るるの日記

なんでも書きます

水戸藩・今日は大河ドラマ【青天を衝け】ですよ

2021-04-04 17:14:08 | 日記
大河ドラマ【青天を衝け】
今日は井伊直弼が天皇の勅許なしで日米修好通商条約を調印するというシーンがある。本と重なるところなので、すごく楽しみ😆

今日初めて知ったのは、井伊直弼を煽る人物・間部詮勝の存在。井伊直弼よりも水戸藩に対して猜疑心大じゃないだろうか間部詮勝、今日は大河に出るかな?

水戸藩・会沢意見書・会沢には水戸学の思想はもう無いのか?

2021-04-04 16:43:30 | 日記
会沢正志斎上書
安政6年8月19日

序文

「勅書を諸藩に伝達せよと申す首謀者は高橋多一郎であるが、この男はことを謀るにその利ばかりを見て害は見ないという性格である。こうすれば必ず成就すると思いこむと、これが失敗することもあるとは気づきもしない。勅書伝達の件もひとえに成就するとばかり見込んでおり、これはかような害があるという点には気づきもしない様子。そこで伝達には害があることの次第を以下に申し上げたい」

高橋多一郎を激派首謀者と名指し内部の敵の峻別をした。会沢と高橋は師弟関係。弟子の不始末以上に、現今の政治的焦点【勅書伝達をめぐって、激派との対立】を宣言して、文章を始める。論点は利害得失の考慮なのだと、政治的立場を鮮明にしている。水戸学の思想はどこにいったの❓️激派の当惑と反発は目に見えている



水戸藩・幕末水戸学先達・会沢正志斎

2021-04-04 16:16:41 | 日記
8月、会沢から長文の意見書が提出された

【会沢正志斎】
幕末水戸学の先達で唯一の長老
若くして藤田東湖とともに斉昭の側近として藩政にあたり、大まかには藤田は政事、会沢は教育という役割分担を担ってきた。激派の若者たち、弘道館の師範たちも、皆会沢の弟子筋。「尊王攘夷」の教えが真っ直ぐに勅書の遵奉、諸藩への回達という結論に導くのは自明のことに思われた。この観念が激派を走らせる

驚いたことに、会沢は意見書で水戸学の思想の議論などは出さない。勅書と大衆蜂起の処理は今や藩という政治体の政治問題なのだ

思想から政治へ会沢は議論の次元をシフトしている。だが、相棒の政治家・藤田東湖はもういない。会沢の政治論は党派的な色合いを強めていかざるをえない

政治文書は時と所を選んで出され、時と所に強く拘束される言説である。政治文書は顕在化し激化する党派闘争の渦中に投じられた

水戸藩・藩の尊王思想という矛盾は【激派】と【鎮派】に分裂する

2021-04-04 15:49:32 | 日記
水戸藩の士民百姓が水戸街道を大挙南上し、長期にわたり屯集

藩の対策は弾圧ではなく、鎮撫による解散しかない。当然ながら鎮撫には理由がなければならない。だが理由を詮索すれば藩論が一枚岩ではないことが明るみにでる

領民蜂起を鎮めなければ水戸藩に対する幕府の締め付けが強化され、これがまた藩論不一致を外部から促進する。水戸藩という政治体が内外から危機に立たさている

水戸藩内では領民蜂起の頭は、金子教孝や高橋多一郎だとの非難が出るようになる。ここに【激派】の呼び名が流通する

【鎮派】は権力への髄順という立場が色濃く出ることになった。水戸藩への勅書の文面から「公武合体・国内治平」が天皇の考えだと断じ、幕府による条約調印と藩主処分に対する疑義などは無視するのである。これが鎮派の極論の一つとなる

水戸藩・尊王攘夷運動を進めながら藩を守ることはできない

2021-04-04 15:00:55 | 日記
二度にわたる士民と農民の蜂起が水戸藩を【叛乱】に押しやる決定的な力になっているが、これは藩という集団の一翼。一翼に留め置くために藩としては、蜂起した士民・農民の【説得と支援】を続けた

藩と幕府との間でストレスが高じてくると、藩をあげての叛乱の内部に、【意向と行動の分岐】が目立つようになる。尊王攘夷という藩の国是の内実が問いただされてくる。他方で藩の統一と幕藩体制とが破綻するのを危惧する藩主と藩庁がある

これを両翼として藩という集団を維持していくと、内部に政治的な色分けができてくる

小金屯集という士民農民の蜂起。この運動の組織化と指導の位置に立たされたのは、斉昭側近・第二世代の【激派】高橋多一郎や金子教孝らである。彼らは占拠中の民衆の【鎮撫】に差し向けられているが、同時に尊王攘夷を貫徹する場所はここである。鎮撫は同時に先々の展望を訴える煽動でもあらねばならない。軍師・山国兵部から屯集再編構想が出たこともあった。だがこれが実現できる現実性はなく、高橋・金子たちは蜂起の間中ジレンマに立たされ続けた。ジレンマから抜ける方策が、やがて脱藩と井伊直弼誅殺の企てになっていく。激派最先端は藩そのものを変える行動はできず、一斉蜂起にすがって藩の外部へ出て行く他なかった

この大衆運動を生かすも殺すも、その責任は藩にあった。藩政の中心にある【鎮派】こそ危機に直面した藩政を変えていく任務にあったはずである。だが蜂起に対する彼らの方針は【鎮撫】、弾圧でなく説得による解散と退去の勧告でしかない。だから【鎮派】なのだ