二度にわたる士民と農民の蜂起が水戸藩を【叛乱】に押しやる決定的な力になっているが、これは藩という集団の一翼。一翼に留め置くために藩としては、蜂起した士民・農民の【説得と支援】を続けた
藩と幕府との間でストレスが高じてくると、藩をあげての叛乱の内部に、【意向と行動の分岐】が目立つようになる。尊王攘夷という藩の国是の内実が問いただされてくる。他方で藩の統一と幕藩体制とが破綻するのを危惧する藩主と藩庁がある
これを両翼として藩という集団を維持していくと、内部に政治的な色分けができてくる
小金屯集という士民農民の蜂起。この運動の組織化と指導の位置に立たされたのは、斉昭側近・第二世代の【激派】高橋多一郎や金子教孝らである。彼らは占拠中の民衆の【鎮撫】に差し向けられているが、同時に尊王攘夷を貫徹する場所はここである。鎮撫は同時に先々の展望を訴える煽動でもあらねばならない。軍師・山国兵部から屯集再編構想が出たこともあった。だがこれが実現できる現実性はなく、高橋・金子たちは蜂起の間中ジレンマに立たされ続けた。ジレンマから抜ける方策が、やがて脱藩と井伊直弼誅殺の企てになっていく。激派最先端は藩そのものを変える行動はできず、一斉蜂起にすがって藩の外部へ出て行く他なかった
この大衆運動を生かすも殺すも、その責任は藩にあった。藩政の中心にある【鎮派】こそ危機に直面した藩政を変えていく任務にあったはずである。だが蜂起に対する彼らの方針は【鎮撫】、弾圧でなく説得による解散と退去の勧告でしかない。だから【鎮派】なのだ