないから。



織田信長の不安は信仰心による団結力か?本願寺(浄土真宗)と比叡山(天台宗)

2021-04-17 17:36:36 | 日記
元亀元年
♦️4月25日
前田利家、信長の軍に従い、越前手筒山城を攻める

先、金ヶ崎城を攻める。しかれども敵の勇士数多籠り攻めあぐむ。福富平左衛門を使として走らせる。福富先陣に先立て敵に向かう。両者とも真っ先に槍を合わせその勇力を表し、敵味方入り乱れ火花散って功戦。兵どもさすがに勇士なれば、一人も不残討死をこそ仕たりけれ
首数1370余
幕下の実験による

2か月後

♦️6月22日
織田信長、浅井長政を小谷城に攻めるが、急に軍を収める
この役、前田利家奮闘し家臣・村井に功あり

♦️6月28日
織田信長、浅井・朝倉二氏と近江姉川に合戦す
前田利家戦功あり

信長、馬廻りに身を守らせながら浅井を突撃。その時小姓衆、我も我もと押しかかる

その中に利家公まっ先におしかかり、浅井助七郎と鎗を合わせ助七郎を突き倒し、首押っ取り、見参

♦️9月14日
前田利家、織田信長の摂津大坂城攻撃軍に従う

本願寺と申す者、都・東山大谷という所に親鸞開山の御廟所有。親鸞から五代まで大谷にましまし。六代蓮如より足利義政時代に、大阪に本願寺建立、移りまします

その後顕如上人時代、要害を構え、公方、武家共に本願寺へ寄進させ、在在所所まで押領す
信長公、安からず思召して、多勢をもって大阪を攻めさせる

城中より下間輿四郎と名乗る者、勇をなし、機を計り城中から一面について出、味方は破れ軍に及びそう。。しかる所に前田利家一人鎗をかまえ、踏み留まりて待つ。城中の人、これに臆してとどまる所に、毛利河内・湯浅甚助・中野又兵衛など鎗を合わせ、突き、ふせ、首とる

♦️同じ9月
前田利家、織田信長の命を受けて比叡山を攻める

今年、浅井・朝倉は比叡山に楯籠

越前の朝倉義景、近江の浅井長政は上方へ登る。比叡山の衆徒も味方するとの飛脚到来す。信長公驚き都を破られては大事なりと、大阪を引取り坂本へ出向かう

信長公より比叡山へ使者を立、こちらに味方せば安堵する、さもなくば比叡山を滅却すべし、と有けれど山法師共聞きも入れず

信長公は腹を立て、これにより翌年の9月、信長公は人数を遣わし比叡山根本中堂をはじめ、堂社仏閣ことごとく焼佛。僧堂寺院一軒も不残。三千余人を追い出しなで斬り
ひとえに焼け山と成る



前田家の家督相続争いも、信長御意にて解決する

2021-04-17 16:06:31 | 日記
■永禄11年10月
前田利家、兄・利久に代わりて宗家を継ぎ、二千四百五十貫食む

♦️利家兄・前田利久、父より宗家継ぐが、利久は若年の頃から跡継ぐのは難しいと思われていたし、子供もいなかった
それで、弟の娘を養子に、瀧川左近殿の甥・慶次殿を入婿にさせた

そのことを聞いた信長は
利久の知行を利家に渡せと言う
「前田の家、他家へ渡す儀、無用也」

前田利久は信長公の御判にて城を明け渡し御隠居になられた。城代の奥村は在郷に蟄居して罷免。柴田は利家公に申し上げた「奥村は比類なき功の者なり。召しあげられよ。万事前田家のためなり」

前田利久、城をお渡しの時、利久の妻は腹を立ていろいろ呪い事をめされた

前田利家 織田信長の友人を斬る・・男の嫉妬♥️

2021-04-17 15:16:46 | 日記
★天文20年正月
前田利家(14歳)初めて織田信長に仕え、田五十貫を食む

★8月
前田利家、初具足着
織田信長に従いて、尾張海津の戦いに首級を得る

前田利家元服して、孫四郎利家と称す。織田信長の伯父・津田孫三郎信家が烏帽子親。故にその名をとる

★弘治2年8月24日
前田利家(19歳)、織田信長の軍に従い尾張稲生に戦い、敵将宮井恒忠を斬る

★永禄元年7月12日
前田利家(21歳)、織田信長に従い、敵首を得る

♦️永禄2年6月
■前田利家(22歳)、織田信長の同朋・十阿彌を害する

■永禄3年5月19日
前田利家(23歳)私的に(勝手に)桶狭間の役に出陣。敵首を獲て織田信長に献じる

私的に出陣はなぜかというと
信長公の御内・十阿彌と云う坊主、利家の「かうがい」を盗み取る。その御成敗可被成(裁許)のありかを、信長公があつかい、裁許の結果十阿彌は赦免になる

それを十阿彌は鼻にかけ利家公を影にてそしるを聞かされて、利家公やぐらの下にて十阿彌、出合一討に被成
信長公腹を立て、利家公を勘当にて蟄居させた。その蟄居中、利家公この桶狭間の役に勝手に出陣する

利家公、敵首を取って信長公に出しても、信長公御言葉もかけてくれないので、利家公は田の中へ首を捨て、、かけても、、御言葉なし

利家公、この戦で討ち死にしようと決心したが死ねず、逆に又敵の首を取る。また取った首を投げ捨てかけた時、信長公首を御覧なさり、「利家、討ち死にするな」と御意の處

その時また利家首を取りだす
信長公「これへ、これへ」と御意ありて、その首馬上にとらせ、「さてさて日本一の功の者がおる。これを見よ!見よ」と軍兵どもに見せたまう

永禄4年5月13日
前田利家・美濃森部の役に出陣して功あり。織田信長、前田利家の複任を許す


加賀藩史料を読む・織田・篠原・高畠・前田・斯波

2021-04-17 14:00:32 | 日記
■織田信長の先祖
京都尊氏将軍代
越前の国に斯波の管領職で武衛と申す者、越前より尾張へ引っ越す
織田、武衛の家を執権す。これ織田信長の先祖。後に武衛の家絶ち、織田氏、尾張を押領す

織田氏、尾張に繁昌して家盛成り給えば、前田氏も北幕下に属し荒子の城に

■芳春院の家族関係
天文16年・前田利家夫人「芳春院」尾張海東郡沖之島に生まれる
(利家と9歳差
※父・篠原主計・織田信長の御弓頭。父死去後、母親は斯波氏家臣・高畠と再婚。(芳春院は利家の父に養育される)

※(義理祖父?)高畠左京大夫から二代目高畠左京に成って(義理父?)織田氏の家臣となる。この人6人の子があり。総領の高畠左門吉光の妹姫(芳春院だよね)を利家の御内室にならせたまう

■高畠一門法華信者也
信長公代になり安土に日蓮宗・浄土宗争論ありて、日蓮宗不足を欠く。その後高畠一門宗旨替わる。身延山やこれを憤り高畠氏を調伏いたすよし聞こえり。又法華に立ち帰る者もあり